『M4の見つめる岬』
陽光が強く照りつける午後のサイパン島。観光客たちの笑い声が、ビーチの白い砂に混ざって波の音とともに打ち寄せていた。だが、その賑わいから少し外れた岬の先端に、大谷明日香はひとり立っていた。
彼女は東京の大学で戦争史を教える歴史学者だ。研究テーマは「現地に残された戦跡の記憶と再解釈」。今回はサイパン島にある戦跡を巡り、太平洋戦争の記憶がこの島にどのように残され、また忘れられていくのかを探るためにここへ来た。
足元の岩場の先、透明な海の中に、錆びついた鋼鉄の塊が静かに横たわっていた。米軍のM4シャーマン中戦車──その砲塔が海上に露出し、鈍い光を浴びながら、まるで島の山稜を睨みつけているかのように突き出ていた。
「これは……上陸用舟艇ごと沈んだのかしら」
独り言のようにつぶやいた明日香の声は、潮騒にかき消された。彼女はズボンのポケットから小型ノートを取り出し、記録を走り書く。
──M4戦車、砲塔露出、砲身は島方向。推定上陸中沈没、時刻は満潮後。
傍らにはカメラバッグ。明日香はプロ仕様のミラーレス一眼を取り出すと、砲塔にレンズを向けてシャッターを切った。波が静かに引いた瞬間、砲塔の上部ハッチが一瞬見えた。開いている。彼女の眉がわずかに動いた。
「乗員は、逃げられたの……?」
そこにマヌエル・サンタナが現れた。サイパン生まれの若者で、観光ガイドだが、戦跡に詳しいことから明日香の調査に協力してくれていた。
「アスカ、またここ来てたのか。気になるんだな、この戦車」
「ええ。だってね……この姿勢、まるで誰かがまだ中にいて、じっと山を見張ってるみたいなのよ」
マヌエルは岩場に腰を下ろし、戦車を見ながらつぶやく。
「小さい頃、よくこの戦車に登って遊んだよ。でも、いつからか怖くなったんだ。目が合う気がしてな」
「“目”ね……この砲塔が?」
明日香はカメラを下げ、M4の向こうに広がる海を見つめた。だがそこに広がるのは、美しい南の海だけではない。
──一九四四年六月、サイパン島上陸作戦。米第2海兵師団の先鋒部隊が、ここから攻め上がった。上陸支援用のM4中戦車が多数使用された。
だがそのうちのいくつかは、浅瀬のリーフや対戦車砲によって行動不能となり、沈んだ。
このM4は、その中の一つだった。
明日香は岩場から降り、波打ち際まで歩く。彼女の頭の中に、まるで幻聴のように当時の兵士たちの怒号、銃撃音、爆発の衝撃が蘇ってくる。
「記録じゃない、体験に近づきたいの」
それが彼女の研究信条だった。
マヌエルが浜辺に目をやり、問いかけた。
「でもさ、こんなものが観光地の真ん中にあって、誰も何とも思わないのか? アスカ、これ、いいことだと思うか?」
明日香は少し黙って、波が足元を濡らすのを感じながら答えた。
「忘れられることは、静かな死よ。でも……ただ残ってるだけじゃ、意味がないのかもしれない」
──“記憶の風景”。それは時間に磨耗され、やがて意味を失う。
彼女は再びカメラを構えた。だがその視線の先には、もはや“戦車”ではなく、“人の姿”が重なっていた。
固着した砲塔の中に閉じ込められた兵士の姿。叫びも、涙も、誰にも届かないまま海に沈んでいった、名もなき者たちの声。
明日香は静かにシャッターを切った。その瞬間、遠くに観光船が通り過ぎ、クラクションが鳴った。戦車の砲身は、変わらず山の頂を見据えたままだった。