(6)死神
横浜から越してきた転校生。諫武未花。
死体を見下ろしていたのは彼女だった。教室で振り撒いていた愛想は失せ、鋭利な眼光が香助を貫いた。彼女は、不機嫌に舌を打つと、提げていたモデルガンを……否、最早本物にしか見えないそれを香助に向ける。そして、
「伏せなさい、星野くん!」
そう叫んだ。
指示を理解し、判断できたわけではない。反射的に身を屈めると直前まで頭部のあった空間をひゅっと何かが切り裂いた。同時にぱんと音が爆ぜる。香助は「うあっ」と悲鳴を上げ、無茶苦茶に地面を掻き毟った。
逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。
頭を埋め尽くしていたのはそれだけだった。何から逃げるのか。どこへ逃げるのか。何も理解できないまま四つん這いで這いずった。やがて視界に映り込んだのが、ぐちゃぐちゃに壊れた死体だったので香助は「ぎゃあ」と仰け反った。尻餅を突く香助の傍らには、すらりと伸びた諫武の脚がある。
「……星野くん、君、何でこんなところにいるの」
その声には鉄線を張り巡らしたような緊張感があった。見上げると彼女は両手で銃を構えていた。銃口は今しがた香助が逃げてきたあたりを狙っている。そこには、
「……何、あれ?」
理解を越えたものがいた。
まず脳が認識したのは裸の女、ということだった。一糸纏わぬ女の姿。恐らくその部分だけは――絵画や動画の中だけではあるが――現実に目にしたことがあったからだろう。しかし全体を捉えると途端に理解が崩れていく。
たとえば腕。肩から肘にかけては人間のそれと変わりないが、肘から先は三又に分かれ、一本一本が鞭のように細く伸びていた。先端は垂れ下がり、地面に乱雑な弧を描いている。背には羽のような二枚の器官と、複数の触手。さらに、安定を保つためなのか、両膝から下は大型の獣のように肥大化していた。それら異形の部位はいずれも半透明で、木々の薄暗さの中、微かに青い光を放っている。
――クラゲ人間。
眼前にいるのは間違いなく、三幸来が噂していた怪人だった。
人間の部位には見覚えがある。
「沫波……美月……」
造り物めいた端正な顔立ち。絹のように艶めく漆黒の髪。
沫波美月。
瞳は赤く染まり、両頬には奇妙な光の筋が奔っている。しかし確かに、三幸来のカプセルを拾ってくれた彼女だった。銃を恐れず無造作に立ち、今朝と変わらない表情でこちらを見ている。対峙した諫武が呻いた。
「……そう。彼女、沫波さんっていうの。でも、ああなってしまったら、もう」
ああなってしまったら、もう?
何がどうなっているのかさっぱり分からない。
答えを知る少女は、沫波から銃口を外さない。
「星野くん。どうして君がこんなところにいるのか知らないけれど、逃げなさい。早く」
「あの……え?」
「私があいつを引きつける」
香助は、睨み合う二人の少女を見比べた。
「映画の撮影?」
そして銃身が跳ねた瞬間、沫波美月は既に、数メートル離れた木の幹に張り付いていた、と香助が認識した直後には幹を蹴り、弾丸の如く一直線にこちらへ跳んできていた。
死んだ。
そう悟った。状況が把握できていたわけではない。伸びてくる触手が何を意味するのか判っていたわけではない。ただ迫ってくる影が、そういうものだということだけが理解できた。
死神。
――その美しさに、香助は見惚れた。
「ふっ!?」
次の瞬間、右腕に衝撃が奔った。衝撃は腕を貫き、脇腹に達し、視界を激しく揺さぶった。回転する世界で見えたのは諫武のスカート。綺麗に伸ばされた左脚。その体勢から、香助は彼女に蹴られたのだと知った。諫武は、蹴った反動で横跳びをする。次の瞬間、彼女と香助が立っていた場所を半透明の触手が打ち据えた。ぼっと鈍い音が響き、地面が爆発を起こした。
(うっそだろ)
土と石。砕けた木の根。死体の肉片。あらゆるものが放射状に飛び散る最中、舞い降りた沫波美月と視線が交わった。香助は、改めて死を覚悟した。
だが香助の相手をしている暇はないと判断したのだろう。沫波は、倒れた香助を尻目に、再び地面を蹴った。逆側の諫武を追撃したのだ。一方の諫武も素早かった。後方へ跳ねて木の陰に隠れ、触手の一撃を幹で防御する。さらに、爆ぜて飛散する木片の隙間を縫うようにして弾丸を放ち、沫波を後ろへ退かせた。互いに距離を取り、睨み合ったのは一瞬だった。沫波は、大きく弧を描きながら凄まじい速度で間合いを詰め、右腕の触手で刺突を繰り出した。諫武は側転で回避、着地と同時に銃で応戦するが今度は沫波がスピンで躱す。勢いで放たれた地を這う軌道の横薙ぎを、諫武は後方転回によって逃れた。
反撃。跳躍。回転。疾走。一進一退の攻防。香助は、浅く息を継ぐのに精一杯だった。少女たちが縦横無尽に舞い踊り、互いに死を融通し合う光景を、口を開けて眺めることしかできなかった。
(……一体、何が……)
やがて展開に変化が起こった。沫波が触手を巻き付け、木に登ったのだ。死角となる頭上から攻撃を仕掛けるつもりだろう。彼女は、幹や枝に触手を絡ませながら木から木へと飛び移っていく。
諫武の判断は迅速だった。その場でくるりと反転し、一目散に駆け出したのだ。向かう先には境内がある。拓けた場所なら頭上を奪われる余地は少ないと考えたのだろう。沫波もまた、逃げる諫武の後を追った。
香助は、離れていく二人を茫然と眺めた。しかし次の瞬間には地面を蹴り、拳を握って走り出していた。馬鹿だと思った。諫武の言う通り、さっさと逃げてしまったほうが賢明だったろう。だが、香助の頭には安全も危険も、愚も賢も存在しなかった。ぐちゃぐちゃのエネルギーだけがそこにあった。エンジン内部でガソリンが爆発するように、感情が乱れ、突き上げ、衝動のままに土を蹴った。
戦いの行方を見届けたかった。
それは叶った。香助が捉えたのは境内へ駆け込む諫武の姿。そして、無防備な背に伸びる沫波の触手だった。
――貫かれる!
叫びが溢れそうになった瞬間、諫武がぐらりと前方へ倒れる動きを見せた。宙に身を投げ出した彼女は、全身を捻じって致命的な一撃を回避する。
そのまま反転する彼女の手には、大振りのナイフが握られていた。
「おおおッ!」
諫武が吠え、両腕を叩きつけたとき、沫波の触手は肘から切り落とされていた。諫武は石畳を転がり沫波の足元をすり抜ける。起き上がると同時に再び銃を構え、振り返る沫波に向けて引き金を引いた。空気が打ち出されるような乾いた音が二度響く。直後、沫波の身体が跳ねて倒れた。
それが決着だった。