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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

紙袋おじさん

作者: 田鰻

僕の町には、紙袋おじさんと呼ばれている人がいた。

名前の由来は見たまんま。そのおじさんが、いつも片手に紙袋をぶら下げていたからだ。

仕事はしているのか。家族はいるのか。そもそも家はどこなのか。

詳しい事情を知っている人は、少なくとも僕の周りには誰もいなかった。

要するに、どこの町にも一人や二人はいる孤独な変わり者として認識されていた。

小さい子供や女の子のいる家はもっと敏感で、露骨に近寄るのを避けたり、あの人は頭がおかしいから近寄るなと言い聞かせていたりしたという。

変質者扱いされているのを知ってか知らずか、おじさんはいつも真っ白な紙袋の手提げを握って、痩せた体でぼんやりと公園に佇んだり、とぼとぼ歩道を歩いたりしていた。


そんな調子で、ほとんどの人は紙袋おじさんに深い関心など向けていなかったが、誰でも一回は目撃している存在だから、たまに話題にのぼる事もあった。

話題の中心は、あの紙袋の中身は何なのか、という疑問だ。

何も入っていないんじゃないかという意見が最も多かった。

拾ったゴミや盗んだガラクタが入っているという人もいた。

昔一緒に暮らしていた家族との思い出の品と答える人もいた。

極端なのだと、動物の死体だとか、殺した人間の体の一部だとか……ここまでくると、ちょっとした都市伝説扱いだ。


しかしどんなに勝手な想像を膨らませようと、実際に中を見たという人は誰もいなかった。

大きな紙袋といっても袋の口はぴったり閉じられていたから、覗くならまず開けてもらわなくちゃいけない。

紙袋おじさんは奇声をあげたり暴れたりするでもない静かな人だったから、見せてと頼めば見せてくれたのかもしれないが、わざわざそこまでしたがる酔狂な人は誰もいなかった。

それに普段はおとなしくても、下手に干渉した途端に態度が豹変しないという保証もない。

そういう意味では、表立って嫌悪感を露わにしない人たちからも、潜在的な危険人物だとは思われていたのだろう。


そんなある日、事件が起きた。

地元の男子高校生たち数名が、おじさんから紙袋を奪い取ったのだ。

ただの噂ではない証拠に、実際に現場を目撃した人が何人かいた。

度胸試しの一環なのか、ただの嫌がらせか。どちらにせよバカな連中だった。

ものが紙袋だろうと相手が身元不詳の人間だろうと、やっている事はただの引ったくりである。

警察や学校に通報されたらどうするつもりだったのか。それさえ想像できないから、人のものを盗ろうと考えるのか。

奪って逃げて、少し離れた場所で大騒ぎしながら袋を開けている間、おじさんは特に騒ぎも抵抗もしなかったらしい。

伝え聞いたところによると、中には何も入っていなかったそうだ。

それで、中身が何なのかという長年の謎には一応の決着がついた。

次に僕が遭遇した時、おじさんはまたあの真っ白な紙袋を持って、やっぱりどこかぼんやりと道を歩いていた。

いつもと変わらない様子なのを見て、なんとなく安心したのを憶えている。






「今日、帰りに紙袋おじさんいたよ」


テレビを眺めながら、僕は夕飯を運んできた母に報告した。

頼まれていたシャンプーと頭痛薬を買った帰り道、一軒の家の前に佇んでいるところを目撃したのだ。

片手にはいつもの紙袋。おじさんの目は家の二階へ向いていて、他に通行人は見当たらない。

あの辺りは接骨院と自動販売機、駐車場くらいしかなく、あとはアパートや小さめの個人住宅ばかりが並ぶ。

だから、特定の時間帯を外れると人通りが急に途絶える。

僕が通りすがったのも、ちょうどそうした空白のスポットが生まれる時間だった。


道の先にいるのが紙袋おじさんだと分かった瞬間、思わず僕は反射的に立ち竦んでしまった。

誰もいない道。金色の夕焼け。まるでこちらを掴もうとしているかのように伸びた、紙袋おじさんの黒い影。

道端で立ち止まってじっと家を見上げている光景なんてただでさえ異様なのに、奇行で知られている人がとなると、おかしいを通り越して怖い。

家の人は嫌な気分じゃないのだろうか、それとも気付いていないのだろうか。


僕は迷っていた。

家に帰るならここを通れば早い。

でもアスファルトのあちこちにひび割れの走った道は、車二台が歩道側にはみ出してやっとすれ違えるくらい狭く、このまま進むなら紙袋おじさんのすぐ後ろを通らないといけない。

見てない振りを装って横を通り過ぎるくらい普段からしているのに、時間が、場所が、状況が、そうする事を僕にためらわせた。

もしもおじさんがこちらに気付いたら。目が合ったら。顔を覚えられたら。声をかけられたら。追いかけてきたら。

どうしても、そんな不吉な展開を思い浮かべてしまう。

悩んだ末、僕はおそるおそる体を反転させて、もと来た道を引き返していった。

紙袋おじさんの視線が背中を追ってきているように感じて、自然に早足になっていた。


「立ったままずっと人んち見てたから、ちょっと怖かった」

「あんまり近付くんじゃないわよ、ああいうひとに」


母は、紙袋おじさんの話題を好んでいないようだった。

いつも紙袋を持っているから紙袋おじさん。見たままの名前なのだが、蔑称に近いニュアンスが含まれているのも否定できない。

いくら不審者相手だろうと、子供が他人をそんな名前で呼ぶ事を良識のある家庭なら注意する。

倫理面を抜きにしても、あの人物に関しては見て見ぬ振りをするという不文律ができあがっていて、積極的に話題に出してはいけないという空気が大人たちの中にはあった。

僕だって、特別あのおじさんに関心がある訳じゃない。

たまたま今日あんな光景に出くわさなかったら、存在自体を忘れていた。


あの人もねえ、と母が溜息混じりに言う。あの人がどうしたのかと待ってみたが、それきり先は続かなかった。

きっと、溜息部分にいろいろな感情が込められていたのだろう。

困った奴だとか、気持ち悪いとか、町からいなくなってほしいとか、ストレートに言葉にするには多少ためらう悪意が。

そして想像がついてしまう時点で、きっと僕も心の底では紙袋おじさんに対して母と同じ見方をしている。


「これ何のフライ?」

「鮭。ごはんと味噌汁は自分でよそってきなさい」

「わかった」


僕はキッチンに向かう。

紙袋おじさんはちゃんとご飯を食べられてるのかな。

形だけでも心配をしてみせると、露骨に避けてしまった罪悪感が少し和らぐ気がした。


そんな出来事があってから、ほんの数日後。

また同じ道を歩いていた僕は、とある家の前がやけに慌ただしくなっているのを見た。

単に人の出入りが多いというのではなく、そこ一帯の空気が微妙に張り詰めているような。

なんだろうと首を捻ったのは一瞬で、門扉の前で立ち話をしている二人の服装から、すぐに事情がわかった。

誰かが亡くなったのだ。

ジロジロ見ないようにしながら家の前を通り過ぎて、はっと気付く。


紙袋おじさんの見上げていた家だ。


絶対にこの家だったか言い切れるかと聞かれると困るが、たぶん間違いない。

振り向いて、まるであの日のおじさんのように家を見上げながら、僕は少し嫌な気分になった。






翌々日の夕方、母が出張から帰ってきた。

荷物を置き、靴を脱いでいる母はどことなく不機嫌そうだった。

てっきり疲れているんだろうと思っていた僕に、母は今から着替えてちょっと出掛けてくると告げる。

帰ってきたばかりなのにかと僕が聞くと、知り合いが亡くなったのよと母は答えた。

ピンときて確認したら、やっぱりあの家の人だった。

出張先で友達から訃報を受け取ったものの、身内でもないため仕事を放棄して帰ってくる訳にもいかなかったのだという。

亡くなったのは奥さんらしい。僕は名前までは見ていなかった。


「友達だったの?」

「買い物で会うとお話しするくらいよ。

でも知り合って何年にもなるし……まさかこんな急に亡くなるなんてねえ……」


そこまで親しくはなかったようだが、それなりに付き合いが継続していた相手の死に母はショックを受けていた。

僕は、紙袋おじさんの件を言うかどうか迷った。

あの日おじさんの見ていたのがあの家だったという事までは、母に話していない。

話したところでだから何だと言われて終わりだとしても、このまま一人で溜め込んでおくのも気持ちが悪かった。

結局話すと、母は身支度する手を止めて、何を言っているのかわからないという顔で振り向いた。

そんな話があった事さえ忘れていたらしい。

出張前に話したやつだよと僕が繰り返すと、やっと思い出したようだった。


「おじさんも、あの家の人と知り合いだったのかな。それで心配して見てたとか」

「そうかもしれないけど……でもあそこの奥さんも家族にも、重い病気の人なんていなかったのよ。事故や心臓発作の急死だったら、前もって心配のしようがないでしょ」


歯切れ悪く言ってから、たぶん僕がしていたのとそっくりな、嫌そうな顔になる。

だとしたらきっと考えている事も同じだ。何か気持ち悪いな、という。

そう、気持ち悪い。

一連の経過を見ていた僕が感じているのは、間違いなく恐怖感に近い気持ちの悪さだった。


おじさんが家をじっと見詰めていた。

その家で、病気でもなかった人がいきなり死んだ。


ただの偶然といえばそれまでだが、結び付けようと思えばいくらでも結び付けられる。

そして結び付ける人が多くなってしまったら、行き着く先は魔女裁判だ。

母もそう思ったらしく、これ以上この話に触れようとはしなかった。

着替え終えて玄関へ向かった時には、すっかり気持ちを切り替えた笑顔になっている。


「じゃあ行ってくるわね。

ご挨拶とお線香あげたら、すぐ帰ってくるから」


顔見知り程度なら、弔問もそのくらいの軽さになるのだろう。

見送る僕に背を向けて、母が玄関ドアを開けた。


おじさんがいた。


僕は悲鳴をあげていた。本当に驚いた時には体が縮み上がるのだと知った。恥ずかしいなんて考えてる余裕もなかった。

母も驚いていたが、こういう時に母は逃げるより食って掛かるタイプだった。

すぐさま気を取り直し、僕を庇うように前に出る。


「何かご用ですか?」


おじさんは答えない。

おじさんが門扉の外に立っている事に、そこでやっと僕は気付いた。

驚きすぎたあまり、まるで目の前に立っていたかのように錯覚していたのだ。


「何かご用ですか?」


おじさんはやっぱり無言だった。

考えてみれば、すれ違った事は何度もあったのに、おじさんの顔を正面からしっかり見たのは初めてだった。

醜い訳でも汚れている訳でもないが、あまり見掛けないタイプの独特な顔立ちをしている。

ただし頬がこけていて表情に乏しく、どこか乾いている印象を受けた。


「用がないならそこに立っていないでください。警察を呼びますよ!」


母の声が大きくなる。

おじさんは表情を動かさないまま、一度だけゆっくり瞬きをすると、ふらりと立ち去った。

よせばいいのに母は玄関を出て、おじさんの背中が見えなくなるまで睨み付けていた。

心配して外に出ようとする僕を、家の中へ押し返すような仕草をしながら母が戻ってくる。


「お線香あげにいくのはやめるわ。また後にする」

「いいの?」

「あれ見て一人にして行けないでしょ」

「警察は……」

「……警察は難しいと思う。立ってただけだから。

でも戸締まりは確認しておこうね」


言いながら、母は玄関扉を何度も押したり引いたりして施錠を確認していた。

その夜はあまり寝付けなかった。

僕も二階にある自室の窓の鍵を二回確認し、カーテンをかけた。

窓の外が見えるのが、怖かったのだ。


翌日の朝は、念の為に学校まで母が車で送ってくれた。

同じクラスの生徒に見られたらと思うと嫌だったが、昨日の事件の後では過剰反応とはいえない。

ところが信号待ち中に、僕と母は思いがけない光景に遭遇した。


「あっ、あれ!」


紙袋おじさんが、また他の家を見ていたのだ。

通行人も数人いたが、おじさんに注目している人はほとんどいなかった。

ちょっと横目を向けるくらいで、まるで空気のように扱っている。皆、見て見ぬ振りをするのに慣れていた。

朝の明るい町中で遠目に眺める紙袋おじさんに、昨日感じた怖さは全くなかった。

ただの痩せ気味で地味な服を着たおじさんだ。紙袋だって事情を知らなければ買い物帰りと思うだけだろう。


変な話だが、僕は安心していた。

気になった家を適当に見て回っているのだとしたら、うちが狙われている疑惑は薄れる。


「ああやっていろんな家を見てるのかな」

「ひょっとしたら、あなたのクラスにも家を見られてた子がいるかもね」


母も消極的に肯定した。

おじさんについて考える無駄な時間なんて取られたくもないという心境が伝わってくる。


学校の少し手前で降ろしてもらい、母はそのまま仕事に向かった。

休み時間を、僕はほとんど教室でぼんやりしているか図書室で過ごしている。

だから母の言っていた、紙袋おじさんに家を見られていたクラスメイトがいるかどうかは確認できなかった。

その日の授業が終わる。

帰りまでは迎えに来てもらえないので、一人で学校を出た。

どうしても怖かったらタクシーを使うよう母は言っていたが、まだ明るく人も多いので、そこまでする程ではなかった。

バスに揺られながらも、僕はなんとなく窓の外を目で追ってしまう。

結局その日、再び紙袋おじさんを町で見掛ける事はなかった。

次の日も、また次の日も。

そのまま日数が過ぎれば記憶も薄れていき、いつかはあんなに怖がった事さえ忘れてしまっただろう。


土日を跨いだ週明け、登校中の僕は慌ただしく人の出入りする家を見た。

つい最近どこかで見た光景。かたく張り詰めた空気。空を金色に染める夕焼け。長く長く伸びた真っ黒な影。


紙袋おじさんが見ていた家だった。






授業の内容は全部、僕の頭を素通りしていった。

昼休みになっても図書室に行く気にもなれない。

思いきって誰かに相談してみようかと何度も思ったが、できなかった。

ぼうっとしている間に、とうとう最後の授業も終わってしまう。

まるで永遠に終わってほしくなかったように聞こえるが、実際終わってほしくなかった。

周りにたくさんの人がいる間は、多少は不安も紛れていたのだ。


教室から一人また一人とクラスメイトが消えていき、やがて僕だけになる。

部活にも参加していない僕は帰るしかない。

校庭に響く運動部の歓声の中に、今日だけは混ぜて欲しいと心から思った。


重い足を引きずって校門を出る。

朝に通った道を見たくなかったので、他の道から帰る事にした。

といっても、人の少なそうな道はもっと嫌だ。

自然と僕の足は、いつもは利用していないバス停へ向いていた。

無駄な大回りになってしまうが、こちらからでも家に帰る事はできる。

誰もいないバス停で次の到着時刻を確かめていると、若い男の人が僕の隣に並んだ。

僕はほっとした。今はとにかく人が周りにいてくれるのに安心できる。


そう思えた時間は短かった。


「こんにちは」

「え」


男の人がいきなり話しかけてきたのだ。

もちろん初めて会う相手だった。

戸惑いながら、一応、僕も小声で挨拶を返す。


「ひょっとして、悩みがおありではありませんか?」


やけに綺麗な顔で笑う男の人に、キャッチセールスだと僕は思った。

軽くなっていた気持ちが一気に重くなる。


「……そういうのは、ないです」

「いやあ、全然悩みのない人間なんていないですよ。

例えば最近、怖い目にあっているとか……」


僕はぎょっとした。


「誰かにしつこく付け回されそうになっているとか」

「……今、付け回されそうになってる」

「おや確かに」


言われて初めて気付いたみたいに、男の人はわざとらしく目を丸くした。


「でも君が本当に怖がってるのは私じゃない。

そうだな。例えば手に紙袋を持っている――」


いきなり口調を変えた男の人に、何よりその内容に僕は後退った。

なんだ、この人は。

心臓がバクバクと跳ねている。

男の人の向こう側に、こちらへ走ってくるバスが見える。

早く。もっと早く。僕は心の中で繰り返した。


「怖がるのは当然だ。

人間誰しも、目の前で具体的に形を得つつある死ほど怖いものはない」


やっと来てくれたバスに、僕は急いで飛び乗った。

追いかけてきたら他の乗客に助けてもらおうと思ったが、男の人はバス停から動かない。


「君にひとつ教えておく」


運転手に手を振って乗車しない意思を伝えながら、男の人が口を開く。


「あれは人間じゃないよ」


その馬鹿げた言葉は、閉じる寸前だったドアを通して、僕の耳にはっきりと入ってきた。


夜、大音量でつけっぱなしになっていたリビングのテレビを、帰宅した母は何事かという表情で消した。

近所迷惑でしょと怒っている母に、僕は泣きそうになりながら朝に見た光景を話した。

母の知り合いの家に続いて、紙袋おじさんが見ていた別の家でも誰かが死んだと。

こんな事、本当なら親だろうと話すべきじゃないのかもしれない。常識で考えればあまりにも馬鹿馬鹿しい。

それでも、おじさんに見られていた二軒の家で立て続けに人が亡くなったという事実は、僕ひとりで抱えるには重すぎた。


「そう……いやだ、気持ち悪い偶然もあるものね」


気味が悪そうに顔を顰めながらも、母はあくまで偶然だと考えているようだった。

さっきの出来事さえなければ、僕だって最終的にはその結論に落ち着いていたし、こんなに神経をすり減らさなかった。

あのやたらと綺麗な男の人の声が、耳の奥に蘇る。こっちはさすがに話す気が起きなかった。

いくらなんでも、人間じゃない、だなんて。


「本当に偶然なのかな……」

「偶然じゃなかったら何なのよ。家を見てたら人が死ぬって、死神じゃないんだから」

「そりゃそうだけど」

「まあ嫌は嫌よね。でも先に見られてたうちは誰も死んでないでしょ? だから偶然よ。あっちこっちの家を見て回ってるから、たまたま亡くなった家に当たってるだけじゃないの。葬式なんて毎日どこかでやってるんだし」


母の解釈は論理的だった。

冷静な姿を見ていると、僕のささくれだっていた気持ちも静まってくる。

高校生にもなって怖がりねとからかってくる母に少し怒ってみせてから、僕は二階の自室に戻った。


大丈夫だ、ただの偶然だ。

うちは見られていたのに何も起きてないんだから。バス停の男はただの頭のおかしい奴だ。


そんな事を繰り返し考えながら、僕は窓を開けた。

閉じた室内が息苦しくて、換気をしたかったのだ。

外は、帰った時よりだいぶ暗くなってしまっている。

10分ほどそのままにしておいて、窓を閉めようとして――妙な違和感があった。

日常生活でもたまにある、視線の端に何かがいる感覚。

ホラー映画だったら、好奇心に駆られて見てしまうと必ず後悔するもの。

それがわかっていたのに、僕は視線を下に向けていた。

何もいる訳ないのだと確認する為に。

街灯の光がぎりぎり届いている、薄暗く照らされたアスファルトが見えるだけだと自分に言い聞かせて。


見上げていたおじさんと目が合った。


僕の絶叫に、母が扉を叩き破るようにして駆け付けてきた。

おじさんがいると僕が叫ぶと、開きっぱなしの窓に頭を突っ込んで下を見る。

その時にはもう、おじさんの姿はどこにもいなかったらしい。

しかしついさっき怖がりだと僕を笑っていた母も、今度ばかりはそれで終わりにはしなかった。


通報から15分くらいで警官がやって来る。

こんな事でも来てくれるんだと僕は思った。よっぽど母が強く説明したのか。

警官も紙袋おじさんの事は知っていたから、パトロールの時に注意して見ておきますと言ってくれたが、今の段階で具体的にできる事はないらしい。

がっかりしたが当然だった。

おじさんは紙袋を持って家を眺めていただけで、追いかけてきた訳でも物を盗んだ訳でもない。

町中にいる以上、人の家を見るなと注意する訳にもいかないだろう。

見ていた家で死人が出た話については、それこそ論外だ。

鼻で笑われて終わるだけじゃなく、この家の前を何度もうろついているという話の信憑性まで薄くなる。

不満そうなのは母もだったが、僕以上に現状では警察が動けない事も理解していた。

ストーカー事件の例を持ち出しつつ、くれぐれもよろしくお願いしますと警官に頭を下げて、話はそれで終わった。


「警備会社にでもお願いするしかないかしら」


あまり聞いた事のない、憂鬱そうな母の声だった。

そもそも、紙袋おじさんはいつ頃から見掛けるようになったのだろう。

駄目だ、はっきり覚えていない。

ただ僕が中学校に入った時には存在が広まっていたので、少なくとも5年前には町にいたはずだ。

スタート地点にまで遡って考え始めている僕は、既に紙袋おじさんを明確な恐怖の対象として捉えていた。


眠れない夜が明けた。

朝食を食べながら母と話し合って、学校には行くと決めた。周りに人がいる方が安全だからだ。

出がけに防犯ブザーを持たされる。買うだけ買って置物になっていたらしいが、使う機会なんてない方が良かった。

登校は今日も母の車でだ。恥ずかしいだの見られたらだのと気にしていられる状況ではなかった。

しかし、こんな生活はいつまでも続けられない。先に僕ら家族の精神が限界を迎えてしまう。

いざとなれば母は仕事を休むとしても、ずっとは無理だ。

引っ越しだってすぐには出来ないし、何より、こんな事で住む場所を変えるなんて馬鹿げている。

いろいろな事が頭の中で堂々巡りになる。悩みは一日中、強弱を伴う腹痛という形になって僕を苦しめた。


その日最後のチャイムが鳴る。

全く身の入らなかった授業を終えて、学校を出た。


『なるべく早く帰らせてもらうから、どうしても怖くて無理ならタクシーを呼ぶか、先生に事情を説明して職員室で待たせてもらいなさい。迎えに行くから』


母はそう言い残していったが、どうしようか。

歩道を歩きながら、僕の指は何度も携帯電話の画面上を行き来していた。

結局電話はしないまま、いつものバス停に着く。

つい昨日の男の人の姿を探してしまったが、古びたベンチに半分居眠りしたお婆さんが座っているだけだった。

安心して近付く僕の背後から、よく通る澄んだ声が響いた。


「紙袋を持った男に付け回されているだろう」


心臓が跳ねるを通り越して止まるかと思った。


「あれは大変なものだ。そのままでいると君は死ぬ」


振り向きざま叫ぼうとした僕に向かって、男が素早く掌をかざした。

開いた口からひょうひょうと空気が漏れる。

僕は喉を抑えた。声が出ない。


「あの男に対して、君がぼんやりと感じている恐怖と脅威は正しい。

先の二軒の家で住人が死んだのは、あの男が原因だ。

見たんだろう? 家の前に佇む奴の姿を」


なんで……。


先日よりもっと具体的に、頭の中を丸ごと読んだように言い当てられた僕はひたすら呆気に取られた。

両襟をピンと高く立てた男は、こちらが見ていて恥ずかしいくらい気取った仕草で一礼する。


「私は朱雀大路という。どう考えても今は紙袋の奴より私の方が不審者だが、そこをぐっと我慢してもらって少し話がしたい。ここで話すのが怖いなら、人のたくさんいる場所まで移動してもいいよ」


急に声が出せなくなったという現状も忘れて思わず見惚れるくらい、その男は美しく笑った。

背後のベンチから、にゃむ?というお婆さんの寝ぼけた声が聞こえた。






周りに誰もいない場所で話すのは嫌だという僕を、朱雀大路さんは喫茶店に連れて行った。

暗い地下や路地裏にあるような店じゃなくて、広い車道に面している全国チェーンの店だ。

店内は明るくて、客も多い。

こういう場所に誰かと入る事のない僕は、とても落ち着かなかった。

しかも向かい合っているのは、ちょっと前に初めて会ったばかりの正体不明な男だ。

知らない人間に声をかけられてついていくなんて、どうかしている。

でも内容が内容だけに、無視もできなかった。


注文を聞いた店員が去っていくと、僕は小声で朱雀大路さんに聞いた。

あの後、僕の喉は元に戻っている。


「こんなに人のいる場所で、さっきみたいな話して大丈夫なんですか」

「大丈夫じゃないね」


朱雀大路さんが、上着のポケットから何かを取り出してテーブルに置く。

それは、とても小さな猿の模型だった。


「これで我々の会話はまともに周囲に聞こえない。

おおさまのみみはロバのみみー!!」

「わっ!?」


急に大声で叫んだ朱雀大路さんに僕まで叫んでしまったが、近くの客も店員も全く無反応だった。

その事にまた驚いている僕に、朱雀大路さんが笑ってウインクをしてくる。

いちいち仕草がキザっぽく、またそれが様になっていた。


「ね?」

「……びっくりした」


どういう仕組みになっているんだ。こんな嘘みたいな事、本当に起こるんだろうか。

思わず猿の模型に手を伸ばしかけた僕を、朱雀大路さんが止めた。


「これってどうなってるんですか?」

「説明してあげたいけど、聞いても今の君では理解できないよ。

もしいつか、君が同志になる日が来ればわかるかもしれないね」


同志という耳慣れない言葉が印象に残った。

ちょうど運ばれてきたコーヒーを、飲んで飲んで、と朱雀大路さんが勧めてくる。

こういうところは、ただの陽気なお兄さんにしか見えない。

飲みつけないコーヒーにこわごわ口をつけると、僕は思いきって尋ねた。


「教えてください、あのおじさんは何なんですか」

「あれは怪異だ」

「カイイ……?」

「怪奇現象の怪に異変の異と書いて怪異。

幽霊、妖怪、妖精、悪魔、怪物、呪い、都市伝説……そうしたオカルトじみたものを総称して我々は怪異と呼んでいる。中でもあれは一際タチが悪い。あまり怖がらせたくはないが、厄介なのに目をつけられたね」


荒唐無稽な話を、朱雀大路さんは当たり前のように語った。

一際タチが悪いという情報は僕にとってありがたくないものだったが、説明してくれる朱雀大路さんが落ち着いているので、パニックは起こさずに済んだ。


「私が所属しているのは、そうした人に害なす怪異を専門に退治しているチームだ。詳しい事は部外者の君には話せないんだけど、そこは超能力集団や凄腕の霊媒師といった、理解しやすい範囲で自由に捉えてくれて構わないよ」

「その……それってつまり……人間じゃ……ないって事……?」

「その通り。あれは人食いの鬼だ」


人食い鬼。

こんな話を聞かされたら、笑うか呆れて終わりだ。僕だって普段ならそうしていた。

でも朱雀大路さんの目には、それを許さない雰囲気があった。

こんなに軽い調子で語っているのに。


「もう一度言おう。君が考えている通り、先の二人の死はあの男の仕業だ。食われたんだよ。鬼は滅多に食事を摂らないが、ひとたび捕食期に入ると際限がない」

「……で、でも、事故や事件じゃなかったって」

「鬼が食うのは人の肉じゃない、魂だ。

奴が持つ紙袋のようなものは、抜き取った魂を閉じ込める為の籃なのさ」

「……僕の家に来たけど何もしなかったのは?」

「これは推測だが……まだ食う時じゃないと思ったからおとなしく帰っていったんだろうね」

「食う時じゃない……?」

「ほら人間だって、一番うまいものは最後に食べようとするじゃないか。私は最初に食べちゃうタイプだけどね……奴らはグルメなんだよ」


僕は寒気がした。

グルメという単語を、こんなにおぞましく感じたのは初めてだった。

よりによって、その対象になっているのが自分なのだ。


「奴はこの町で、いずれ来る捕食期に備え時間をかけて餌を品定めしていたんだ。年齢、性別、その他あらゆる人の持つ要素を観察し、吟味に吟味を重ねて、好みに合う人間をね」

「そんな事に5年も? ただの食事なのに?」

「殺されない限り鬼の命に終わりはない。久々の楽しみに備えると思えば5年待つくらい訳ないよ。100年そこらが寿命の生き物とは、根本的に感覚が違うのさ。……だからこそ、ここで殺しきらなければいけない」


整いすぎた顔立ちに似合わないぎらついた表情が朱雀大路さんの瞳に浮かび、僕は震えた。

でも、今更何を言ってももうあの家の人たちは死んでしまったのだ。

殺されて、食べられてしまった。

そして、とうとう僕の家まで来てしまった。

人食い鬼の仕業だとわかっているなら、どうしてもっと早く手を打ってくれなかったのか。

怒りと恐怖のせいで、僕の声はどうしても刺々しくなってしまった。


「そこまでわかってたのに、二人も殺されてもずっと見てたんですか?」

「君の怒りはもっともだ。我々も倒せるものなら早期に倒したかったが、迂闊に打って出られない事情があった」

「事情って?」

「あれは強い」


朱雀大路さんが短く言い切った。

その時だけは、声も目も全く笑っていない。だから嘘は言っていないのだと伝わってくる。

ただ、伝わりはしてもすぐには信じられなかった。

正直言って背が高くて若い朱雀大路さんの方が、痩せ気味な紙袋おじさんよりずっと強そうに見える。

見た目だけなら普通に殴り合っても勝てそうに思えた。


「あんな冴えないおじさんなのに……?」

「はは、冴えないおじさんか。ははは」


僕の率直な感想に、面白そうに朱雀大路さんは笑った。

それから、急に真面目な表情になる。


「いいかい、鬼の強さというのは外見では決して測れない。あいつはあんな細い腕をしていながら、掴めるものは何でも掴んでしまう。そして魂を抜き取るんだ。

体の一箇所でも掴まれたら最後だと思ってくれ。だから倒すには、手を使えないようにした上で一撃で仕留める必要がある」


朱雀大路さんは説明してくれた。

鬼退治なんて桃太郎で読んだくらいの僕は、そうなのかと思うしかない。

しかし次の一言に、驚きのあまり僕は飛び上がりかけた。


「君にも力を貸してもらいたい」

「え!?」

「無茶を言っているのは承知している。

命を危険に晒してくれと頼んでいるのだからね、こんなの断って当然だ。

だが、このままではどのみち君は奴に狙われ続けて死ぬ。

かといって、真正面からぶつかって勝てるかとなると正直難しい。

だから罠にはめる。その為に君の協力が必要だ」


とんでもない事を言い出した。

専門家でもない僕に、鬼と戦うなんて無理に決まってるじゃないか。


「できません! 協力って、僕、鬼退治の訓練なんてしてませんよ!」

「わかってる。ただの学生さんにそんな事できる訳がないしさせられない。

作戦はこうだ。奴の習性を利用して、あらかじめ私が張った罠の中におびき寄せる。

もちろん罠だとわかっていてノコノコ入ってくる奴はいないさ。

しかしね、考えてみてほしい。奴にとって君は後回しにしておいた大切なメインディッシュ、もしくはデザートだ。我慢して我慢して、やっと食べようとしていた皿が横取りされそうになったらどうするか?

間違いなく取り返そうと怒り狂って突っ込んでくるはずさ。

鬼は狩りに適した個体ごとのリズム……間隔を持っていて、余程の事がなければスケジュールを守って行動するが、例外もある。その例外をこちらで作り出して突破口にする」


朱雀大路さんは一息入れると、心底気の毒そうな表情になって言った。


「有り体に言って、囮というか餌だよ。

最悪の頼み事をしておいて何だが本当にすまん。

でもやらないと君は死ぬ」


僕の目の前が真っ暗になった。

冗談抜きで、失神していてもおかしくなかったと思う。

声に出して拒否するのさえやっとだった。


「そんな……そんな事はできないです。絶対無理です」

「だろうね。こんなの即決で承諾できる方がどうかしてる」


意外にも、朱雀大路さんは食い下がらなかった。


「だから私の提案に乗るかは良く考えて、君自信で決めてほしい。強要はしないし、できない。信じてもらえるかは難しいだろうが、誰か頼れそうな人がいるなら相談してもいい。ただし覚えていてくれ。もうあまり時間は残されていないと」


朱雀大路さんはレシートを持って席を立ち、呆然と座ったままの僕を残して店を出ていった。

暫くして、店員が追加の注文があるかを確認に来て、やっと我に返る。

力の入らない足でフラフラと立ち上がった僕は、テーブルの上に千切ったメモ用紙が置いてあるのに気付いた。

そこには朱雀大路さんの字で、私を呼ぶ気になったらこの紙を引き裂くようにと書いてあった。


メモを握り締め、店を出る。

歩いている人たちがいる。走っていく車がある。

でも誰も、鬼の事なんて考えてもいない。

自分だけが突然別の世界に置き去りにされてしまったみたいだった。


来た道を戻る。

ぼんやりしていたせいで、たまに人とぶつかりそうになり、慌てて避ける。

相談できそうな相手と言われて、思い浮かんだのは母しかいなかった。

その母の帰りを待っている間にも、残り少ない時間は減っていく。

そもそも、こんな話をどう説明すればいい。

紙袋おじさんを怖がりすぎておかしくなったのではと心配はしてくれても、信じてなんてくれないだろう。

せいぜい暫く学校を休んでいいと言われるか、病院に連れて行かれるかだ。

そしてどんなに大きくて人の多い建物の中にいたって、鬼が相手じゃきっと何の意味もない。

そう思うと一人の家なんて余計に帰りたくなかったが、僕にはそこしか行く場所がなかった。

しっかり鍵をかければ大丈夫と自分に言い聞かせながら、自宅がある道に繋がっている角を曲がる。

見慣れた住宅街が、まっすぐ続いていた。


見慣れているはずだった。


――あれは。

あれは何だ。


僕の家がある辺りよりずっと先に、夕陽に霞んだ人影が立っていた。

ここからでは顔は見えない。男か女かもわからない。

でも、片手から大きな紙袋を下げたシルエットだけは他と見間違いようがなかった。


奇跡的に足が動いてくれた。

自宅に背を向けて、全力で走って逃げる。

足をもつれさせかけながら、握ったままだったメモの存在を思い出し、迷わず破る。

走る速度を少し緩め、紙袋おじさんが追ってきていないか振り返り、

誰もいなかった事に安心して再び前を向いたタイミングで、僕は思いっきり通行人に激突していた。


「ご、ごめんな――あっ!」

「やあ、早速グッドイブニング。むしろバッドかな」


朱雀大路さんが、両腕で僕を受け止めてくれていた。

どこから現れたのかと驚く僕に、企業秘密、と笑ってみせる。またあの不思議な道具だろうか。

さっき別れたばかりというのが少し恥ずかしかったが、背中を優しくポンと叩かれると、不安と恐怖が嘘のように消えていく。


「かみ、紙袋おじさんが、あっちに。家の向こうから歩いて」

「わかった。見てみよう」


引き返すのはとても怖かったが、ここに一人で居残るのはもっと嫌だった。

朱雀大路さんの背中に隠れるようにして、僕は曲がり角へ戻る。


「いない……」

「消えたようだね。様子見か一旦退いたか。

強いくせにとことん慎重で臆病。この手合いが一番厄介なんだ」


忌々しそうに朱雀大路さんが呟く。

紙袋おじさんについて話す時だけは、理性的な雰囲気が崩れた。


「……さて、どうしたい?

このまま家に戻るなら玄関までは送ろう。中に閉じこもっていれば、とりあえず今夜どうこうなる事はないかもしれない」


朱雀大路さんは、あくまで僕の意思を確認してくれた。

でも僕は、今の遭遇ですっかり最後の気力を奪われてしまっていた。

頼んでも、朱雀大路さんは一緒に家に残ってはくれないだろう。

残っても意味がないのだ。罠を張らないと勝てない相手だと言っていたのだから。

僕に選択肢はなかった。






僕は再びさっきの喫茶店に逆戻りして、指定の時間までそこで過ごした。

そんなに長くは待たず、朱雀大路さんが迎えにやって来る。駐車場に停めてあった車に、僕は乗り込んだ。

もうすぐ夜になるという時刻に、昨日会ったばかりの男の人の車に乗って出掛けるだなんて正気じゃない。

しかし紙袋おじさんの件を立て続けに言い当てられて、実際に不思議な力まで見せられては、このままでは死ぬという話を嘘だと一蹴する訳にもいかなかった。

ハンドルを握る朱雀大路さんに、僕は助手席から尋ねる。


「もう準備は終わったんですか?」

「ああ、少し前から奴と戦う為の候補地として選んでおいた」


車が向かうのは、町の外れにある廃業したまま放置されている自動車整備工場だった。

敷地の広さからしても人目の少なさからしても、そこがベストなのだという。


「町の外れに行くって事は逃げようとしてるって事だからね。

死にもの狂いで追いかけてくるはずさ」


僕にとっては嬉しくない情報だった。

母には、ちょっとだけ寄り道していくとメッセージを送ってある。

今日は早めに帰らせてもらえるように頼むと言っていたから、連絡なしで家に僕がいなかったら心配するだろう。

ちらっと携帯電話を見たが、母からの返信は届いていなかった。


「チームって言ってましたよね、応援の人は来てくれないんですか?」

「残念だけど難しい。素質のある人間というのはほんの一握りでね。もともと少ないメンバーで全国の事件に当たっているから、他へ回せる人員はないんだ。それに君の場合タイムリミットが近い。誰かの手が空くのを待っている間にやられてしまうよ」

「そうですか……」


こんな事があちこちで起きている。

自分の身に降り掛かってさえ、僕はまだ半信半疑だった。


15分くらい走って、目的地に着く。

同じ町といっても、僕はこの辺りにはほとんど来た事がない。

施設をぐるっと囲ってある立入禁止のロープは、あらかじめ外してあった。

そこから中に入る。ガタガタと車体が小刻みに揺れた。

町中にある整備工場より何倍も敷地が広い。

僕は知らなかったが、営業していた時は同時に中古車販売も行っていたらしい。

周囲が畑ばかりという立地は、駐車スペース用の広い土地を手に入れるのに都合が良かったのだろう。


車から降りた僕は、誰もいない建物を眺めた。

看板は色褪せて、文字が雨で流れてしまっている。表面を覆うトタンは赤茶けた錆だらけだった。

事務所らしいプレハブも解体されないまま放棄されている。電化製品はなかったが、机や椅子は元のまま残されていた。

アスファルトは大きくひび割れて雑草があちこちで伸び放題だった。

人が使わなくなると、建物というのはこんなにも早く傷んでしまうようだ。


「僕はどうすればいいんでしょう」

「まさか加勢してくれとは言わないよ。そこに立っていてくれればいい」

「あとは?」

「ただ待つ」


朱雀大路さんはそう言うと、腕組みをして黙り込んでしまった。

もっと詳しい説明が欲しかったが、仕方なく僕も言われた通りに待つ。

何もしないで立って待っているだけの時間というのは、実際の時間より何倍も長く感じた。

しかも命を狙われていると思うと一瞬も気が抜けないので、余計に疲れる。

10分が過ぎ、20分が過ぎた。

紙袋おじさんどころか車の一台も来ない。


「あの、本当に」

「しっ」


朱雀大路さんが指を立てた。

この暗さでも確認できるほど、両目がぎらぎらと輝いている。喫茶店で紙袋おじさんについて語った時の表情だった。

しかし、相変わらず僕たちの他に人影はない。住み家に帰り遅れたカラスの鳴き声が聞こえてくるだけだ。

本当に近くに来ているのだろうか。

不安に耐えられずもう一度聞いてみようとした時、朱雀大路さんが舌を鳴らした。

チ、チチチチチチと鳥が囀るような音色が響く。

次の瞬間、それとは全く違う大きな音が僕の背後で響いた。

重たい塊を高い場所から地面に叩き付けたような、バァンという激しい音が。


僕は悲鳴をあげて振り返る。

整備工場の平たい屋根に、紙袋おじさんが立っていた。

いつもの地味な服装で、片手に真っ白い紙袋をぶら下げて、空いた片手を前後にゆらゆらと揺らしている。

両膝がぐっと曲がった。靴底にバネでも仕込んでいるかのように大きくおじさんが跳ねる。

着地を待たずに朱雀大路さんが襲いかかった。

僕に確認できたのはここまでだった。

ぶつかり合う二人が速すぎて、全く目で追えなかったのだ。

人間に、人間の形をしているものにこんな動きができるという事が信じられなかった。

ときどき風が吹き付けてきて、ガッという衝突音やべちゃっという濡れた音が聞こえるたびに、僕の周囲へ小さな破片が飛んでくる。

足元へ転がってきたのを見てしまい、僕は吐きそうになった。血塗れの四角い肉片だった。

へばり付いている布切れの色に見覚えがある。朱雀大路さんが着ていた服だ。

巻き起こる風にも、苦しそうな唸り声が混ざり始めている。


僕は叫んでいた。


「す、朱雀大路さん! 頑張って!」


その時だった。

顔を風が叩いたと思ったら、僕は肩を掴まれていた。

奴に掴まれてしまったら最後だと思え。

朱雀大路さんの言葉が蘇る。彼は負けたんだ。僕も食べられてしまうんだ。

ぐん、と体全体が前に引っ張られる。勢いで背中が反り返った。


死ぬ。


直感的にそう感じた。

猛スピードで走る自動車の前に放り出されたみたいに、世界が急激にスローモーションになる。

僕の命を掴み取ろうとしている、全ての指先を鉤爪のように内側へ曲げたおじさんの手が目に映った。

こんな時でももう片手に紙袋を握っているのが、なんだかひどく場違いに思えてしまう。


(あれ?)


両手が空いている。


(なんで)


僕は、紙袋おじさんに捕まったはずなのに。

ならどうして両手とも、僕を掴んでいないんだろう。

おじさんの手が、僕に届く寸前でぴたりと止まった。

その手に、どこかから飛んできた真っ赤な鎖が一瞬で巻き付く。

あっと思う間もなく、おじさんの腕は付け根から切り落とされていた。


「はあははは! やった、やったぞ!」


狂ったような男の笑い声を僕は聞いた。

やっと振り返れた僕は、声の主を見た。あんなに整っていた顔が、醜く歪んでいる。

それでわかった。僕を掴んで引っ張ったのは朱雀大路さんだったのだ。

引っ張って、紙袋おじさんの前に放り出した。

何故そんな事をと思ってしまった僕は、まだ状況を理解できていない。


「蒐めの手」


朱雀大路さんの笑い声が、ぴたりと止まった。

血走った両目が大きく見開かれる。

そしてきっと、僕も似たような顔をしている。


それは、紙袋おじさんの声だった。

おじさんが喋るところを、僕は初めて見た。

僕だけじゃない。町の人たちの誰も、おじさんの声なんて聞いた事がなかっただろう。

低すぎもせず、高すぎもしない。見た目そのままの地味な声だった。


「刹那の隙でも私の手を縛るには十分。そう信じられたのでしょう、あなた程の実力者ならね。

しかしながら手を鎖で包んだという事は、鎖が手に掴まれたのと同じ事でもあります」


朱雀大路さんが握る赤い鎖は、紙袋おじさんの切り落とされた腕と手に巻き付いている。

ぐるぐる巻きになった鎖の内側で、ぴくりと何かが動いた気配がした。


「ましてや斬られた腕は動かないだの、物越しなら大丈夫だのと思い込むとは常識的も甚だしい。関連を持つ品は全てまとめて蒐めるのが蒐集家の性。この鎖はあなたの持ち物でしょう。ならばあなたです」

「ぐっ、があっ……! くそっ、くそっ! もう少しだったのに!」


苦しむ朱雀大路さんの姿が変わっていく。

服が破れ、全身が膨れ上がり、肌が赤色を帯び、髪が伸び、頭からは曲がった大きな角が生える。

それは、昔話に出てくる鬼そのものだった。


「おや、まだ粘りますか。既に抜き取られたというのにしぶといしぶとい。

それだけ自信も、また危険と知りつつそれを愉しむ鬼らしさもあったのでしょう。

しかし足掻きはここまでです。おとなしく私の懐に収まりなさい」


おじさんが、紙袋の手提げの紐を片方だけ離した。

袋の口が、だらんと外側に垂れ下がって広がる。

以前に高校生たちが奪い取って確かめた時には、あれはただの紙袋だったはずだ。

中身が入っているようにも見えない。


「仕舞いの蔵」


朱雀大路さんの全身が砂になって崩れると、開いた袋の口へ一斉に吸い込まれていった。

ザアアと砂嵐を思わせる音が鳴り響き、すぐに静かになる。

そこにはもう朱雀大路さんも、赤い鎖も残っていなかった。


「大丈夫ですかね」


持ち手を握り直したおじさんが、僕の方を向いて言った。

心配しているようには聞こえない言い方だった。


「……何が……あったんですか。

なんだったんですか、これ。わからないですよ……」

「きみは利用されていたのです、私にごく僅かな隙を作るためだけの道具として。実際に腕を斬り落とすまではやってのけたのですから、手強い部類だったのは間違いありません」


機械のアナウンスみたいに説明する紙袋おじさんの片腕は、当然なくなったままだ。

地面に転がっていた腕に近寄って拾うのを見て、僕の喉にまた酸っぱいものが込み上げてきた。

拾った腕を、おじさんはそのまま紙袋に放り込む。


「恐怖を煽る情報を素人へ立て続けに与えて飽和させ、考える余裕をなくす。詐欺師の常套手段ですよ。今後の人生で同様の手口に引っ掛からないといいですね。鬼は殺せば済みますが、詐欺師は簡単に殺す訳にもいかない」

「朱雀大路さんは……おじさんが鬼だって……」

「鬼? あれが鬼ですよ。それと朱雀大路というのは私です」






「かつての私は蒐集家でしてね」


昔のではなく、かつてのと紙袋おじさんは言った。

かつて、なんてものすごく大昔を指す言葉なのに、なぜか不自然さはなかった。

やっと少し落ち着いてきた僕は、ここまで乗ってきた車に寄りかかっておじさんの話を聞いている。


「それはそれはもう様々な品を蒐めましたとも。

身分を振りかざしてだいぶ無茶もしたものです。私の悦びの影で泣いた者もさぞ多かったでしょう。

そんな欲深い真似を続けていたから、神様か仏様かのバチが当たったんでしょうね。

いつしか人ではないものに変質していた私は、こう告げられました。

罪を償う為、現世を跋扈する二億四千万の悪しきものを集めよ。

それを成した時に初めてお前は救われるとーーどうしました?」

「あ、す、すみません。あの……腕、大丈夫なんですか……?」

「ああ、何かと思えばそんな事ですか。腕ならそのうち生えてきますよ」


トカゲの尻尾じゃないんだし、なくなった人間の腕がまた生えてくるはずがない。

なのに紙袋おじさんがあんまり当たり前のように言ったので、そういうものかと僕まで思ってしまった。

非常識な出来事が起きすぎて頭の中が麻痺してしまっている。


「でも……コレクションのしすぎでそんな事になるなんて、罰にしたって酷すぎるんじゃ……」

「何事にも限度はあります。妻がこの世を去った時、私は亡骸を埋葬するのではなく蒐集しようとしたのですよ。愛情からではありません、この世にたったの一品だという希少性からです」

「………………」


なんて答えていいかわからなくて、僕は黙った。


「妻といえば……きみはなぜ僕などと名乗っているのです?」

「えっ。あ、ああこれは……なんとなく……」

「いけませんよ、女の子が自分の事を僕などと言っては。わたし、もしくはわたくしとお言いなさい」


こんな時に変な注意をされた。

別にこだわりがある訳じゃなく、小学生の頃に使い始めたのがそのまま続いているだけだから、理由なんて本当になんとなくだ。

今更急に変えるのも、周りから何か言われそうで恥ずかしい。

といっても、僕に話しかけてくる相手なんて学校にはほとんどいないけれど。

いじめられている訳ではないが遠巻きにされるようになった原因がこの一人称だという事は、僕も理解している。

そんな事を考えていると、紙袋おじさんが何かに気付いた顔になった。


「なるほど、変わっている子と周囲から思われていませんか」

「うっ」

「それで学校でも浮きがちで居場所がない」

「うっ」

「話し相手もいないから、休み時間になると図書室へ籠もってずっと本を読んでばかりいる」

「ううっ……」

「大丈夫ですよ、変わっているといっても私ほどではありませんから。それはそれとして話し方はお直しなさい」


何の慰めにもなっていない事をおじさんは言った。

僕はといえば、殺されるかもしれないと怖がっていた時よりダメージを受けている。


「……そういえば結局、朱雀大路さん……の偽物が言ってた戦う準備って何だったんだろう。この整備工場に何かあるんですか?」

「単純に広くて人がいないからでしょう」

「それだけ?」

「それだけとは。君は町中で殺し合いをさせるつもりですか?」

「そ、そうですよね。そんな事したら犠牲者が――」

「犠牲者よりも目撃者です。騒がれると蒐集がやりづらくなります」


紙袋おじさんーー本物の朱雀大路さんの言い方は、僕にはとても冷たく感じた。

悪を集めると言いながら、人の生き死になんてどうでもいいように聞こえたのだ。

命の恩人をそんなふうに見てしまう僕の方がずっと冷たいのかもしれないが、この人は罰を与えた神様だか仏様だかが気付かせようとしていた大切な事に、何十年何百年たっても本気で全く気付いていないんじゃないかという気がしたのだ。


悪を回収する作業さえ続けていれば、自分が救われると信じている。

僕には急に、このおじさんが鬼より恐ろしい存在に思えた。


「もうひとつ教えてください」

「構いませんよ」

「僕の前に二人殺されたのは、すざ……あの鬼がやったんですよね。おじさんが家を見ていたのは、あの鬼を探してたからですか?」

「そうです。あの種の鬼は朧鬼といいましてね、幻の如く巧みに姿と気配を変えて人里に身を隠します。捕食期に入って活性化しない限り、捕捉するのは極めて難しい。私も尻尾を掴むのに5年を要しました」


5年というと、ちょうど紙袋おじさんが町で目撃され始めた頃だった。


「じゃあ、僕の家を見にきてたのも……」

「鬼の気配を感じたからです。その時は空振りでしたが、目をつけられているのははっきりしていました」


それで何度もうちの近くを歩いていたのか。

だからあの鬼の行動にも気付けたし、こうして殺されそうなところを助けてもらえた。

事情を知らなかったのだから無理もなかったが、あんなに怖がって悪い事をしてしまったと思う。

謝って、それからもう一回お礼を言おうとしていた僕に、おじさんが背中を向けた。


「どこに行くんですか?」

「そろそろお暇します。もうこの町に用はありませんので」


そう言うと、ぽかんとしている僕を置いて本当に工場の敷地から出て行こうとしている。


「……えっ? あっ、待ってください!」


呼び止めても、おじさんは僕を残してどんどん歩いていってしまう。

僕は早足で追いかけながら聞いた。


「すみません……できたら家まで送ってほしいです」

「蒐集はもう済んでいます。それをする必要がありません」

「それだと僕、どうやって帰れば」

「二本の足があるでしょう」


歩けと言われても、ここから徒歩で家まで帰るのはかなり時間がかかる。

空はもう真っ暗だし、辺りには誰もいないのだから、せめて途中までは一緒に来て欲しい。

ただでさえ帰宅しているはずの時間を大きくオーバーしているのに。


「早く帰らないとお母さんが心配しちゃうんです。最近ずっとおじさんの事でピリピリしてて……あ、助けてもらったのは本当に感謝してますけど、お母さんはおじさんが何をやってたのか知らないから……」

「母君ですか……そういえば父君はどうなさったのです?」

「お父さんは……いません」

「いない?」

「僕が中学生になるすぐ前に事故で死にました。それからうちはお母さんが働いてるんです」

「そうだったのですね。中学校にあがる前に……そうですか」


おじさんは歩きながら考え込んでいるようだった。

考え直して送ってくれるかと僕は期待したのだが。


「さぞかしご苦労なさったでしょう、今後も奮起なさってください。それでは」

「あ、あの!」


一度も立ち止まってくれないまま、紙袋おじさんは行ってしまった。

僕の家があるのとは逆の方向だったから、後をついていく事もできない。

しょうがなく諦めた僕は、暗闇に不安になりながらうろ覚えの道を小走りで帰った。

途中で、怒られるのを覚悟で母に迎えに来てもらおうかと電話をかけたが、応答しなかった。

メッセージにも反応がない。まだ仕事が終わっていないようだ。

15分くらい歩いて入った大通りで、運良くタクシーを捕まえられた。

やっと帰宅した僕は、家中の明かりをつけてソファに倒れ込む。

いろいろあった、ありすぎた一日だった。


その日から、町で紙袋おじさんの姿を見かける事はなくなった。

その夜、母は家に帰ってこなかった。

次の日も。また次の日も帰ってこなかった。

次の日も。次の日も。次の日も。


次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。

次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。次の日も。


帰ってこなかった。


たくさんの人たちに話を聞かれて、援助をもらって、卒業して、働き始めて、大人になった今思う。

母は、いつ、どの時点から母ではなかったのだろうと。



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