(5)猫の道案内
車窓に映る空は朝と変わらず灰色だった。
吐き出された気怠さが車内を満たし、町を浸し、世界を覆っていく。そんな妄想を馬鹿らしいと笑えない自分がいることに気付き、気鬱になる。投げ出した両脚を正そうという気は起きなかった。咎める人間は誰もいない。ボックス席は自分一人で占領している。車内に人がいないわけではないが、彼らの関心を独り占めにしているのは掌に収まる電子機器だった。部活動で汗を流すことに価値を見出せず、寝て、起きて、食べて、移動だけを繰り返す連中。彼らは同類ではあるが仲間ではなかった。同じ空間で漂っているだけの存在。
シートに転がしたバッグ――紐で吊るされたクラゲの人形に、香助は指で触れた。
多くの沈黙を運びながら時間は線路を進んで行く。やがて景色が気怠げに停まった。地元の駅には数駅をあるが、今日はここで降りることにした。
用事があるわけではなかった。ただ家に帰っても何もなかった。
靴底を引き摺りながら駅舎を出る。駅の周辺は個性のない住宅が連なっているが、少し離れると山裾に佇む鳥居が見えてくる。先にあるのは無人の神社だ。石段を踏んで境内へ上がり賽銭箱の傍らで腰を下ろした。
香助は、こうして時間を潰せる場所をいくつか知っていて、両親や弟と過ごす時間を極力減らすようにしていた。
いつからそんなふうになったのか、香助自身もはっきりとは思い出せない。少なくとも中学を卒業する頃にはそうだった。父や母と何かあったわけでも、優秀な弟に思うところがあったわけでもない。まるでそうなることが定められていたかのように、あるとき、不意に、家族との間に溝ができていた。一緒に過ごすことが自然でなくなり、いつしか電車に乗り合わせただけの他人になった。生活の会話が必要な分、他人より余計に面倒臭い。
高校を卒業したら大学へは行かず、一人で生きて死のうと思っている。
「……お、来たな」
耳が微かな音を拾った。香助は境内の隅に意識を向ける。草むらが揺れ、灰色の塊がひょっこりと鼻を突き出した。猫だ。この神社を根城にしているらしく、香助がいると餌をねだりにやって来る。
「でも、ごめんな。今日は何も持ってきてないんだよ」
何もないことを掌で示すと、猫は短くニャアと鳴いた。それは催促の声だったのかも知れないが、どうしてだろう。こっちへ来いと呼ばれているような気がした。そして猫がくるりと反転したとき、香助にはそれが本当のことに思えてきた。
腰を上げ、尻尾の消えたほうを覗いた。境内の裏手には雑木が繁っている。だが奥へ進めないことはない。猫の姿が既になかったが、折角だから探検してみたくなった。唇を舐めて踏み入ってみる。中は鬱蒼として道はない。光量に乏しいため邪魔になるような草もないが、湿った空気が不快を誘った。香助は、だらだらと青草を踏み倒しながら、ふと朝に見たニュースを思い出していた。若い女性が行方不明になっている事件。
(遺体が埋められている場所まで、猫が案内してくれている?)
自嘲した。そんな馬鹿な話があるわけがない。あるわけがないが、悪くないとも思った。考えるだけなら自由だ。血の巡りひとつで退屈が紛れるのならコスパは決して悪くない。
警察には何と説明すれば良いのだろう? もし犯人と出くわしたら?
香助は殺人犯と相対したときの対応を幾通りか思い浮かべ、ひとり笑った。飽くまで空想のお遊びだ。あり得ないことは自分でも分かっている。だから木々の隙間にそれが見えたとき、ふざけていた思考はフリーズした。
(……え?)
女がいた。薄暗い林の中に、ぽつりと、ひとり。
後ろを向いているので顔は分からない。だが、その制服から香助の高校の女生徒であることは分かった。
なぜこんなところにうちの女子が?
自分のことを棚に上げて顔を顰める。相手に気付いた様子はない。俯いたまま、じっと地面を見下ろしている。香助は、彼女の首の向きに従って視線を下げた。瞬間、どくりと心臓が跳ねた。
まず見えたのは彼女が握ったものだった。自然物しかない景色の中で、異質かつ硬質なシルエット。拳銃だった。しかし、問題はそこではなかった。多少大袈裟な形状をしているがモデルガンだろう。それより、何より……心を掻き乱したのは、彼女の足元に横たわる影だった。人だ。人が倒れていた。人らしきものが。
香助は、意識してそれを凝視した。唾を呑み、息を継ぎ、瞼を潰してまた見開く。しかし震える奥歯を噛み締めても、握った拳に爪を喰い込ませても、倒れた頭部に目も鼻も唇もなかったので香助は混乱した。人として在るべき器官があったはずの場所には挽肉のような断面と、零れ落ちるピンク色の肉塊が見えた。
脳だった。
顔面が破壊された人間の死体。
女が、ゆっくり……ゆっくりと振り返った。
「諫武、未花……?」