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鏡像

作者: YAMIDEITEI

 寒空が身震いし、くもにこびりついた水滴を振り落としている。

 雨はピカピカのガラスに触れる度、線を描いて流れ落ちる。窓ガラスも、そこから覗く街の風景も一面がじっとりと濡れていた。

 噛む程に口の中に広がる――枯れたスコッチの豊かな苦味は、褪せてくすんで忘れかけた――まるで郷愁そのものだ。

 降りしきる雨音のノイズと我侭なリクエストに応える力強いモルトは成る程、彼に酩酊に似た既視感デ・ジャヴを感じさせている。

「あァ……」

 厚手のグラスの中に漂う赤みがかった琥珀色は『あの日』よりずっと鮮やかである。

 しかし、呑んでいる酒の質は変わっても――変わらない事もある。呑む時はあくまでニートで、ワンショットずつが流儀。それが安酒だろうと後宮シンヤのお墨付きであろうとも変わらない。変わったとするならば、男が――ジャック・ザ・リッパーは今、一人で飲んでいるという点である。

 カウンターのスツールを軋ませたジャックは一分と時間を置かず次の一杯を注ぎ、その中身を一息に飲み干した。高いウィスキーをまるで水か何かのように呷る彼の『開け方』は見ているだけで悪酔いしてしまいそうになる程に『雑』だったが、この部屋にそれを咎める者は誰も居ないのだ。


 ――また、そんな飲み方をして――


 誰も、居ないのだ。

 故に鼓膜の奥――もっと奥で錆び付く声は幻聴である。手を伸ばしても届かない――逃げ水のような女の声はもう本当にそんな声だったのかどうか、知れないのだ。何処にも居ない癖にしつこく囁くのだから性質が悪い。バラして黙らせてやろうとしても、誰より殺すに優れていると自認する――ジャックにさえ出来ないのだから致し方ない。


 ――もう、フラフラじゃないの。本当に大丈夫なの?


 ジャックは少なくとも酒に呑まれる程、若くは無い。

(うるせぇんだ、クソ女が――)

 何度告げたか分からない。その言葉を彼は今更吐き出す事はしなかった。

 言葉の向けられた先は遥かな過去であり、今答えたとしてもその先は返らないのだ。何度言っても響くのは自分の声ばかりなのだ。

 言っても分からない人間に言う程馬鹿馬鹿しい事は無い。言っても届かない相手に伝えようとする程無駄な努力は早々無い。

 ……彼は雨の日が嫌いだった。記憶の底にこびり付く倫敦は何時も湿っていた気がしたからだった。雨漏りのする安普請で安酒を呷るのも、東京の高層マンションで高級ボトルを転がすのも大した差が無いような気がしてしまうからだった。

 世界中が賞賛する――世界で一番のジャック・ザ・リッパーと名前も呼ばれぬ惨めで無様なダウンタウンの労働者。

 バラして、暴れて、恐れられ――伝説を作った、これから作るジャック・ザ・リッパーがしがない倫敦の工場勤めと『同じ』だなんて。悪趣味な冗談は時に神経を逆立てるもの。それも自分が吐くなら尚更である。怒るにも怒れず、殺すに殺せないでは大凡最悪では無いか――しこたま流し込んだ強いアルコールに流石に幾らかは胡乱とした意識が、酷く詮無い思考に空回る。

「……あァ……」

 二度目。何処か気だるい吐息が一人きりの部屋に零れた。

 彼は人が感傷と呼ぶそれの――諸悪の根源が何処に在るかを知っていた。

 怒りとそれ以外が綯い交ぜになって――蒼白な顔に乗った瞼がぴくりぴくりと震えている。グラスを握った手は、瘧のように、何かの禁断症状を堪えるかのように時折ぶるぶると震えている。

 ……傲慢なるジャックは自身に敵がある等とは思っていない。『アーク』なるルーキーの集団を歯牙にかけた訳では無い。

 しかしその内の一人であるリベリスタが、他人に滅多な事では価値を見出さない彼をしても中々のものだったのは事実である。何年か振りに自身を傷付けた敵に心の底から震えた――最高の殺しからどれ位の時間が過ぎたか。折角の余韻を雑味で殺すのも勿体無い気がして――我慢したのが悪かったのだ。緒戦を除けば一連の戦いに出そびれ続けたジャックはこの暫く誰も殺していない。

「チッ……」

 注いだ酒の湖面を揺らす手の震えが不愉快だった。彼は自身が不安定になるのは決まってそんな時である事を知っている。

 そもそもジャックがこの場で『時』を待つ羽目になったのは普段から組んで活動している『塔の魔女』アシュレイ・ヘーゼル・ブラックモアに起因している。睦言で甘く囁いた彼女に従った彼は来日し――紆余曲折を経て後宮シンヤを下につけた。

 幾ばくか前華々しい幕を開け、つい先立っては『儀式』に必要な賢者の石を奪い合い……

 最後のパーツであった特異点の発生する運命のバロックナイトはいよいよ訪れようとしているらしい。

 今もこうして『禁断症状』に苦しむ程なのだ。『前座の下準備』に彼が出ずっ張りになる事は無かったのだが――この先は違う。この国に『閉じない大穴』を開け、今一度自身の名を轟かせる――『恐怖神話』を打ち立てる、最高の殺しを味わう……その強い望みが近付いている事は間違い無い。計画を阻止せんとする者が居る以上、邪魔は入るのだろうが。つまりその時は必死で堪えてきた彼が楽しめる夜だという事でもある。儀式の不足を補わねばならない彼は万全で戦う事は出来ないのだが――それでも夜は満足に足るものになるだろう。

(……これ以上話が違ったらぶっ殺してやる、クソ女)

 カウンターにグラスを置いた魔人は内心で物騒に呟きながらも、その口角はむしろ喜びに歪んでいた。

 ジャックがアシュレイの提案に乗った理由は二つある。

 一つ目は当然と言うべきか、それが彼の望みに沿うものだった事。そして二つ目は彼にとっての彼女が――


 ……ギィ……


 不意に微かな音を立てて部屋のドアが開かれた。

 物音と気配にスツールのジャックがゆっくりと視線を向ける。部屋の入り口には豪奢な金髪を背に垂らし、男好きのする肢体をボディラインの良く分かる派手なチャイナドレスに包んだ美しい女が立っていた。

「――シンヤは居ねぇぞ――」

 この部屋を訪れられる――訪れても良い人間は酷く限定的だった。

 女の名は佐野エリカ。シンヤの愛人にして側近である彼女が何かを言うより先にジャックは低い声でそれを告げた。

 久し振りにまともに発した『言葉』は胸の奥に溜まった澱みと、頭にこびりついた錆を落としてくれたかのようである。この部屋に現れた二人目に酔いを覚ました彼は不躾な視線をエリカの頭から爪先までに向けて獰猛に笑った。

「――それとも、俺様と飲むか?」

「御冗談を。ジャック――様は酔うと女を殺したがるそうじゃありませんか」

「……あのアマ、余計な事を言いやがる」

 情報の出所にあてをつけ、ジャックが小さく舌を打つ。

「生憎と、私はもう少し長生きをしたいと思っている普通の女ですから」

「頭のいい女は嫌いじゃねぇ。頭の軽い――クソ女はまっぴらだぜ」

「あら。じゃあ、もう少し察しを悪くしませんと。ジャック様は好みのタイプ程、バラしたいのでしょう?」

 来訪の理由等最初から一つしかない。端的な言葉で目的を看破されたエリカだったがその受け答えは如才無かった。

 都会の不夜城――ネオン煌く仮面の街で多くの場数を踏んできた彼女の度胸は格別である。幾らかの皮肉とユーモアを交え、ジャックとさえ気安く口を利く。本質を言えば『シンヤにしか従いたくない』彼女は彼に敬称をつける時だけ僅かに眉を動かしたがそれも殆ど僅かなものだ。

 蛇の道は蛇である。エリカにはどんな相手とでもそれなりに付き合う為のノウハウが蓄積されていた。ジャックのような男は下手な距離を取る方が危険であると彼女は判断していた。自身の立場と――魅力の方も勿論自信がある。幾らかあてにはしている。

「は、は、ハ――」

 果たして愉快そうに声を上げたジャックは、再びグラスにきっかりワンショット――ウィスキーを注ぎ込む。

 ルーティーンのように繰り返しになった動作はエリカの登場前と何一つ変わっていない。ハッキリと変化したのはジャックの声色と表情の方である。憂鬱を含み、禁断症状に苛まれ、苦虫を噛み潰すようだった彼の顔は幾分か機嫌の良い様子に変わっていた。尤も元々蒼白と言っていい英国生まれの吸血鬼である。その顔色ばかりはどうしても良い色になる事は無いのだが――

「――面白ェな。やっぱ、テメェ――」

「……?」

 エリカは知らないがジャックは本来こんな風に機嫌良く笑う男では無い。

「生かしといてやるからよ。お前、少し付き合えよ?」

「……では、シンヤを待たせて貰いましょうか」

 再び水を向けたジャックにエリカは今度は頷いた。やはり明敏な彼女は『生かしておいてやるから』の裏側にある『付き合わなかった時』の意味を考えた。シンヤの側近である自分が本当に殺されるかはさて置いて。それが絶対に無いと言い切れる相手では無い事を彼女は理解していた。代わりに牽制球では無いが――シンヤの名前を出す事で念を押しておく。やり取りは軽妙だが見た目程は軽くない。

「それで、一体……ああ、お酒を?」

 問い掛けたエリカをジャックは顎で促した。足音も立てず静かにカウンターに歩み寄り、一つスツールを開けて腰掛ける。そんなエリカの様子に「クク……」と鳩が鳴くような笑い声を零したジャックの右腕の先が霧に変わった。『遠く浮いた』彼の手は離れた二つ目のグラスを手に取った。そのままエリカの前に運んだグラスに――彼自身がやはりワンショット分の琥珀を注ぐ。

「テメェと話してみるのも悪くはねぇかと思ってよ。シンヤ(あのばか)についてく女なんて――おかしいヤツに決まってる」

「……」

 一言に幾らか憮然としたエリカである。

 確かにシンヤは特別であるし、やっている事が『まとも』かと言えばそうでは無いが。ジャック程の魔人に言われる筋合いがあるかと言えば大いに無い。そもそも彼が『逸脱』したのも――この暫く色々動いている理由もバロックナイツの二人の考えの為である。

「手間の掛かる男だろ?」

 自身に視線を向ける事無く、今度はちびりちびりとウィスキーを舐めだしたジャックにどう答えるべきかエリカは少し思案した。

 歌舞伎町で燻っていたホスト時代のシンヤを引き上げたのは確かに自分である。しかし彼が『剣林』で頭角を現したのも、このジャックに認められたのも謂わば彼の資質による所の方がずっと大きい。今回の件にしろ、それ以外にせよ。万事シンヤは自分がしたいようにしか動かない。「貴方は私に従っていれば良いんですよ」何て言う彼は自由で、同時に不自由だ。自信家の癖にその自信に縛られている。だが、それが可愛いとも思う。自分がシンヤをより高く飛ばせてやれるのだとそう思う――

「……男にせよ女にせよ、男女の仲は複雑ですわよ。欠点も長所も簡単に摩り替わる。

 誰かにとって好ましい何かが、別の誰かにとっては許せない。逆も同じ――」

 悩んだ末にエリカは考えた事を正直に告げる事にした。口調を少し女らしいものに変えたのもそんな気分の問題である。

 だが、続いた一言は綺麗に描かれた彼女の柳眉を少し吊り上げるものとなった。

「ケ、覚悟済みかよ。……まぁ、知ってたがな」

「……知っていた?」

 鸚鵡返しをしたエリカは内心に沸いた敵愾心を悟られないように細心の注意を払わなければならなくなった。

 シンヤの他、誰にも感じた事の無い強い感情を彼女は運命と呼んでいる。生涯唯一度の本当の恋は、本当の愛は他の誰にも割り込めない世界であると自負している。『当のシンヤがどれ程に憎まれ口を叩いても』エリカがそれを疑う事は無い。たかだか何ヶ月か関わった程度のジャックに知ったような顔をされるのは不愉快だった。情熱的な女の琴線を無作法に弾いたと言える程度には。

「ハ。女ってぇのは分かり易い動物だな」

「男は論理ロゴスを頼り、女は情動パトスを信じる――一般論ですわね」

「テメェの話をしてんだよ」

 相変わらず視線は前に固定したまま。それでもジャックはエリカの若干の変化を読み取っているようだった。

 何ら迷い無く、キッパリと『佐野エリカ』についてモノを言う。それに聞いていたより随分と穏やかで――一方的ながら友好的である。

 奇妙に確信的なジャックの言にエリカは少し釈然としない感情を覚えた。『商売柄』彼女は本心を隠す術を良く学んでいる。一方の彼はと言えば到底人の機微に注意を払うような性質では無い。しかし、単に独善的に決め付けているだけであるかと言えば――そういう風情でも無い。

 第一、エリカと彼はこれまで碌に話した事さえ無かったのだ。

 他ならぬシンヤの主人におさまった男である。全く関わりが無かった訳では無いが――彼女の中でもたげた反発心が幾ばくかの疑問と興味に変わっていく。

「……やけにハッキリと仰いますのね?」

 ジャックの意図を探ろうとエリカの声色に問いのニュアンスが混ぜられた。

 やはり、そんなエリカの意図に察しの良い所を見せたジャックは軽く笑って言う。

「お前に良く似た女を――そう、嫌って程知ってンだ――」

「……アシュレイさんですか?」

「出来の悪い冗談はやめとけよ」

 エリカ自身も自分で言ってからそれは違うと思い直した。

 あの魔女に憤り、不信を向けるシンヤの言葉を『嫌という程』聞いている。そしてエリカの意見も概ね彼と一致していた。

 但し『あくまで女としてモノを言うならば』新しい玩具に夢中になる子供のような彼から――恐らくは――それを取り上げた事だけは評価に値する。彼女は自由な彼が好きなのだ。彼は何事も自分で考えた通りにするべきだ。だが、他の女に熱を上げる姿が嬉しいかと言えばそんな事は無い。

「では――」

「――それが誰かってのは大きな問題じゃねぇだろ。唯、知ってンだ。どんな女かって、言うまでも無くお前自身が一番知ってると思うがな」

 エリカの言葉を遮るようにジャックは言った。

「なんでテメェはアイツと一緒に居る?」

「……何でって……」

 言葉にすればお寒く、面映く――全くもって語るに落ちる。

 苛烈で粗野で無作法な目の前の男が自分の気持ちを理解するとは思えない。直球で問われて素直に答えを返したくなる程、エリカは若くは無いし……何年か前、別の人間に問われたならば分からなかったが。

「答えろよ」

「……理由が必要かしら?」

 辛うじてそう言葉を返す。嘘は言っていない。理由等無い。強いて言うならば『彼が後宮シンヤで自分が佐野エリカであるから』程度のものだ。

「動機のねェ行動なんざニセモノだろ。人間が動物である限りはよ」

「……」

「どれ程くだらねェ理由でも、そこに理由はあるのさ。少なくともテメェ等の何倍かは生きてる俺様が言うんだ。間違いねェだろが――」

「それはそうだけど……」

「全く反吐が出るぜ」

 エリカの言葉を吐き捨てるような言葉で遮ったジャックはいよいよ勝手な事を言い出した。

「誰かに依存しねぇと生きられねェ女。

 誰よりも貴方の理解者ですって顔で何でも世話を焼きたがる女。

 夢しか見れねぇ男を叱りもしねぇで無条件に甘やかし続ける女。

 自分に酔って、脳内麻薬の恋だ愛だで盛り上がる心の底から馬鹿な女――」

「……っ……」

「――なら、いいのによ。

 貴方の為なら死んでもいいを地で行く女。

 全部が本気で嫌になるような駄目女。

 自己愛のファッションなら楽なのにな。本気で言ってやがるクソ女。

 なぁ――お前、佐野エリカって女は実際、そういう女なんじゃねェのか?」

「――――」

 何時に無く饒舌なジャックにエリカは思わず息を呑んだ。

 見てきたような事を言うとはこの事である。反論がない訳では無かったが、ジャックの評はエリカ自身が一度ならず自己に下した評でもあった。

 エリカの脳裏に遠い日のシーンが蘇る。


 ――また、そんな飲み方をして――


 ――うるせぇ。俺に指図するなよ。黙ってろ――


 ――黙ってたらどれ位飲むか……考えたくも無いわ。もう、フラフラじゃないの。本当に大丈夫なの?


 ――……しつけぇな……


 ――それが仕事よ。酔っ払いの酔ってないを信じられる程、お酒を知らない訳じゃないの――


 仕事何て――そんな言葉は笑いたくなる位の嘘だった。

 少なくともエリカの仕事は何かに荒れて酒浸る誰かを心底から心配する事では無い。高いボトルを開けさせ、搾れるだけ搾る事であったとしても、密やかに払いを済ませてやる事では無い。あの頃のシンヤは『誰にもなれない年下のチンピラ』に過ぎなかったけれど、彼女にとって彼はあの頃も今も変わらず『他の誰でも無い後宮シンヤ』に違い無かった。

 エリカは一口ウィスキーを飲み込んだ。ボトルを振ったジャックは中身が無くなった事に小さく舌を打つ。

「……ま、テメェの感想なんざ俺の知った事じゃねェし、そもそも興味すらねェ」

「なら、何故――」

「――俺様につまらねェ質問をするんじゃねェよ」

 エリカの内心を掻き混ぜたジャックは好きに言った後もやはり身勝手だった。何故この時間にそんな事を言ったのか――エリカにとっては不本意だったが――シンヤとの関係を言い当てたその意味さえも結局は分からぬまま。

「ただ、そうだな。一つだけ」

「……?」

「一つだけ、ハッキリさせといてやるとするならだ。

 テメェがクソ女である以上に――本当に依存してやがるのは――あのバカの方って事位だろうな」

 ジャックの言葉をエリカが噛み砕くより先にタイミング良く玄関のドアが開く音がした。

「シンヤ……」

「……おや? エリカも来ていたのですか」

 程無く部屋に入ってきたのは白いスーツを着た眼鏡の男――つまりは噂の後宮シンヤその人であった。

「成る程、二人で飲んでいたのですか。フフ、妬けますね……」

「遅ェ。殺すぞ」

「そんな顔をして……どうかしましたか、エリカ。ジャック様に苛められでもしましたか」

「生きてるだけマシと思え」

「フフ。相変わらずですね、ジャック様は!」

 慣れた調子で受け流す。どちらに妬いたのかは分からない――殆ど信仰に似た感情をジャックに向けるシンヤである。

 彼は余りにご挨拶なジャックの態度にも気分を害した風も無く、頼まれていたウィスキーのボトルをカウンターに置く。

「私も御一緒しても?」

「あぁ?」

「『伝説』の前祝いですよ。特異点の発生は十二月二十二日――つまり、今から一週間後です。

 フフフ……これから少し忙しくなりますからね。たまには良いではありませんか?」

 シンヤの言う通り『決戦』は目の前に迫っている。既に『例の場所』には後宮派をはじめとするフィクサード戦力が手配されている。

 何だかんだで――ジャックが一番の信を寄せる『塔の魔女』をシンヤは微塵も信用してはいない。あれを毒婦と確信している。

「今更、テメェと飲むかよ」

 ジャックはシンヤの言葉を鼻で笑い、スツールを立ち上がった。酔いが完全に無い訳では無いが、浴びるように飲んだ酒にも彼の足取りは全くしっかりしたままである。

「俺はな、シンヤ」

「はい?」

「――化粧の濃い女は嫌いなんだよ」

「……???」

 シンヤは訳が分からないといった顔で主人の言葉の真意を探る。

 一方のジャックは何となく自身の頬に手を当てたエリカにちらりと視線を送った。

「む……どちらへ?」

「外に出てくる」

 すげなくシンヤの誘いを蹴った魔人はスツールにエリカを残したまま、カウンターで不思議そうな顔をするシンヤに構わず。そのまま移動して部屋のドアノブに手を掛けた。そして、そこで一度振り返る。

「――テメェ等見てると腹立つぜ」

 一方的な言葉と共に扉が開いて、少し乱暴に閉められた。それ以降の気配が忽然と消えたのはジャックが『東京の霧』に変わったからなのだろう。ドアから出て行く必要は全く無いのに――人間らしい動作と魔人としての動作の両方を混在させた彼は多少滑稽ですらある。

「……行ってしまわれましたね」

「……そうね」

 部屋を出て行ったジャックの様にシンヤとエリカは顔を見合わせるばかり。

 シンヤは訳が分からず、エリカはぐるぐると頭の中を回る思考を一旦辞める事にした。

 カウンターには二つのグラス。封の開いていない高級ボトルが一本――

「お言葉に甘えて――たまには二人で飲みましょうか」

「……………そうね……」




 ゴォーン……ゴォーン……。

 ゴォーン……ゴォーン……。


 今日も世界は何一つ変わらない。


 ゴォーン……ゴォーン……。

 ゴォーン……ゴォーン……。 


 ダウンタウンにも鐘の音が響いてくる。

「アバズレが。器用に化けやがって……あぁ、ひでぇ詐欺だな」

 硬いベッドに寝転んだまま『何者でも無い男』は口汚く言った。言葉とは裏腹にからかう調子でそう言った。

「失礼ね。化粧は女の武器なのよ」

 小さな鏡を覗き込む『娼婦の女』は応えた。悪びれず――「綺麗だね」なんて言えない男の真意を見通すようにそう言った。

「化けなきゃ見れねェの間違いだろが」

「今さっき貴方が見ていた顔は誰のものなの?」

 男が混ぜっ返し、女はすかさず切り返した。

「見てねぇよ」

「本当に?」

「見てねぇ」

「抱き合っても?」

「……」

「キスしても?」

「……見てねぇつってんだろ。殺すぞ」

 吐き捨てた男は少し罰が悪そうに視線を逸らし、今度は天井を睨み付けた。

 硬いベッドで熱を交わして低い天井を見上げる。

 朝飯はチンケなパンに薄いスープ。チーズをひとかけら。灰色に曇った倫敦は今日も何一つ変わらない。




 クソみてェな街でクソ女とクソったれた時間を過ごす。

 くだらねェ日常、歯車の日常に変化なんざある訳ねェ。錆びて壊れて止まるまで、変わる事なんてねェ。

 口ではそれを否定しながらよ。何でだか。何なんだか。俺は無条件にそれが続くと信じてた――


 "Dear Boss"……




手直しとかは面倒なのでなし。

昔同人誌に寄稿したやつ。12~3年前だそうな。

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 "Dear Boss"……
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