表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

『M4の見つめる岬』



 陽光が強く照りつける午後のサイパン島。観光客たちの笑い声が、ビーチの白い砂に混ざって波の音とともに打ち寄せていた。だが、その賑わいから少し外れた岬の先端に、大谷明日香はひとり立っていた。


 彼女は東京の大学で戦争史を教える歴史学者だ。研究テーマは「現地に残された戦跡の記憶と再解釈」。今回はサイパン島にある戦跡を巡り、太平洋戦争の記憶がこの島にどのように残され、また忘れられていくのかを探るためにここへ来た。


 足元の岩場の先、透明な海の中に、錆びついた鋼鉄の塊が静かに横たわっていた。米軍のM4シャーマン中戦車──その砲塔が海上に露出し、鈍い光を浴びながら、まるで島の山稜を睨みつけているかのように突き出ていた。


 「これは……上陸用舟艇ごと沈んだのかしら」


 独り言のようにつぶやいた明日香の声は、潮騒にかき消された。彼女はズボンのポケットから小型ノートを取り出し、記録を走り書く。


 ──M4戦車、砲塔露出、砲身は島方向。推定上陸中沈没、時刻は満潮後。


 傍らにはカメラバッグ。明日香はプロ仕様のミラーレス一眼を取り出すと、砲塔にレンズを向けてシャッターを切った。波が静かに引いた瞬間、砲塔の上部ハッチが一瞬見えた。開いている。彼女の眉がわずかに動いた。


 「乗員は、逃げられたの……?」


 そこにマヌエル・サンタナが現れた。サイパン生まれの若者で、観光ガイドだが、戦跡に詳しいことから明日香の調査に協力してくれていた。


 「アスカ、またここ来てたのか。気になるんだな、この戦車」


 「ええ。だってね……この姿勢、まるで誰かがまだ中にいて、じっと山を見張ってるみたいなのよ」


 マヌエルは岩場に腰を下ろし、戦車を見ながらつぶやく。


 「小さい頃、よくこの戦車に登って遊んだよ。でも、いつからか怖くなったんだ。目が合う気がしてな」


 「“目”ね……この砲塔が?」


 明日香はカメラを下げ、M4の向こうに広がる海を見つめた。だがそこに広がるのは、美しい南の海だけではない。


 ──一九四四年六月、サイパン島上陸作戦。米第2海兵師団の先鋒部隊が、ここから攻め上がった。上陸支援用のM4中戦車が多数使用された。


 だがそのうちのいくつかは、浅瀬のリーフや対戦車砲によって行動不能となり、沈んだ。


 このM4は、その中の一つだった。


 明日香は岩場から降り、波打ち際まで歩く。彼女の頭の中に、まるで幻聴のように当時の兵士たちの怒号、銃撃音、爆発の衝撃が蘇ってくる。


 「記録じゃない、体験に近づきたいの」


 それが彼女の研究信条だった。


 マヌエルが浜辺に目をやり、問いかけた。


 「でもさ、こんなものが観光地の真ん中にあって、誰も何とも思わないのか? アスカ、これ、いいことだと思うか?」


 明日香は少し黙って、波が足元を濡らすのを感じながら答えた。


 「忘れられることは、静かな死よ。でも……ただ残ってるだけじゃ、意味がないのかもしれない」


 ──“記憶の風景”。それは時間に磨耗され、やがて意味を失う。


 彼女は再びカメラを構えた。だがその視線の先には、もはや“戦車”ではなく、“人の姿”が重なっていた。


 固着した砲塔の中に閉じ込められた兵士の姿。叫びも、涙も、誰にも届かないまま海に沈んでいった、名もなき者たちの声。


 明日香は静かにシャッターを切った。その瞬間、遠くに観光船が通り過ぎ、クラクションが鳴った。戦車の砲身は、変わらず山の頂を見据えたままだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ