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天井に向かって立ち上っていく湯気と泡をぼんやりと眺めて、ロゼッタは湯船に深く身体を沈める。湯の中をゆらゆらと揺蕩う長い黒髪は、水底で揺れる水草を連想させた。水草を掻きわけるように両手を水面から出し、ぷかぷかと揺蕩っていたぬいぐるみを捕まえる。泡に包まれたその身体を湯の中に少し沈めると、抗議の声が上がった。
「やめろ、溺れる、溺れるって!」
「……むっちさんって、呼吸してるの?」
驚きの表情と共に問い掛ける。そんな反応は求めていないと、むっちさんは呆れたように呟いた。彼の身体の中に含まれていた空気が、石鹸の泡と共にぷくぷくと水中を昇っていく。泡を落としきったことを確認すると、水分を含んで幾らか重くなったぬいぐるみを抱えて湯船から出た。水分を拭き取っていない肌は空気に晒された途端に冷え始める。身体が冷えないように、壁に掛けていたタオルを羽織る。それから腕と身体で挟み込むようにして、むっちさんを強く抱き締めた。絞り出された水がぽたぽたと床を濡らす様を眺め、乾かすのには時間が掛かりそうだと溜息を吐く。
身体を拭いて着替えを終えると、タオルに包んだむっちさんを小脇に抱えて居間に向かう。時折ぱちぱちと火の粉を散らす暖炉の前に陣取り、ぬいぐるみの身体を拭き始めた。手の中から上がる嫌そうな声を聞いていると、風呂上がりのペットを拭いているような気分になる。ロゼッタは思わずくすりと笑みを溢した。
髪やぬいぐるみを乾かすために暖炉の前で暖かな空気に包まれていると、自然と瞼は重くなってくる。手だけを動かしたまま半ば呆然と暖炉の火を眺めていると、不意にむっちさんに話し掛けられた。
「いつになったら帰ってくるんだろうな」
ぽつりと口にしたのは、一年程前に姿を消したレイラのことだ。姿を消したと言っても、突然いなくなった訳ではない。彼女自身の目的の為、何よりロゼッタの為に、他の地域で情報収集を行っているのだ。
ロゼッタが一人でも狩人として充分戦えるようになり、見守る必要がなくなった。ただそれは、彼女が今いる市街地に限った話だ。他の地域では更に凶悪な狼が彷徨いていることも珍しくはない。整備された都市部以外、人の手の入っていない自然の残る環境には大きな危険が伴う。そんな場所に適応する為に進化した狼は、市街地にいるものよりも遥かに強いのだ。狩人として一人前になったばかりのロゼッタでは、到底太刀打ち出来ない相手だ。故にレイラはこの市街地のことをロゼッタに任せ、他の地域へと足を運んだのだ。狩人として、レイラはこの国で長いこと過ごしてきたらしい。そうして様々な場所で狩りを行った経験があるからこそ、市街地以外でも戦えるのだ。
殆ど戻らないままのロゼッタの記憶に関する手掛かりと、彼女の捜す少年についての情報。そして、自身が必要とする情報を得る為にレイラは姿を消した。心細くないと言えば嘘になるが、レイラに信頼されてこの市街地を任されているのだと思えば、誇らしい気持ちの方が上回る。ただ、レイラへの心配は何をしようと消えない訳で。時偶他の狩人からレイラの話を聞くことはあったが、それも最後に聞いたのは半年程前だ。余程遠くにいるのか、それとも何かあったのか……。嫌な想像をしては頭を振り、脳裏に浮かんだ映像を無理矢理追い払う。レイラが誰よりも強い狩人であることは、ロゼッタ自身よくわかっている。それでも気になって仕方がないのは、頼りになる存在として、無意識の内に依存してしまっているからだろう。自覚があるからと言って、どうにか出来ることでもない。
「……捜しに行ったら、怒られるかな」
任された仕事を投げ出して危険な場所へと向かうことを、レイラは許さないだろうか。最初の約束通りにことが運ぶことなく自分が此処に残されてしまったのは、自分の実力がレイラの予想していたものよりも下だったせいだろう。それが悔しい反面、自分の為に少年を捜すことにしてくれたのは嬉しかった。そんなレイラの気持ちを無駄にするような真似は、出来ればしたくない。ロゼッタが呟くと、むっちさんは直ぐに否定の言葉を返した。
「怒りはしないだろ。レイラのことだから、小言は言われるかもな」
実際、ロゼッタが怒られたことは一度もない。そもそも怒られるようなことは滅多にしないのだ。彼女が危険に身を晒した時も、レイラがいつも口にするのは怒りではなく、忠告と彼女を気遣う言葉だ。
そもそも、一向に帰ってこないレイラの方にも問題があるとむっちさんは言う。自分の師匠が一年も連絡も寄越さずにいれば、愛弟子が心配して捜しに行こうと考えるのは当然のことだと。もしかしたら知人の狩人を通してロゼッタの近況は聞いているかもしれないが、それならば自分のこともロゼッタに伝わるようにするべきだ。
二人に増えてしまった大切な存在。どうしても捜しに行きたいのであれば、ロゼッタの好きにすればいい。むっちさんはそう続けた。
「あ、俺だけ留守番ってのは嫌だからな」
「大丈夫、置いていかないよ。いつも一緒なんだから」
今更むっちさんを手放すことなどロゼッタには出来ない。彼は一番の理解者であり、自分の捜し人に繋がる唯一の手掛かりなのだから。それに、普段から鞄に入れて連れ歩いているのに、遠出するからと置いて行く理由はない。
「でも、本当に捜しに行くのならさっさと決めた方がいいぞ」
「……そうだね。悩んでる時間が、勿体ないよね」
吸血鬼の血をその身に宿す者の特徴は、その身体能力の高さや他人の血を必要とすることだけではない。狼、或いは狂人になった時点でその身体の成長は止まり、場合によっては驚異的な回復能力を得ることもある。寿命という概念がないからこそ、狼を増やさないよう、少しでも減らせるように狩らなければならないのだ。
むっちさん曰く、捜し人の少年は普通の人間であるようだ。これから長い時間を幼い少女のまま過ごすロゼッタに対し、少年は確実に年老いていく。いつまでも夢の中で見たあの姿ではいられないだろう。少年が大人になってしまったら、彼女には名前もわからない少年を見付けられる自信はない。既に二年が経過しているのだ。ただでさえ少年のことをはっきりとは思い出せずにいるのに、時間が経てばその記憶もそれだけ朧げになってしまう。捜しに行くのなら、早いに越したことはないだろう。
手にしていたタオルを床に敷き、その上にまだ水分の残るぬいぐるみを置く。少し待っているように告げて、ロゼッタは自室の本棚へと向かった。分厚い本の隙間から四つ折りにされた古めかしい紙を引っ張り出すと、ベッドの上の毛布も一緒に抱えて居間に戻り、暖炉の方を向く形で置かれたソファーの上に寝そべった。仰向けになって紙を広げると、紙面一杯に描かれたこの国の地図が目に入ってきた。
海と山々に囲まれたこの国は、そう大きくはない。海に面した西側と国の中央、それから山に囲まれた南側と東側に市街地があり、北側には森が広がっている。各地域、そして他の国との境界は高い城壁や川で区切られている。嘗ては全ての地域や国外とを結ぶ鉄道や蒸気船、飛行船などがあったらしいが、現在はもう存在していない。利用する者も運用する者もいなくなってしまったのだ。街中に放置された馬車や自動車の形跡からも、真面な交通手段が既に失われていることは推測出来る。移動するとなれば、徒歩以外の方法はない。
「一番近いのは……やっぱり、中央かな」
ロゼッタが今いるのは、東側の市街地だ。今でも数多くの一般人が住んでいる地域で、その分狼に襲われる者、或いは狼と化す者が後を絶たない。また、国の外でも狼や狂人は出ているようで、解決策を模索する為に態々山を越え、此処に移り住んでいる者もいる場所だ。西側の市街地も似たようなもので、元々の住人に加え、海を越えて来た者が住んでいるらしい。南側も昔は一般人の住む所だったようだが、当時は狩人が少なかった為に狼が増え過ぎてしまい、今や廃墟しか残っていないと聞く。
対して、中央市街地は王族や貴族が住んでいた地域で、城壁の向こうに聳え立つ王城は霞んではいるものの、この場所からも見ることが出来る。他のどの地域よりも華やかで、技術も発展していたようだ。全てレイラから聞いた話ではあるが、確かに遠目に見える城の荘厳さからは、間違いなくこの国の中心地であったことが窺える。
「教会の本部があるんだっけか。まあ、まずは其処に行くのが無難だよな」
この東側の支部では、半年前からレイラの情報は入らなくなっている。行くのであれば、最も近い中央市街地を目指すべきだろう。距離的には半日も掛からないはずだ。南側の市街地も遠くはないが、大きな川で隔たれている為に此処から向かうのは困難である。それにむっちさんの言う通り、教会の本部であれば支部よりも多くの狩人が関わっており、それだけ情報も充実しているはず。
地図を四つ折りに畳み直して、むっちさんの傍らへと置く。身体の疲れと部屋の程よい暖かさに、眠気に耐え続けるのも流石に限界だった。ソファーの上のクッションを枕代わりに引き寄せて毛布を被る。暖炉の前でむっちさんを乾かしている間に、このままソファーで寝てしまうことにする。疲れを取るのにはベッドで眠るのが一番いいが、むっちさんが近くにいないと安心して眠ることが出来ないのだ。
レイラがいた時は、ソファーに座り武器の手入れをする彼女の手元を、隣に座って真剣に眺めていたものだ。いつだったか、疲れから寝てしまったロゼッタを、レイラは態々ベッドまで運んでくれた。乾いてふわふわな毛並みをすっかり取り戻した、むっちさんと一緒に。ロゼッタを子供扱いしている訳ではなく、むっちさんが彼女にとって大切な友人であることを理解してくれているからだ。
「……レイラ様」
そっと呟くと、途端に寂しさに襲われる。ふとレイラの優しさに触れていた頃を思い出す度に、一人で戦わなければならない今の状況が辛くなってしまう。むっちさんがいなければ、一年間も我慢し続けることは出来なかっただろう。
寂し気な表情を隠すように毛布に顔を埋めたロゼッタの心情を察したのか、むっちさんは溜息混じりに声を掛けた。
「そんな寂しそうにしないでくれよ……。俺だけじゃダメか?」
「……ごめん」
不意に寂しさを覚えてしまうのは、二人と一匹――自分とむっちさんとレイラで過ごすことに慣れていたせいだ。もしかしたら過去の自分も寂しがり屋だったかもしれないが、レイラに会うまでのことを碌に覚えていない以上、真実はわからない。また夢を見ることで、何か思い出せるといいのだが。残念ながらレイラに出会ったあの日以来、自分の記憶に関わりそうな夢は見ていない。
せめていい夢を見たいと思いながら目を瞑る。むっちさんが「おやすみ」と発したが、直ぐに眠ってしまったロゼッタの耳には届かなかった。
すやすやと心地よさそうな寝息を立てて眠るロゼッタを眺めながら、むっちさんは大きな溜息を吐いた。
「寝顔は女の子そのものなんだけどなあ……」
最近のロゼッタは狩人としての仕事に勤しむばかりで、少女らしい一面は当分見ていない。銃を手にし、眉一つ動かすことなく弾を放つ。返り血に髪や服を赤く濡らしながら淡々と狼を狩る姿は、幼い少女とは到底思えない。元々精神的に大人びた面があるのは確かだし、そうならざるを得なかったのはわかっているのだが、偶には年相応な部分も見せてほしいものだ。
レイラがいた頃はもっと感情豊かだったような気がする。優しくされた時は照れて頬を赤く染め、褒められる度に嬉しそうに微笑んでいた。彼女が帰ってくれば、以前のように笑ってくれるのだろうか。
「はあ……ほんと、早く帰って来てくれよ」
いい加減ロゼッタの真面な笑顔が見たいとぼやいた彼の声は、悲しいことに誰にも届かなかった。