『棺桶のジャングル』
サイパンの陽は高く、湿り気を帯びた風が密林の奥深くまで吹き込んでいた。観光地からは離れた、地元の人間ですら滅多に足を踏み入れないジャングル。明日香とマヌエルは、汗を拭いながらその茂みに分け入っていた。
「大丈夫? アスカ、こんなとこ、観光客は絶対来ないぞ」
「だからこそ、来る価値があるのよ。……この辺りに、旧日本軍の戦車が残っているはずなの」
マヌエルは小さく肩をすくめながら、手に持ったナタで細い枝を払いのけた。その向こうに、ついにそれは現れた。
鉄錆に覆われ、原型をとどめないほどに朽ちた九五式軽戦車。熱帯植物に半ば飲み込まれ、その姿はまるで森に棲む怪物のようだった。砲塔は小さく、主砲は折れ曲がり、むなしく虚空を指していた。
「……まるで墓標ね」
明日香は足を止め、呼吸を整えた。鉄の棺桶。彼女は戦車をそう呼んだ。中にいた者の運命が、時間の流れと共にこの朽ちた鉄に封じ込められている気がした。
「マヌエル、後部ハッチ……開けられそう?」
「無理だろう。固着してる……待てよ」
マヌエルが砲塔の脇に回り込み、ぬかるみに半身を沈めながら何かを引っ張り出した。濡れた土と苔にまみれた金属箱だった。鍵は壊れ、蓋は開いたままだ。
中には、ボロボロになった軍用手帳があった。表紙にうっすらと読める「北條一等兵」の文字。
明日香の手が震える。手帳をそっと取り出し、ページを開く。かつてインクで記された言葉が、時の侵食に耐えてかろうじて残っていた。
『昭和十九年六月二十八日──敵戦車により前線壊滅。我が戦車、エンジン不調により脱出不能。乗員三名。司令塔にこもる。』
『弾薬、食料ほぼ尽きる。司令塔内にて、自決も覚悟。だが、まだ、生きている。』
『明日、敵が来るか。砲はもう動かぬ。ここは鉄の棺桶。だが、仲間と共に、最後までこの島を守る。』
その筆跡は、驚くほど丁寧だった。生に執着し、死を受け入れ、なお誇りを捨てなかった若者の姿が、言葉の行間から立ちのぼる。
「……この戦車の中で、死んだの?」
マヌエルが沈黙する。
「わからない。でも、俺の爺さんが昔言ってた。日本兵が籠もったまま、ここで何日も動かなかったって。最後は、誰にも知られず、消えたって」
明日香は膝をつき、戦車に手を当てた。鉄の感触は、どこか冷たく、そして温かかった。皮肉にも、それは命を封じた箱でありながら、今も語りかけてくるようだった。
──この場所に来るまで、北條一等兵の名前はどの文献にもなかった。だが今、彼の記録はここにある。
「この人を、記録に残さなきゃ……」
明日香はカメラを構え、手帳と戦車をフレームに収めた。シャッター音が森に響く。
「人間がね、国家の命令で棺桶に入れられて、見捨てられて、それでも命を懸けた。その記録を……ちゃんと遺さなきゃいけないのよ」
マヌエルが木の根に腰を下ろし、深くうなずく。
「戦車の残骸ってさ、兵器のカスだと思ってた。でも中に人がいたんだな……戦って、死んで、名前も忘れられてさ」
明日香はその言葉に答えるように、手帳を包み込み、リュックの奥にしまった。
風が通り抜けた。木々のざわめきが、まるで誰かが戦車に語りかけるように感じられた。
『ここは鉄の棺桶』──その言葉は、戦車の錆よりも深く、明日香の心に刻まれていた。
ジャングルの奥深くに取り残された小さな戦車。その中に閉じ込められた記憶。
それは、国家というものの冷酷な側面と、人間という存在の誇りを同時に示していた。
明日香は静かに立ち上がった。そして、振り返らずにこう言った。
「マヌエル、次は……対空砲のある場所へ案内してくれる?」
彼女の目は、次の記憶へと向かっていた。