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海月の見る夢  作者: 大淀たわら
第一話
3/51

(2)深海博覧会

「行ってきますよ、と」


 香助は、誰もいない玄関に敬礼をした。返事もないので扉を閉める。肩にバッグを担ぎポケットに手を突っ込んだ。高校までは電車と歩きで三十分弱。十五分前には着席だ。


(誘拐魔に出くわさなけりゃだけど)


 埃臭いロングシートから脚を投げ出し、肩越しに車窓を見やった。空は曇天模様。しかし雲の隙間から光が射し込んでいる。宗教画のように神々しくて、どこか息苦しかった。水の中から空を見上げている心地がした。海なのか。湖なのかは分からない。ただ見通せないほどの深さ、そして広さがある。香助は、ゆっくりと沈んでいく自分の姿を想像した。昏く、静かな水底へ。ゆっくり、ゆっくりと……。


 夢はそこで覚めた。座席に沈んでいた身体を起こし、対面の窓をぼうっと眺めた。流れていく景色が緩慢に速度を落としていく。欠伸を噛んでバッグを背負った。

 駅舎を出て信号を渡ったところで見知った顔に出くわした。彼女は、ぱっちりと大きな瞳を、さらに大きく輝かせ、人目を憚らず手を振った。


「星野くん、おはよー」


 香助は、ポケットに手を入れたまま応じる。

「おはよ、八田さん」

「ふふ、今日もいっぱい眠そうだねえ。寝癖もすごいし」

 綺麗に整えられたポニーテールを揺らしながら、ふわふわと笑う。


 彼女の名前は八田三幸来(はたみゆき)。香助とは同級だった。クラスは違うが中学が同じで、三年の文化祭では同じ小道具係だった。今も通学路の半分くらいは同じなので一緒になることも珍しくない。大抵いつもご機嫌だから気を遣わなくて済むのは楽だった。もっとも香助自身あまり気遣いをするタイプではなかったが。


 三幸来は――何が嬉しいのか――てっぺんからお花が咲きそうな笑みを浮かべていたが、やがて「そうだ」と小さな顏を寄せてきた。口許に手を添え、こそこそと耳を打つ。


「星野くん、あの話は聞いた?」

「あの話? ああ、例の?」


 例の行方不明事件のニュースだ。ローカル局だけでなく全国放送でも報道されていた。女子である三幸来には決して他人事ではないはずだが、さして危機感はないようだった。能天気そうに空を見上げた。


「不思議な話だよねえ。何がしたいのかもよく分からないし」


 星野くんはどう思う? と話を振ってくる。

 その視線を追うと民家の屋根でカラスが毛繕いをしていた。


「同じ犯人なんじゃない? 犯行現場も近いそうだし」

「あ、やっぱりそうなのかな?」

「そりゃあ、まあ。そんな危ない奴が何人もいるとは思えないよ」

「ふふ、そうだね。何人もいたら困っちゃうよね」


 三幸来は眉を下げて苦笑する。その反応が少し不思議だった。

「八田さんは怖くないの? 頭のおかしな奴が近くにいるんだよ」

 三幸来は「どうだろ?」と首を捻る。

「ちゃんと考えたら怖い話なのかなあ。確かに屋根に登るのは危ないし」

「屋根?」

「変わったひとなのは間違いないよね。でも、そんなひとがたくさん集まってるとこ想像したら、ちょっと見てみたい気もするの。だって屋根の上を飛び跳ねてるんだよ? 時代劇に出てくる忍者みたい、ふふっ」

「……」

「ねえ、星野くんも見てみたくない? クラゲ人間の大軍団」

「いや、ちょっと待って」

「うん?」


 三幸来は、ぱちくりと目を瞬かせた。

 香助は、眉間を指で押さえ、しばし黙考する。脳内にある既知の情報を検索し、次いで自らの常識を疑った。そして知らぬ間に不条理な世界へ迷い込んでいる可能性まで検討したところで我に返った。小首を傾げる三幸来の瞳に、渋面が映り込んでいる。


「八田さん」

「なあに? 星野くん」

「クラゲ人間って何?」

「え!? クラゲ人間の話してたんじゃないの!?」


 三幸来は、面白いぐらいに目を丸くした。次いで「てっきり知ってるものかと」と両頬を赤く染める。香助は、ごめん知らないと寝癖を撫でつけた。

「何なのそれ。よく現れるものなの?」

 尋ね、ふと昔の特撮のタイトルかなと思った。『怪奇! クラゲ人間』『クラゲ人間の逆襲』『クラゲ人間対ホヤドクロ』『クラゲ人間 The Last Love』


 三幸来は、柔らかそうな頬に手を添えた。

「私の友達がね、先月塾の帰りに見たんだって。昨日また別の目撃情報がグループに流れて来て、うちのクラスだと結構話題になってたから、星野くんも知ってるかなって……」

 恥ずかしそうに声を窄める。香助は問いを重ねた。

「えと、変な仮装をした人間が街中を歩いてるとか、そういう話? 見かけたら良いことがあるとか、実は大金持ちとか」

「ううん、見かけた子もよく分からないんだって。住宅街の屋根の上をものすごいスピードで移動してたって。遠目だからはっきりは見えなかったらしいんだけど、シルエットは人間ぽくて、紐みたいなのをいっぱいぶら下げてたって」

「それでクラゲ人間?」

 そうなの、と三幸来。


「動画とかないの?」

「自転車に乗ってたらしいから」

 香助は「ふうん」と相槌を打った。荒唐無稽な噂話……と一蹴するのは簡単だが、出処がはっきりし過ぎている。三幸来の友人に虚言癖でもなければ、何かを目撃したというのは本当なのだろう。

 気になるのはタイミングだ。


「行方不明事件と、なんか関係あんのかな」

「? なにか事件があったの?」

「……八田さん、ニュースとか見ないっしょ」


 三幸来は「いやあ、今朝はケロちゃんの世話で忙しくて」とはにかんで手を振った。ケロちゃんとは三幸来が飼っている亀の名前だ。生き物が好きな彼女の自宅は軽く動物園状態らしい。海の生物も何種類か飼育していると聞いたことがある。だからクラゲ人間と名付けたのもきっと三幸来なのだろうと香助は考えた。


 当のクラゲ人間の話題は、恐らく窃盗犯の類だろうという無難な仮説が立ったところで自然に終わった。話題を広げようにも情報がないのだから仕方がない。カラスが阿呆と飛び去ったところで三幸来が「そうだっ」と声を弾ませる。今度は何だと頭を掻いていると、彼女は、ごそごそとバッグを漁り始めた。やがて何かを掴んだらしく探る手がぴたりと止まる。ふふふと不敵な笑みを浮かべ、勢い良く右手を引き抜いた。


「じゃ~ん! 本日の深海博覧会~」

「おー」


 と適当に手を叩いておく。高々と掲げられたのは群青色のカプセルだった。三幸来は、以前から『深海博覧会』なるカプセルトイに嵌まっていて何を引き当てたのか報告してくれる。中にはリアルな深海生物のストラップが入っていて可愛くも何ともないのだが、それなりに人気はあるらしく、今発売されているものは第二シリーズだと教わった。

 心底どうでも良いのだが、一応中身を訊いてみた。


「えへへ、実はまだ開けてないの。星野くんにも見せてあげようと思って」


 お気遣いありがとうございますと嘆息する香助を余所に、彼女は「何が出るかな♪ 何が出るかな♪」と上機嫌に歌っていた。そしてカプセルを握る手に力を込めた、その瞬間だった。


「あ」


 カプセルが逃げた。

 綺麗な放物線を描いた球体は、こつりと軽い音で跳ね、緩やかな歩道の勾配に沿って転がっていく。

「あっ、わっ、ありゃ?」

 三幸来は、気の抜けた声を上げて背を屈めた。転がる速度はさほどでもなく、すぐにでも拾えそう……という意識を絶妙にすり抜けるスピードでカプセルは距離を離していく。進む先には丁字路があり、道を挟んだ向こう側に用水路が見えた。


「あ~~、待って~~」

 三幸来が泣きそうになりながら手を伸ばした、そのときだ。

 こっ、と音を立て、カプセルが止まった。


 進路を妨げたのは黒いローファーだった。靴の側面がカプセルの回転を止めている。その色の重みとは対照的な、白い指先が球を摘まみ上げた。


 無力な球体を、しげしげと眺める、夜の海のような瞳。

 すうっと、意識が吸い寄せられた。

 時間も空間も忘れ、その深さに魅入ってしまう。そして、その深みから覗き返されていることに気付き、香助は、はっと息を呑んだ。


 坂道の下にいたのは制服姿の少女だった。


 飾り羽のように長い睫毛に、小さく結ばれた唇。華奢な肩と腕に、漆黒の髪が流れ落ちている。連想したのは、かつて美術館で観た球体関節人形だった。この世にない()()を求めて造られながら、魂の不在という一点においてどこまでも不完全な、それゆえに美しい人造の少女。

 少女は、その欠落を隠そうとはしなかった。


 無感情な瞳に見据えられ、三幸来は「ええと」とたじろいだ。

「あ、ありがと~。助かったよ~。このガチャ結構高くてさ~。なけなしにお小遣いで買ったのにどうしよ~もうお昼抜かなきゃ買えないかも~って」

 言い終えるより先に、無言でカプセルが差し出された。三幸来は口ごもり、カプセルと少女を見比べる。少女は口を噤んだまま三幸来の反応をじっと待っていた。やがて、おずおずと伸びた手がカプセルを受け取った。

 やり取りはそれで終わった。

 少女は、肩を翻し、学校のほうへ去っていく。

 その背に向けて、三幸来は声を張った。


「ありがとう、また学校でね、あわなみさんっ」


 返答はなかった。まるで何も聞こえていないように。

 背後から三幸来に尋ねる。

「……今のは?」

 三幸来は、虚しく手を振りながら答えた。


沫波美月あわなみみつきさん。クラス、一緒なんだ」

 ならA組か。二年A組の沫波美月。

「仲良いの?」

 愚問だったが、三幸来は素直に首を振った。

「彼女、誰とも話さないの。大体は教室の隅で本を読んでる。……えへへ、私ってば頭悪いからさ。話しかけても相手にして貰えないかも~、みたいな」


 社交性のない根暗だと吐き捨てないあたりが三幸来らしい。そして入学当初から学年上位をキープし続けている三幸来の頭が悪ければ、自分の脳みそは手の施しようがないほど腐っているに違いないと香助は自嘲した。


「それでも普段は受け答えぐらいはしてくれるんだけどなあ。機嫌悪かったのかな」

 しゅんとして手元を見下ろした。香助は、それを顎で指す。

「結局、何が入ってんの?」

「これ?」

 彼女は、カプセルを捻り、するっと中身を摘まみ上げた。

 きょとりと瞬いたあと、こちらに向かって苦笑する。


「噂をすれば、かな」

 紐にぶら下がったクラゲは、今にもふわりと浮き出しそうだった。





 教室はいつもより騒がしかった。友人同士でグループを作っていることに変わりはないが、今朝は少しばかり浮ついた雰囲気がある。椅子を引きながら耳を欹てると、どうやら共通の話題……ある特定の人物に関する噂で盛り上がっているようだった。


 一体誰の話で盛り上がっているのか。


 香助は、隣の席の女子――名前は忘れた――を指で小突いた。香助に話しかけられると思っていなかったのだろう。友人と花を咲かせていたその女生徒は、驚いて視線を彷徨わせた。彼女は「えとね」と言葉を探したが、答えるより早く、教室の引き戸ががらりと開く。


 現れたのは担任の教師だった。

 後ろに一人の女子を連れている。


「えー、みなさん静かに。おはようございます。今日はみなさんの、えー、新しい仲間を紹介したいと思います。では、どうぞ」

 教壇の傍らで背筋を伸ばした女生徒は、新品のチョークを受け取ると、黒板でカツカツと音を立て始めた。そして、その音が四つの文字に変わったところで振り返り、にっと白い歯を溢した。


諫武未花いさたけみかです。父の仕事の都合で横浜から越してきました。分からないことばかりでご迷惑をおかけしますが、皆さんどーかよろしくお願いします」


 転校生の少女は、はつらつと言って頭を下げた。

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