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空について

作者: 矢本MAX

誰にでも、空にまつわる思い出はあるものでしょう。

嬉しい思い出……、

哀しい思い出……。

これからしばしの間、あなたの心はこの不思議な空間へと入って行くのです。

 水たまりの中の空が深い。

 のぞき込んでいると、吸い込まれてしまうような錯覚に陥る。

 見上げれば、透明度を増した冷えた空気の向こうに、底なしの青空が広がり、半透明のうろこ雲が、ちょうどシーラカンスのようなかたちで浮かんでいる。

 秋の空は、夏の空とは別の、何か透き通った哀しみのようなものを感じる。

 僕はビートルズの「ビコーズ」という歌の一節を口ずさんだ。空が青いというただそれだけで、泣けて来るというあの歌だ。

 道を歩いていてふと見つけた、アスファルトのくぼみに出来た水たまりに映った空が、季節の変わり目を明確に知らせてくれたのと同時に、僕の生理的時間を一瞬止めてしまった。

 心は水面をスライドするように、あの日見た青空と、それにまつわる小さなエピソードをよみがえらせる。

 それは、僕が高校三年生の頃のことだった。


 始業のベルの音とともに、教室へと急ぐ人の流れにさからって、僕たち三人は校舎を出た。校舎の裏にあるグラウンドの傍らに植えられた桜並木に沿って走り、グラウンドの外れまでたどり着くと、やや急な斜面の下に第二グラウンドが見下ろせる。そこには野球場とテニス・コートがあり、通常の体育の授業では決して使われることがない。だから、授業中に人が入って来る心配は、比較的少ないのだ。

 僕たち三人、僕と、同じクラスの森村と山中は、とても授業をマトモに受けていられないほど素晴らしく晴れた日の午後などには、教室を抜け出して、この斜面の草の上に寝転がって、空を見上げてもの想いふけったり、居眠りしたり、女生徒の噂話をすることもあった。そうしてあたたかい陽だまりの中で、授業終了のベルが鳴るまでの永遠とも思える午後を過ごし、時にはベルが鳴っても教室に帰らず、日没までそこにそうしていることもあった。

 今考えると、あれだけのんびりとした時間を持つことは、これからの人生においても二度とないのではないかと思えて来る。

 大学受験を控えていたというのに、僕たちはどうしてあんなにのんびりとしていられたのだろう?

 その日も僕たちは斜面に寝そべって、空を見上げ、話をするでもなくまどろんでいた。

 僕は早くもうとうとしかけていた。夢とうつつの境に立つと、いつも思い出せそうでいて、思い出した瞬間にすぐに消えてしまう記憶がよみがえる。それが実際に経験したことなのか、夢の中での出来事なのか、生まれる前の記憶なのか、定かではないが、とてもなつかしく、また奇妙にもの哀しい記憶なのだ。眠りに落ち込む瞬間それは脳裏によみがえり、またたくまに消えてしまう。

 いつの間にか眠っていたらしい。

 気配に僕は薄くまぶたを開いた。頭の上に誰かが立っている。白いソックスがぴったりと貼り付いた細い足首が見える。視線を上げて行くと、しなやかな脚がスカートに吸い込まれて行く。その先はほの暗い闇だ。斜面を駆け昇って来た風が、濃紺のプリーツスカートを揺らす。奥に隠された、柔らかい曲線を包む白い布を、僕ははっきりと見ることが出来た。

「見えてるよ、パンツ」

 僕が言うと、

「知ってるわ。見せてあげてるの」

 聴きおぼえある女生徒の声が答えた。

「そんなとこに突っ立ってねえで、坐れば?」

 上半身を起こして森村が言った。

「うん」

 答えて彼女は、斜面を少し降りて僕の傍らに腰を下ろした。そして「いいところを見つけたのね」と、遠くを見ながら言った。

 同じクラスの村井香深だった。

「サボる人には見えなかったけどね」

 僕が言うと、彼女はこちらを見てかすかに微笑んだ。そしてまた視線を虚空に向けた。

 僕は寝転んだまま、彼女の肉の薄い肩や、かすかな風にそよぐ長い髪を風景画の一部のように眺めていた。その構図は、どこか懐かしく、そして儚い夢の記憶のようにも感じられた。

 彼女の肩越しに見える空は、そのまま永遠に繋がっているように感じられた。

 遠い空に、シーラカンスのようなうろこ雲が浮かんでいて、ゆっくりとゆっくりと遠ざかって行く。それは夏の終わりを宣言しているようにも思えた。

 僕たちの夏はもう、永遠に終わってしまったのかも知れない。

 春は過ぎ、輝く夏も終わって、稔ることなく枯れていく秋を迎え、厳しい冬が待っている。高校を卒業した後の自分自身の姿を、明確にイメージ出来ていなかった僕には、未来は不安でしかなかった。

 村井香深は、クラスでも一風変わった女生徒として一目置かれていた。

 文芸部の部長をしていて、毎月ガリ版刷りで発行される詩集に、奇妙で難解な詩を書いていた。

 僕は美術部員だったけれど、詩や小説も好きだったので、時々下手くそな詩を寄稿したりしていて、彼女とは妙にウマがあった。

 ただ、それがストレートに恋愛感情に繋がらなかったのは、彼女にはどこか人を寄せ付けないような超然としたところがあったからだ。

 また、時々視線を中空に漂わせ、突拍子のないことを口走ることもあった。

 いや、正直に言って、僕が彼女を恋愛対象に思えなかったのは、その、あまりに整いすぎた容姿が原因だった。

 その頃僕は、どちらかというと整った美人よりも、愛嬌のある可愛い女の子が好きだったのだ。

「空って、怖いね」

 誰に言うともなく香深が言った。

 僕には彼女の声がひどく遠くから響いて来たように聴こえた。声の実体は消えて、その反響だけが残っている、そんな感じだ。

 僕は、自分の心の内を見透かされたような気がして、ドキリとした。

「見つめていると、吸い込まれそうになる」

 あらためて空を見上げると、天地の境が曖昧になり、果てしなく堕ちて行きそうになる。夢の中で階段を踏み外すと、布団の中で身体が沈むような感覚がするのと似ている。さっき眼にしたスカートの中の情景がよみがえって来て、空の青とオーバーラップした。僕は、天空に広がるプリーツスカートと長く伸びた脚が雲間に浮かぶ、そんな油絵をいつか描いてみたいと思った。

 それから僕たちは、黙って空を眺めて過ごした。いつの間にか眠っていたらしい。起きた時には、彼女の姿はすでになかった。

 その年の文化祭に、僕は「空へ」と題した油絵を出品した。虚空に向かって、制服を着た少女が昇って行く。プリーツスカートが羽根のように広がっているが、さすがにスカートの中までは恥ずかしくって描けなかったので、仄暗くぼかした。その絵を、最後に上下逆にして、まるで空に堕ちて行くように見えるようにした。

 文化祭の当日、その絵の前にじっと立っている村井香深を見つけた。

 黙って隣りに寄り添うと、

「これ、あたしね」

 と彼女が言った。

「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」

 僕は何故か曖昧な返事をした。きっと正直に言うのが照れくさかったのだ。

「嘘つき!」

 急に感情を激したように言うと、彼女はきびすを返して去って行った。その眼から、涙が溢れそうになっているのを、僕は見てしまった。

 翌日から彼女は、僕と口をきいてくれなくなった。

 文芸部のガリ版詩集も、三年生が受験勉強で忙しくなったために、二年生に編集がバトンタッチされ、もともと部員ではなかった僕とも無縁なものとなった。

 そのことを淋しいとは思わなかった。

 当時僕には、他に好きな女の子がいたし、東京の美術大学に進学するために、勉強とデッサンの練習に没頭するようになったからだ。

 秋も深まり、やがて冬となり、森村たちと校舎裏の斜面で授業をエスケープすることもなくなってしまった。

 

 村井香深から突然手紙が来たのは、翌年のバレンタインデーの次の日だった。

 期末試験と入試を終えて、卒業式までは登校しなくても良いという、ちょっと宙ぶらりんな感じの時期だった。


 突然の手紙でごめんなさい。

 去年の文化祭で見た、あなたの絵が忘れられません。

 あなたは私じゃないって言ったけど、私は、あれは私だって思いました。

 今まで、あんなふうに私を描いてくれた人はいません。

 とっても嬉しかったけど、素直になれなくて……。

 ずっと気まずい空気のままで、卒業して別れ別れになってしまうのも、なんだか哀しいなと思います。

 ごめんなさい。

 ところで、あの「空へ」という絵ですが、厚かましいお願いですが、卒業の記念に、私にくださいませんか?

 これからの人生を、あの絵とともに生きて行きたいと思います。

 不躾なお願いで申し訳ありませんが、どうかよろしくお願いいたします。


 封筒には、銀紙に包まれた棒チョコが一本入っていた。

 僕は、これで彼女と後味の悪い別れをしないで済むならと思い、電話をして、翌日「光洋」という小学校の近くにある喫茶レストランで会うことにした。

 店に行くと、彼女は先に来ていた。

 窓際の席に坐った普段着の彼女は、学校で見る時の冷たい美しさはなく、どこかあどけなく見えた。

「ありがとう、わがままきいてくれて」

「いや、絵を気に入ってくれて嬉しかったからさ」

「卒業したら、東京ね」

「ああ」

「画家になるの?」

「それは難しいかな? 純粋美術で食べていくのは大変だからね。イラストレーターか商業デザイナーになれたらいいなと思ってる。小説の挿絵とか、ブックデザインとかね。それが無理だったら、教員免許をとって、美術教師になる」

「いいね、夢があって」

「君はどうするの? 就職しても詩は書き続けるんだろ?」

「さあ、どうだろう?」

 言いながら香深は遠い眼をした。

 視線が僕を通り越して、どこか遠くの空を見つめているような感じだった。

 そこで会話が途切れて、長い沈黙が続いた。

 いたたまれなくなった僕は、「それじゃ」と言って席を立った。

 以来、彼女とは会っていない。

 卒業式にも、何故か姿を現さなかったからだ。


 高校を卒業してしばらく経った頃、帰郷した僕は、街で偶然会った森村に彼女の噂を聞いた。

 彼女は高校を卒業して間もなく、神経を病んで精神病院に入院し、そのまま出てこれなくなってしまったのだという。

 それを聞いて僕は確信したものだ。

 彼女を狂わせたのは、あの日の空の青さに違いないと……。

 そして今でも村井香深の水晶体には、あの日の空がくっきりと焼きついて、青い光を発しているに違いない。

 その空に、どこまでもどこまでも落ちてゆきながら……。

                  了


月を見過ぎていると気がふれてしまうという言い伝えがあります。

青空を見つめ過ぎても、同じようなことになるのかも知れません。

それではまたお逢いしましょう。

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