第二話 中立魔導保全都市、迎撃戦 /クライマックスフェイズ4:地下牢獄の狂乱
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石造りの地下通路を駆ける幾つかの足音があった。
過ぎ去る足音は大人が三人程横並びできる幅の狭さにより反響し、左右に鉄格子の牢屋が並んで、その灯りはカビが生えて黒ずんだ石壁に備え付けられた燭台の明かりだけの薄暗い通路はその場にいるだけで心の中に影が落とされるような陰鬱さを秘めていた。
そんな湿った空気が漂う牢獄の中を幾つもの紫電が走る。
「マァァアニガッァァアァスゥッゥウウ!!!」
「こっちは先を急いでるんじゃ、邪魔をせんといてくれんかの」
手枷を半ばから破壊して自由を取り戻した囚人が声を荒げながら、好々爺然としている老人へとその掌から紫電を放ったのである。
音より速く届く紫電は、しかし魔法使いの老人、マニガス・ヴァンセニックへと届くことなく、湿った空気の中で消えた。
放った魔法が誰も焼くことなく不発したという現実を放った当の本人が理解する前に気配を消して懐へと潜りこんだ佐助が腹部に掌底を打ち込む。
「ごっふっ」
「それじゃあ、ごゆっくり」
呼吸を乱された男に生まれた隙を突き、手首を捻って脱臼させそこから流れるように喉を潰す。
魔法の発動を防いでから顎の先端を弾くようにして拳で打って頭を揺らして脳震盪を起こさせて気絶させた。
「出てきた牢屋に投げ込んでっと、後はよろしくっす」
「任せてくれ、この階層のこの区画は、これだ」
気絶した囚人を佐助は出てきた牢屋へと引きずって叩き込み、傍に駆けつけてきた魔法騎士、副官でるが手に持った鍵束から探し当てた鍵によって、再び収監する。
都合五度、解き放たれた囚人たちを再度彼らが囚われていた牢獄へと送り返しながら佐助達は魔法騎士団の地下に広がる牢獄で繰り返しながら進んできていた。
だがしかし、彼らの先を走る意識を黒い剣に乗っ取られた魔法騎士が、さらに奥へと進み囚われている凶悪な魔法使い達を開放させ待ち構えているであろうことは間違いないだろう。
ここまでの道程でいかに容易く蹴散らしてきたとしても、先を行く彼らに油断ができる筈も無かった。
「しかし、本当に奴の、あの走り去った魔法騎士の目的はここの囚人を開放させて魔法騎士団を混乱させることなのか? 確かに囚人の大暴動が本拠地で一度起きれば魔法騎士団も最悪壊滅しかねないということは分かるが……」
「まあ、そうだな。たかが魔法騎士の一人や二人が操られ、乗っ取られ、はたまた内通して裏切った程度で囚人共を全員解放するようなことにはなんねえよ。だからこそこんな風に単発の逐次投入的にしか襲い掛かってきてねえ」
自身の超能力である《透視能力》で暗がりの先を見通している実が走りながら疑問を呈し、その前方を守るように固める魔法騎士の一人、軽薄そうに語る部隊長と呼ばれていた男が答える。
戦力の逐次投入は下策であり、こういった囚人を脱獄させて混乱を引き起こすのであれば、同時かつ多発的に行わなかなければ、先ほどまでも五度と同じように一つ一つ丁寧に対処されてしまい、混乱どころか最低限の暴動すら起こすことができずに終わってしまうことになる。
そんなことも解らずにこんな事態を引き起こす輩なのか? 否、その程度の想定も出来ない者が魔法騎士団の事前の調べをすり抜けて混乱をもたらそう今なお動きを見せることができる筈もないと若き異邦の魔法研究者は考えていた。
「噂に聞いたこと無いか? 魔法騎士団に掴まった奴の末路がどうなるか」
「っは、噂には、この地下牢獄にっ、掴まった者の末路は、はっ廃人、だとか」
「まあ、そんな所だ」
息が乱れ始めた実の答えに部隊長と呼ばれた男は苦笑い混じりに首肯した。
「何でもかんでも捕えて閉じ込めたって、ここにも捕えられる限界はあるからな。だから、神殿付きの執行官に軽い罪で裁かれた時は大体、どこかの研究塔に送られたりするもんだ。まあ、よっぽどの重罪なら人体への魔法研究に使われたりするもんだが……大抵は安い労働力のようなもんだ。雑務作業だとか、冒険者に任せるような危険性が伴うようなものを安くやらせたりとか、様々だよ」
「どこでも安い労働力はいて困らないってことっすかね……」
「まあな。そこはどこの魔法都市でも変わらないさ。さる帝国の方の魔法都市じゃ、魔法使いは階級で区分されて、低い階級のやつが労働力を担当してるって話だしな、と話は脱線したが……何でもかんでも捕えては一生そのままなんてことはねえ、更生して貰うに越したことは無いからな」
「中には連れていかれた研究塔の主に気に入られて、そこで魔法研究に従事したという例も少なくは無い。ある種の美談とも思われるものだが、魔法の発展で罪を雪ぐこととなるのは魔法都市の独自性といったものなのだろうがな」
部下である魔法騎士が補足を加えた所で、部隊長が走りながら並ぶ鉄格子、その中でうずくまり、こうして目の前を慌ただしく駆け抜けている五人に何ら反応すら見せずに虚空を眺めていた。
「静かだろ? アイツ等は今、俺達が傍を通り過ぎたことも分かってねえし、多少どついた所でそのまま倒れるだけだぜ」
「寝てる……という訳では無さそうだが……?」
「いや、半分当たっているぜ。意識が朦朧とした状態になるように魔法を継続的かつ不定期にかけた結果があれだ。一日の大半はあの状態で過ごして貰ってる。まあ、飯食ってる間とか、下のあれ何かの時は起こしてるけどな。そこらへんの調整はお抱えの薬師がいるから何とも言えんが……牢屋の鍵が開いたからって直ぐに行動はできねえ」
「一気に暴動を起こそうにも、ってことっすか。あれ? だったらさっき立ち向かってきたのは……」
佐助が改めて疑問を呈する。
そもそも、食事や排せつなどの時間以外の意識を奪っているというのであれば、起き上がり立ち向かってきた五人は果たしてどういうことなのだろうか。都合良く起きていた時間であったとしても、それを見張っている筈の監視の姿を確認することはできなかった。細かく、《接触感応》で周囲の環境を精査している佐助には囚われている囚人の姿ばかりで監視の姿などまるで確認ができなかった。
「監視はこの時間はいなかった……というより、俺達の捜査に聞き耳立てられると困るから人払いをさせておいたんだが……それが裏目に出たというか幸いというかな。兎も角、起きていた奴らはたまたま起きてる時間だった訳じゃない」
「奴らは予め起きていたんじゃよ」
答えたのはマニガスであった。
老人に見合わぬ健脚で、こうして走り続けているにも関わらず一向に息を切らしていない。
「教授、それは……」
「魔法を掛けられていると言ったおったじゃろう? ならば、その影響を防ぐ、逃れる方法も勿論ある」
「でも、この牢獄の中で碌に魔法は使えない筈では……?」
「何事にも例外は付きもの……というよりも、単純にそれだけのことをやらかす輩を捕えているというだけじゃがな」
「それは……問題があるのでは? 誰にも抜け出せないのでは無かったのでは無いんですか?」
マニガスの言葉に流石に実も口を出さずにはいられなかった。
魔法騎士団が掛ける拘束は厳重そのものであることは、周知の事実であり、過去に抜けだせたものはいないとも言われる程の堅牢さであると、この世界に迷い込んでからずっとマナリストに住んでいる実は当然として、日が浅い佐助でさえも、そう認識していたにも関わらず、であった。
「魔法使いには確実性なものは無いと常にいっておるじゃろう、弟子二号。ましてやこの魔法都市、マナリストではいくら対策を施した所で無為となっても不思議では無いわ。むしろ未だに対処し続けていることがまさに魔法騎士団が責務を果たしているという証左よ」
「こちらでも常に最適な魔法に変更、更新を続けている。そうして何とか魔法に割く意識の余裕を削るしかないのが現状、というか終わらないイタチごっこになってる訳だ」
「おかげで意識を落とす、無力化する類の術に随分と精通したからな。魔法、非魔法に問わず」
魔法騎士達が口々にそう言いながら、首を絞めて意識を落とす際の仕草をする。
佐助から見ても先ほどの対処は見事なものであり、実践的な意味において忍者である彼よりも人を乱暴に拘束するような経験が豊富なことが伺える。
「でも、そんな手間暇かけてまでよく捕まえておくっすね。危なすぎじゃないっすか? もしくはもっと別の場所に封じ込めとおくとかできなかったんすか?」
「まあ、色々と事情があってな……、まあ、魔法研究の発展に貢献してもらう為にもそうそう死なせられんし、むしろ死んだらどうなるか分からん魔法使いとかざらにいるしなあ……しかし本当に不意打ちを受けねえよな」
部隊長のそのぼやきと共に、八メートル先の牢屋から男が飛び出してくる。
その手には火球が握りしめられており、掌から一気に解き放たれる。
「《火の種、すぼみ、果てる》」
目前へと迫る前にマニガスに対抗魔法の詠唱により、火の球という魔法によって引き起こされた現象が世界から否定され結果を生み出すことなく打ち消された。
驚愕する男に既に佐助が詰め寄っており、無力化させ魔法騎士が再び牢屋へと叩きもどす。
一糸乱れぬ動きに牢屋から開放されてきた魔法使いの尽くが一切の抵抗ができずに再び拘束される、その光景は一種の作業のようにも見える。
如何に彼らが囚われの身であるが故に体力の低下などに代表される体調の不良からその実力が発揮されないという状況に置かれていたとしても、マナリストにおける凶悪犯罪者達が一方的に倒され続けているのは何故なのか。
対魔法という観点においては最強と名高い、元対魔十六武騎であるマニガス・ヴァンセニックがいるからなのか? 確かに彼の御業により、囚人たちが放つ魔法の尽くが無力化されてしまっており、先を行く五人の内で怪我を負ったものは皆無である。
或いは、彼らを捕え収容している当の魔法騎士の二人による働きが大きいのだろうか? 魔法使いを捕えて拘束するという点に関しては追随を許さない存在が二人、それに加えて自身の根城である地下監獄を熟知している上に捕えている囚人の情報も把握しているために扱う魔法やその危険性も事前に知っているか、或いは推測するこができている。
だがしかし、彼ら以上にここまで一方的に戦闘をこなし、それに加えて走り続けることができるのは彼らの働きによるものが大きかった。
「二十メートル先に、敵影は無し……こっちの移動速度よりも随分と速いな……、こっちが集団、五人組で動いている都合上、確かに相手の方が速い、というのは一つ納得できるものではあるのだが……」
「残している痕跡を軽く読み取ったっすけど、的確に意識がある奴を選んで開放してまた走ってるっす。時折足を引きずってる感じからすると、一切、止まらずに走り続けてるっすね」
佐助と実、二人の超能力による的確な情報収集、これにより如何に囚人が待ち伏せや罠を仕掛けようとも事前に看破する。それにより余計な警戒を行う必要が無いために慎重に動くことも無く、全員で走り抜けることが可能となっていた。
とはいえ、佐助が《接触感応》により魔法を上手く感知することができないのと同じく、実の《透視能力》も視認した魔法については靄が掛かったようにしか認識することができない。
よって、囚人の拘束を始めとした魔法が幾重にも掛けられている地下牢獄内では、その視界も薄暗闇以上に見通すことができない。
「この直線で二十メートルも見通して貰えば、後はこっちのもんだ」
「罠の存在もそれほど手の入ったものを用意できる筈もないからな、こちらが先制を取るには少々難しいが……どこの牢屋で、どのタイミングで飛びだしてくるのかさえ分かれば、十分に対処できるからな」
「うむ、弟子二号を連れてきた甲斐があったというものよ、とは言え……そう楽観できる状況ではなさそうじゃが」
「おっしゃる通りです。まだ、俺の視界でも捉えれていません。いくら何でも速すぎます」
マニガスの言葉に、実は懸念を返す。
そう、二十メートルである。
いくら不意を突かれ、追いかけるのが遅くなってしまったとしても、一瞬で彼我の距離がそこまで遠のいてしまうものでは無い。
六度の囚人からの妨害があったとしても、相手が速すぎる。
「なあ、我が副官……アイツ、そこまで足速かったか?」
「自分の記憶では、監獄の端から端まで走り続けることができる馬鹿体力を持ち合わせた奴に幾つかに当てはまる。伝令を務めているだけはあるから不思議では無いと思うと副官としは報告する、が……」
「《暗視》擬きを使った魔法使いでも直線で捕えられん奴とかどんな脚力してんだよ。足を何かのモンスターと交換したってか?」
「悪い冗談はやめて欲しいんだがな、上官殿。アイツはここに降りてきて報告した瞬間にはまだマトモだっただろ」「それこそ、全力で走り続けているって奴っすよ。足が壊れても、こけても、何かに追われるように走ってるっす」
「そりゃ、俺達が追ってるけども」
佐助は《接触感応》で読み取った情報から、標的は常に止まることなく動き続けていることを把握していた。
それはもはや止まることができず、ブレーキの利かない機関車のようであり、明らかに呼吸が乱れても、ふくらはぎや太ももの筋繊維が断裂しようとも、破顔し大の大人が涙と涎を垂れ流そうとも、止まる事無く走り続けている。佐助は僅かに残された痕跡に触れ、感じ取ることができる。
そもそもの事の発端は、研究塔やそれらに所属する魔法使いに対して盗みを行っていた"盗み屋"の集団の一人であり、佐助自身が捕えた男の腹の中から飛び出して来た黒い剣に、外の異常を伝えに来た魔法騎士団の伝令役が刺されたことに由来する。
そして、佐助はその黒い剣に見覚えがあった。
(どこに落としたのかと思いきや、まさか体の中に隠してたとは……、だけど、まるで見つからないっていうのはどういうことなんだ……?)
魔法騎士団へと男を引き渡すまでの間で可能な限り《接触感応》により不審な点を調べ続けていたが、男の体内には黒い剣などと言うものはまるで見つからず、感じ取ることができたのは禁じられている薬水であるゾナリューションポーションを多く服用している程度のことしか無かった。
この状況から考えれば、あの男も黒い剣に操られていたのではないかと思えるのだが、だとすればこの状況で伝令役の男の身体を乗っ取り、自分達から逃げるように地下牢獄の奥へとその肉体を酷使し続けてまで進んでいくのは何か理由がある筈である。
(うーん、魔法騎士団を混乱させる狙いがあるっていうのもなんだが分からんでもないっすけど……、結局、ここまでの混乱を引き起こしておいて何をしたいのかって狙いがよく分からないんすよね)
"盗み屋"の集団は、ある人物に操られて幾つもの犯行を重ねていたのではないかという疑惑が先ほどの調査で浮かび上がって来ていた。
そしてその人物はこの魔法都市の中で探し物をしているように彼らを動かしていた。つまり、素直に考えるのであれば、その探し物を潤滑に行うために魔法騎士団を混乱させようとしており、加えてこのタイミングで都市の外から何らかの襲撃が起こっていることもどうにも仕組まれたものがあるのではないかと佐助が勘ぐってしまうのも無理もなかった。
(でも、ここまで"盗み屋"を態々裏から操った上で自分の正体に気づかれないように動いている割には、ここまで大胆に事を起こせるものなのか……? いや、ともすれば外からの襲撃を手助けするために内側で予め混乱を引き起こしているのか?)
錯綜していく状況を警戒し、走り続けながら脳内で整理し続ける佐助だが、それでも納得できない問題が浮上してきた。
(何か探しているようであったのは確かだ。もしそれを既に見つけた上で手に入れたいっていうなら混乱に乗じた方がやりやすいし上手くいくからっていうのも納得できる。けど、いくらなんでも規模が大きすぎないか?)
佐助はこのような状況、十人中八人がそうする場合であったとしても、情報を共有することは無い。
情報を共有したとしても状況が改善するとは考えていないからであり、余計な発言で現在の行動を阻害させる必要はないと判断したためでもあり、そして自身の能力の下限を知ることができる情報を広める必要はないからと考えているからであった。
従って、自身の推理に必要な多角的視点、自分が知りようのない情報を持ち合わせているだろうマニガスや魔法騎士の二人の手を借りることは出来ない。多少の事情が通じると考えている実に対しても同様であった。
(判断材料が少ないことはどうしようもない……まだ全体の動きとしては序盤の筈だ。そこから見えてくるものもあるだろうし、この混乱さえ押さえてしまえば後はそれこそ、魔法騎士団なりこの魔法都市ご自慢の研究塔の連中や、最悪エニステラも居ることだし、まかせてしまえばいいだろう)
部外者であり、一冒険者でしかない自分が魔法都市の自治に積極的に介入した所で指揮系統を混乱させる可能性もある。その上、佐助にとって優先すべき問題は他にある。余計な危険性を増やしたくはない。
(必ず、奴に遭わなければならない。俺が生きる理由を取り戻すために)
決意を深く改めた佐助の掌に次の反応が現れる。
距離は二十メートルであり、丁度《接触感応》による索敵範囲の対象圏内に触れている。
牢屋の中に立つ囚人はこちらの様子を伺っており、こちらが近づいた瞬間に飛び出して魔法を放つであろうことが考えられる。
他の囚人に動きは無く、完全に意識は魔法によって失われているようであった。
「来るっす。ここから右側五つ目の牢屋っすね」
「他の囚人は依然として寝てるようだな」
実も同じ情報を見て取ったらしく、齟齬は無いようであった。
二人からの情報を得て、魔法騎士の二人とマニガスが備える。
「接敵まで三秒……、二、一、今!」
実の合図と同時、読み取った情報から想定した通りに囚人が飛び出して来た。
その手には魔法が準備されており、掌が青白く発光していた。
「マァァァァニグッガガスゥゥゥゥッゥ!!」
叫びと共に囚人の手から想定通りに青白い光弾が放たれる。
その狙いは直線的、真っ直ぐにマニガスへと向かう。
「ふむ、《流れる光、されど輝き故に、其れは一瞬なり》」
マニガスが紡ぐ対抗魔法により発動された魔法は空気中へと消えていった。
練り上げた渾身の魔法を無力化された囚人は驚愕し、その隙を突くようにして接近した佐助がその死角から今冬させようと近づく。六度繰り返され、これで七度となる今度もたやすく遂行される。
光弾を放った手を取って捻り折った後に足の内側へと踏み込み、引っ掻けることで体を倒す、柔道における大内刈りに由来する技によって囚人をその場に倒し馬乗りになる。
そこから首を絞め上げて意識を落とそうと背後へと回ろうとした瞬間、ある種の勘のようなものに従って、咄嗟に佐助はその場から飛びのいた。
転がりながら退避した佐助の視界の端に映ったのは、通路を挟んだ両側の牢屋から幾つもの人影が砲弾のように飛び交う光景であった。
予想だにしていなかった光景にさしもの佐助でさえも思考が停止してしまう事態に陥ってしまうが、生来からくる鍛練により硬直は僅かな間で済んだ。だがそれは、生み出された混沌を回避するには至らなかった。
牢屋から砲弾のように射出されたのはこれまでと同じく囚われていた囚人達であったが、それまでと違っていたのはそのどれもがとても人の様を呈していなかったのである。
これまでの囚人達も狂声を発しながら襲い掛かってきたとても常人とは思えない有様であったのは確かだが、それらに比べても違っていた。
四つん這いで冷たい石畳を踏み、歯をむき出しに威嚇する様は正に狂犬そのものであり、知性の欠片も感じられれぬ瞳を持ち合わせ、完全に人の有りようを失っていた。
狂犬と化した囚人は、石畳の上に転がった佐助へと我先にと殺到する。どれも囚人生活のなかでやせ衰えてしまった細腕とは思えない程の素早さであり、正に獣も同然であった。
低い姿勢の四足獣。人間が行うべきでない挙動をしていることで佐助が動きを予測することを阻害している。
(野生のような動きというより、人間が考える犬が暴れる様子を模倣しているという方が近いか……、前に闘犬用の土佐犬の群れの中に修行で放り込まれた時もあったけれども、それとは明らかに違うな)
先ず、一人が石畳を強くその四肢で蹴り飛び掛かってきた。割れた爪から漏れた血の跡が宙を描きながら佐助の喉元へと向かう。
「グァァァァァッァァ!!」
「もはや人の言語も発さないっすかぁ」
喉元を防ぐために左腕を盾のように構える。それはもはや獣へと堕ちた人に差し出された生贄の如く摂理に従うように噛みつかれた。
その顎の力さえ、通常、人間が備える程度では済まず、皮や肉を越えて骨にまで響いてくる。
だがそれでも、その牙自体は皮一枚にすら届いていなかった。
佐助は左腕を振り上げてそのまま石畳へと叩きつけた。
左腕に噛みついたままだった獣と化した囚人はそのまま顎を砕かれる。それでもよく訓練が施された猟犬の如く噛んだものを決して離さない。
なので、もう一度振り下ろし、纏めて幾つかの歯を折ってから無理矢理左腕から引き剥がし、右手の短剣によって喉笛を掻っ捌いた。
「かっひゅ、かひゅう」
「よいしょ、と」
乾いた呼吸を零れた事を確認し終えたか、その合間に再び短剣を突き刺しててこの原理で頸椎をへし折った。
漸く手足から力が緩まった囚人の脇に手を通してから立ち上がる、そうすれば自然と続けて襲い掛かってきた獣の囚人への盾となった。
(イヌ科、というか群れを為す野生の獣と違って野生由来の統率が取れてる訳じゃない。こうして一つ一つ冷静に対処すればむしろ楽な類だ……見た目からくる嫌悪感とか平静を奪う類に使ってるのか?)
佐助は既に囚人と接触している。
左腕には歯が達しておらず、布越しであろうとも《接触感応》を集中させることで情報は読み取ることはできた。
凡そ人間の思考は残っておらず、かつて悪行を為した魔法使いとしての知識の欠片も残っておらずそこにはただ命令に従う獣のそれが植え付けられていた。
短い間ではどのような方法で、誰がなどといった情報を読み取ることは出来なかったが、それでも自らの意志によって行われた所業ではないことは確かであった。
盾となっていること切れた囚人を蹴り飛ばして食らいついている二人の、否もはや二匹を石畳へと押し付けた。
佐助は視界を自分の周囲に移す。
前方から次々に獣と化した囚人がこちらへと向かって来ていることを確認し、その猶予を計算してから後ろに振り返る。
集団が三つに分かれていることを把握する。
先ず、突出していた佐助、次に前衛と中衛を兼ねていた魔法騎士の二人と実、そして最も後ろにマニガスが孤立しており、それぞれの間に獣と化した囚人が壁となるようにして配置されている。
「き、教授!」
「落ち着け! 叫んだ所で状況は改善されんぞ!」
「クソッ! 道理でなんも無かった訳だ。本拠地である筈の俺達が罠に掛けられる羽目になるなんてな!」
中央は前後に各々、四、五匹の囚人の獣に挟まれており、更に魔法騎士の二人には既に二匹ずつ襲い掛かっていた。実は自身の知覚していた範囲内からの予想していなかった脅威に対する衝撃から立ち直っていない。
「フゥム……、外部から精神改造が施されている。それも態々狂犬化を使う輩で、この牢獄においても密かに手駒を造り出せる腕の持ち主……」
対照的に奥には最もこの中で危険に晒されている筈のマニガスが最も落ち着き払い佇んでいた。
自分達が通ってきた道から続々と現れてくる囚人であった獣が自分達を捕えていた牢屋から飛び出してきていた。
だが、直ぐ様に飛び掛かるような様子は無く、マニガスに対して一定の距離を保ち包囲するように取り囲んでいた。
魔法使いの老人はそれらを睥睨し、蓄えた顎鬚を撫で付けて何かを思案していた。
マニガスの眼前、唯一開かれていなかった牢獄が開かれ、中から初老の男が現れた。
野性味の溢れた顔付きにその瞳は餓えた狼そのもの、囚人服に身を包んでいるが他の囚人達とは異なり長期の収監生活の跡を伺わせぬ生気のようなものが醸し出されていた。
初老の男がマニガスの姿をその視界に入れると犬歯をむき出しにして邪悪な笑みを浮かべた。
「グフガハガハガハ、漸くあえたな若造」
「……怪しいとは思っておったんじゃがなあ。これまた随分と備えるということを学んだらしいの、フェングレッド・ヴァンダイム、お惚け狂犬ジジイが」
啖呵を切る二人を確認してから、佐助は振り返り背後へと飛び掛かってきた囚人だった獣を迎え撃つ。
伸びきった爪を用いた獣を模倣するような爪撃を、その手首を抑えて防いでそのまま石畳へと組伏せるように叩きつける。
手加減をしている暇などなく、できれば一匹ずつ息の根を確実に仕留めたい佐助であったが、次々と遅いかかる獣達を相手取りながらではそんな暇は無いと判断した。
(手順を変えよう。息の根を止めるために、行動不能にさせる。行動不能にさせるために、弱らせる。弱らせるために、行動を阻害し封じる。一つ一つ積み重ねていく)
地に伏せさせた獣に対する止めを後に回し、続いて左右に分かれて襲い掛かってきた二匹をまず左側から向かってきた獣の攻撃をすり抜けながら懐に入ることで同時に右側の獣の攻撃を避け、獣の鳩尾に拳を叩き込む。
反転して自身の後方に飛び込む形となったもう一方の獣の脇腹目掛けて蹴り放つ。
二匹が動かなくなった隙をつき、先ほど地に伏せた獣に止めを刺してから、拳を叩き込んだ個体に追撃、続いて蹴りを放った獣を組伏せる、その後に現れた次の獣への対処を挟みながら、倒れた獣に止めを刺した。
同時に飛び込んできたとしても、そこに野生の獣が作る群れのような連携は無い。バラバラに襲い掛かるだけの奴らなどを一つ一つの単位に分けて対処することは佐助にとって困難ではない。
狭い通路に少しずつかつて囚人だった獣の骸が重なり、程度を把握した佐助。しかし彼の耳に実の焦燥を含んだ声が届いた。
「気を付けろ! アイツが戻ってきた!」
注意喚起が届くのと同時に石畳を盛大に踏み鳴らす音が聞こえた。
取り囲む獣の内の一匹を背後から抱えて振り回して包囲を取り除くと、前方から駆けてくるその姿が確認できる。
下手くそな使い手によって無理矢理に走る形を取らされている人形、黒い剣を携えて伝令係と呼ばれた男が佐助へと一直線に向かっていた。
途上で地を這う獣共を駆け抜けると同時にその手に持つ黒い剣で切り伏せながら進むという狂乱は止まる事無く、佐助へと向かい。
忍者の振り上げた短剣と激突した。
「………初めからこうするつもりだったという訳っすかね」
「わははえひひしあひあひふうはははふぁひあひふぁいひふひえ」
もはや言語にもなっていないような狂喜を表現しながら黒い剣は再び振り下ろされる。
魔法騎士団の地下牢獄において、狂乱がまき散らされていた。
地下で押しとどめなければ魔法騎士団は他の事態に対処する余裕を持てなくなる。
逃げ場はもはやなく、よって狂乱を止めるために佐助はここで戦う覚悟を決めた。
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