(4)寄生虫
「はい、このカマキリのお腹からうねうね~っと踊り出てきたのが皆さんご存知のハリガネムシちゃんでーす。可愛いですねー」
無表情でモニターを指す河田教諭に「可愛くねーよ!」「キショイ」「動かなくなったカマキリがまずキモイ!」とブーイングが浴びせられた。半泣きの友人をなだめている女子もいる。香助を始め、平然としている男子や、興味深そうに映像を見つめている女子もいたが抗議の声が大半を占めていた。学校一の美人教師にして変人教師の河田梨花教諭は、どこ吹く風で指示棒をくるくると回した。
「このように生物の中には他の生き物に寄り添わなければ生きられない、とても儚くて愛らしい生き方を選んだ種がいます。いわゆるパラサイト。寄生虫と呼ばれる存在ですね」
ちなみに先生は実家暮らしの独身女なのでパラサイトシングルと呼ばれています、などと笑うに笑えないことを真顔で口にするので、生物室内はさらに微妙な空気になった。彼女は、気にかける様子もなく続けた。
「実際のところ、寄生虫と十把一絡げに扱われますが、そもそも寄生虫という名前の生き物は存在しません。寄生虫とは、極めて多様な生活様式を取る生物形態の総称であって、形質や遺伝子ではなく行動によって同定されるものです。具体的には、ライフサイクルのある時期において他の生物の体表、あるいは体内で過ごさなければ成熟できない生物のうち、動物類に分類されるものが寄生虫と呼称されます。この解釈でいくと先生は両親の体表や体内では暮らしてはいないので寄生虫とは呼べません。強いて言うなら労働寄生ですね。しかしながらカマキリに寄生するこのハリガネムシちゃんの例を見ても分かるように」
と、モニターに映った糸状の物体を棒で指す。
「寄生虫は私たちの生活圏の至るところに存在します。約三十ある動物門のうち半数近い十数種に寄生性を有する種が含まれており、地球に生息するほぼ全ての生物がそれら寄生種を身に宿していると言っても過言ではないでしょう。ヒトも例外ではありません。古くから人間は数多くの寄生虫と共に生き、共に社会を形成してきました。極めて身近で、極めて興味深く、極めて愛すべき隣人。それが彼ら寄生虫なのです」
詩でも紡ぐかのように語る河田教諭とは反対に、生徒たちは不安げに顔を見合わせたり、腹を撫でたりしている。教諭は、首を振った。
「いたずらに嫌悪する必要はありません。一部の例を除き寄生虫は宿主に害を与えないものです。当然ですね。宿主が死ねば宿を間借りしている彼らもまた死んでしまうからです。正しい宿主に寄生している限り寄生虫は無害……まあ、少なくとも致命的な害を及ぼすことはありません。もちろん先に述べた通りそうでない例もあります。今から説明するのは後者に分類されるケースでしょう」
河田教師は、試すような視線を生徒に向けた。
「さて、このハリガネムシちゃんが、水に浸けたカマキリのお腹からコンニチワしてきたケースがそうなのですが、寄生虫はそのライフスタイルゆえに他の生物では見られない、ある特殊な能力を有していることがあります。……はい、田中くん。何でしょう」
指名された男子――他の生徒と比べれば落ち着いていた――は座ったまま答えた。
「宿主を自分の都合の良いようにコントロールする」
「正解です。一般常識ですね。寄生虫は宿主から栄養を摂取するだけでなく宿主を自らの支配下に置いてコントロールする者がいます。フクロムシやディクロコエリウムなどいくつかの種で見られる能力です。このハリガネムシちゃんを例に取ると、彼らは繁殖期になると自家製のタンパク質をカマキリの脳内に注入することによって行動を操作し、自分たちの繁殖場所である水中へ身投げさせます。無念! 泳げないカマキリは成瀬川土左衛門に早変わりですが、ハリガネムシちゃんは大きく育てて貰った恩を足蹴にして……るかどうかは分かりません。もしかしたらマジ感謝してるかも知れませんが、とにかくカマキリのお腹から左様ならして、ラブラブカップルで水中ランデブーと洒落込みます。カマキリとしては一方的に栄養分を横取りされ、繁殖能力を奪われ、最後には入水自殺させられちゃうわけですから、たまったもんじゃありません。こうした片方の生物にしか益のない共生関係を片利共生と呼びます。ちなみに宿主を支配下に置く寄生虫の中ではロイコクロリディウムと呼ばれる吸虫がオススメなのですが以前動画を見せたらガン泣きしちゃった子がいたので今日は自粛します。あとで皆さんの大好きなゆうちゅうぶで確認しといてください」
「先生、質問良いですか?」
「はい、なんでしょう。佐藤くん」
手を上げた男子生徒は、飛び切りの冗談を口に含んだ貌をしていた。
「さっき人間も寄生虫に取り付かれてるって話がありましたけど、俺たちの行動も寄生虫にコントロールされるもんなんでしょーか?」
生物室内にどよめきと笑いが起きた。大半の生徒は彼の狙い通りの反応を見せたが、中には真剣に腕組みをしている生徒もいる。
(どうなんだろうな)
人間が寄生虫に操られているとしたら……人間の頭の中に、人間の舵を握っている何者かがいるのだとしたら?
(……面白いかもな)
香助は、ひとり笑みを忍ばせた。この部屋にも寄生虫に操られている人間がいるかも知れない。他愛のない想像を巡らせながら、何気なく隣の机に目をやったとき、諫武の姿が視界に入った。その様子に、香助は眉を顰めた。
彼女は、周りの女子に同調するでもなく、かと言って気味悪がるでもなく、モニターに映し出された寄生虫をじっと見つめていた。昼休みの彼女とはまるで違う、灯火が消えたような表情だ。授業を受ける態度としては至極真っ当であるはずなのに、どこか奇異に映った。
その違和感に、河田教諭の声が被さった。
「良い質問です」
生徒たちの意識が彼女へ戻った。
「ええ、とても良い。そしてナイスなその質問に対する答えは、分からないです」
彼女は、教壇を横切り、室内を歩み始める。
「古来より寄生虫が人類の歴史と社会に多大な影響を与えてきたことは、これはもう疑いようがありません。ベトナム戦争、二度の世界大戦においてマラリア原虫の存在は戦局を左右するほど重大なもので、これは記録としても残っています。紀元前まで遡ればアレクサンダー大王のアラビア遠征を終わらせたのは同じ原虫とする説がありますし、ラハブがエリコを売り渡したのはオアシスがビルハルツ住血吸虫に侵されていたからだと指摘する声もあります。しかしながら現段階において寄生虫が人間を直接的に支配した事例は確認されていません。されておりません、が、ひとつ候補を挙げるとするならご存知トキソプラズマです。本来であればネコちゃんを終宿主とするこの原虫は人間に寄生することでも知られていて、感染者数は人類の半数に及ぶと言われています。一部の重篤化するケースを除けば基本的には無害でおしとやかな淑女なのですが、一方でこのトキソプラズマが感染者の人格に影響を与え得ることを示した研究結果も報告されています。それに拠れば、トキソプラズマに寄生された男性は『自分勝手で独善的な性格』に、女性の場合は『社交的で世話好き』になるそうで、他にも注意力の低下や、反応速度の低下、精神疾患との関連も指摘されています。少し想像力を働かせてみれば、感染率の高い国では国家形成や文化レベルで影響を受けまくっている可能性すらあるわけです」
生徒たちは再びどよめいた。教諭は教室をぐるりと折り返す。
「尤も、それらの因果関係を明確化することは不可能です。文化、国家的態度は勿論のこと、個人レベルの人格形成ですら、環境を始め、ありとあらゆる事象の影響を受けて成り立ちます。寄生虫のそれひとつを取って形成過程を説明することは困難を極めると言わざるを得ません。可能性としてはあり得るとしても証明することはとても難しい。だから分からないのです。まあ、先ほど述べた通りトキソプラズマに感染したところで重篤化するケースはほんの一部です。気性に多少の変化があったところで個性と言ってしまえばそれまででしょう」
彼女は、窓際で足を止め、空を仰いだ。
「繰り返しますが、固有宿主に寄生している限り彼らは無害です。それどころか寄生虫の存在がIBDやアレルギー疾患の原因となる免疫異常を抑制するとの指摘もあります。寄生虫が人間に害を与えるケースのほとんどが誤って我々の体内に摂り込まれてしまった場合……偶発寄生が生じた例に限られるのです」
「たとえばアニサキスとかですか?」
河田教諭は振り返り、尋ねた生徒に向かって頷いた。
「テレビなどで一時期話題になっていましたね。アニサキス本来の終宿主はイルカやクジラなどの海生哺乳類ですが、魚類などの中間宿主に寄生した段階で、宿主ごと人間に食べられてしまうことが稀にあります。こうなると彼らは人の体内で死滅するほかないのですが、アニサキスちゃんはそれでも本来の宿主へ辿り着こうと我々の内部で移動を繰り返し、それが腹痛や嘔吐などの症状に繋がるのです。もし人間に食べられさえしなければ、アニサキスちゃんは、順番に宿主を変えながら海の中で静かに……平穏に暮らしているだけなのですよ」
漂う卵から産まれ、寄生し、育ち、また産み、漂い、寄生し……延々とそれだけを繰り返す。
「……何が楽しくて生きてるんだろうな」
口から滑り出た言葉は、思いのほか室内に響いた。香助は自分が注目されていることに気付き、どうしたものかと目を瞬かせた。河田教諭がふっと笑った。
「それは私たちが何のために生きているのか、という問いに通じるものがありますね」
とても良い疑問だと思います。
彼女は、満足そうに呟くと、再びモニターの傍へ戻った。
「では次に、寄生虫が生態系において果たしている役割についてお話ししましょう」