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灰ノ血  作者: 春色
虹彩異色の少女
3/5

 自分の身に何が起こったのかわからず、ロゼッタは暫し呆然と目を開いていた。視界には少し前に見た仄暗い天井と、それを背に心配そうに此方を覗き込んでいるレイラの姿があった。数回瞬きをした後に、ロゼッタは自分が夢を見ていたのだと悟る。そっと頬に手を当ててみると、まだ温もりの残る雫が指先を濡らした。


「苦しいのかい? うなされていたようだけど……」


 浅く、荒い呼吸を繰り返すロゼッタの目は不安気に揺れていた。彼女の額に掛かる黒髪を優しく払いながら、レイラは頬をそっと撫でてやる。体温は特に高くも低くもない。魘された原因は、狼に追われた恐怖が残っているからだろうか。狩人として狼を退治することに慣れてしまったレイラには、幼い少女が感じた恐怖がどれ程のものであったか想像出来なかった。

 自分を気遣うレイラの表情が曇ってしまっているのに気付き、ロゼッタは慌てて大丈夫だと答える。助けてもらった上に世話になっている相手に、これ以上心配を掛けたくはなかった。

 魘されて寝返りを打っていたからか、むっちさんは手から放れてベッドの端に転がっていた。彼を再び抱き締めて、ロゼッタは大きな溜息を吐く。傷の痛みはもうそれ程酷くはなかったが、今は脳に響くような頭痛を感じていた。何か、大切なことを忘れているような気がするのだ。先程の夢は、もしかしたら自分の記憶に関わっているのかもしれない。だが昔のことを思い出そうとすると、頭痛は徐々に酷さを増していく。


「無理すんなよ」


 目を細め、痛みに耐える姿を見ていられなかったのだろう。むっちさんは心配そうな表情を浮かべているように見えた。彼に労りの言葉を投げ掛けられたロゼッタはそっと頷き、彼の柔らかい身体に顔を埋めるように擦り寄る。いつも一緒にいてくれるぬいぐるみは、持ち主に似て少し心配性なのだ。それは彼の優しさでもある。

 そう。むっちさんは、どんな時でも大切にしてきたぬいぐるみ。昔誰かに貰って、それ以来ずっと……。

 ずきりと突き刺さるような、一際強い頭痛を覚えた。むっちさんを見ていると、頭痛と共に脳が騒めくような感覚がするのだ。何かを思い出せそうな気がして、ロゼッタは痛みを我慢しながら彼の顔を見つめた。ふわふわの毛並みに、左右に離れた黒い瞳と動物らしい二つの弧を描いた口元。人の顔には似ていないが、何故か夢に現れたあの少年の姿が重なって見える。むっちさんを持つ自分の手が自分のものではないように感じたかと思うと、いつの間にかむっちさんの背後には、顔を塗り潰された少年がいた。


――むっちさんをくれたのは、貴方なの?


 少年の幻は問い掛けに答えることなく、一瞬で消えてしまう。同時に頭痛も少しずつ治まっていった。

 どうしてむっちさんを持っているのか、ロゼッタが彼を大切にしようと思ったのか。思い出せないその記憶に、少年が深く関わっているのは間違いなかった。


「俺は、ずっとお前と一緒にいるように言われたよ」


 ロゼッタの疑問に答えるように、むっちさんがぽつりと呟いた。彼は此方の考えていることを直ぐに言い当ててしまう。長く一緒にいたからか、彼女の瞳に映る感情や考えがむっちさんにはわかるのかもしれない。

 むっちさんを渡したのは、彼女とそう歳の変わらない少年だと彼は口にする。詳細な年齢は、彼も知らないらしい。


「むっちさんをくれた人のこと、思い出せないの。名前も、顔も、何一つ。だから教えて。お願い」


「それは……」


 珍しく口籠もってしまったむっちさんには、迷いの色が見えた。先程の彼の口調と言葉からは、本来ならロゼッタもよく知っている存在であるのだと窺える。彼女の知らないことで、話せないことでもあるのだろうか。


「……『一人にしないで』って言ってたよな」


 呟かれたのは先程の夢の中でロゼッタが発した言葉だ。むっちさんがそれを知っているのは、魘されている間に言った寝言を聞いていたからだろう。消えていった少年に対して放った言葉と、その内容。そしてその後にむっちさんを見つめていたことから、彼はロゼッタの考えを見抜いたようだった。

 暫くむっちさんは黙っていたが、やがて決心したように告げた。


「彼奴はお前のことを置いて、どっかに行っちまったよ。お前が止めるのも聞かずに」


 覚えていない相手の情報をいきなり沢山教えても、ロゼッタが困惑するだけだろう。ただ、先程魘されて呟いていた彼女の言葉から察するに、記憶の奥底に眠ってはいるようだ。それなら少しずつ情報を与えれば、徐々に記憶も戻ってくるはずだとむっちさんは考えたのだ。

 何処かへ行ってしまった少年。ロゼッタは彼を捜す為に、雨の降る危険な街の中を彷徨うろついていたと説明された。


「捜す為に……ずっと、捜して……」


 再び脳の血管を圧迫するような頭痛がロゼッタを襲った。包帯の上から頭を押さえて頭痛が引くのを待つが、ずきずきと響く痛みは中々治まらない。頭痛と共に酷い目眩も感じ、眼に映る景色が回り始める。思わず強く目を瞑り、布団の中でうずくまった。心配そうなレイラの声が、何処か遠くの方で聞こえる。

 不意に、瞼の裏にノイズだらけの細切れの映像が映る。セピア調の映像には、夢の中で出会ったあの少年の姿があった。だが夢の中とは違い、彼の顔は上半分だけが塗り潰され、口元ははっきりと見えている。その口は何か話しているように動いていたが、声は聞こえなかった。続いて急にノイズが酷くなったかと思うと、今度は見覚えのある景色が映る。水煙の立つ街路と、暗い灰色の空。ぽたぽたと頬を濡らす、冷たい雨の感触すらあるような気がした。ああ、此処はさっきまでいた市街地だ――頭の片隅でそんなことを思っていると、映像は急にぷつりと途切れた。

 ゆっくりと目を開けると、頭痛と目眩は既に治まっていた。此方の顔を覗き込むレイラの灰色の瞳に、額に包帯を巻いた自分の姿が映る。呆然とした表情の自分を見つめながら、ロゼッタはそっと呟いた。


「何で忘れてたんだろう……。私は、大切な人を捜して此処に来たのに」


「大切な人?」


 首を傾げるレイラの視線の先で、ロゼッタは腕の中のぬいぐるみを強く抱き締め、そのふわふわの身体に頬を擦り寄せた。土砂降りの雨が降る市街地を通ってきたにも関わらず、ぬいぐるみから湿気っぽい香りはしない。何処か懐かしい、暖かい匂いがするような気がしているのは、これが大切な人との思い出の品であると確信出来たからだろうか。


「むっちさんをくれた人。まだ……名前は思い出せないけど」


 寂しそうな表情と共に伏せられた目に、薄らと涙が浮かぶ。こんなに大切にしているぬいぐるみをくれた人が、自分にとって大切な存在でない訳がない。それなのに、今の自分はその人の名前を忘れてしまった。その事実が、悲しくて、悔しくて仕方がなかった。ごめんね、と掠れた声でむっちさんに呟くと、彼はその内思い出せばいいと言葉を返した。

 大切な人を捜して、こんな所に迷い込んだとはね――布団に包まりながらぬいぐるみを抱えるロゼッタを眺めながら、レイラは眉を顰める。何も知らずに来たとはいえ、危険な市街地に武器も持たぬ少女が、たった一人で彷徨っていた。彼女の保護者に当たる者は、一体何をしていたのだろう。それともそんな存在は、疾うにこの世にいないのか。この国で行方不明になることは、即ち既に死んでいることを意味しているようなものだ。その可能性は充分にある。

 そもそも、どのタイミングでロゼッタは狂人となったのだろう。少なくとも先程の狼に襲われた為と考えられるような傷はないことから、彼女はそれよりも前に狂人になっていたことがわかる。もし彼女の大切な人が彼女の親だというのなら、狼に襲われて命を落としている可能性が高い。偶々狂人となり生き残ったロゼッタは、そのショックで記憶を失っているとも考えられる。そうだとすると、大切な人を捜しているというのはその死を受け入れられなかった為か。


――この子をどうするべきか……。


 ケガが治れば再びロゼッタは市街地に出るだろう。一人で街中を出歩かせる訳にはいかないが、レイラには彼女のお守りをしている暇などない。狩人として、市街地中を回り狼の駆除に当たらなければならないのだ。戦力にならないロゼッタを共に連れて行き、守りながら戦うのはリスクが高い。

 ロゼッタが戦えるのなら。其処まで考えて、レイラは一度思考を中断し、改めてロゼッタに視線を向ける。まだ十歳程の少女ではあるが、彼女は普通の人間ではなく狂人だ。吸血鬼の力を受けている以上、その身体は最早普通の人間とは全く異なっている。幼いとはいえ、常人に比べて身体能力も充分に高いはずだ。


「君はケガが治ったら、また『大切な人』を捜すつもりかい?」


 問い掛けると、ロゼッタは静かに頷く。完全に傷が塞がらなくてもいい、動けるようになったら直ぐにでも捜しに行きたいと彼女は告げた。

 少女の言っていることは無謀でしかない。レイラは肩を竦めながら溜息を落とす。


「……此処は君のような子供が一人で出歩けるような所じゃない。それでもどうしても捜したいと言うのなら、一年だけ時間をくれないか」


 ロゼッタは言葉の意味がわからず目を瞬かせる。徐にベッドに背を向けると、レイラは机の上に置いていた獲物に手を伸ばす。振り返った彼女の手には、銀色の銃が収められていた。細やかな装飾が施された長い銃身と、後方に行くにつれて少し広がるグリップは、マスケット銃のようである。しかし全体的にやや小さく、片手で持つことが出来る大きさだった。更に、本来撃鉄や火皿があるであろう場所には赤い宝石が嵌め込まれており、その宝石の下からグリップ部分を隠すように白い布が広がっている。よく使い込まれてはいるが、汚れや傷などが殆どない所を見ると、丁寧に手入れされているようだ。


「君がこの国で生き残る為には、狩人になるしかない。狂人である君が彷徨けば、私達のような狩人に殺される。子供として振る舞っていれば、何れ狼に食われる。それが嫌なら、私の言うことを聞きなさい」


 本来なら弟子は取らない主義であるレイラだが、自分が助けた以上、幼い少女を放って置く訳にもいかない。それに、他の狩人にロゼッタのことを余り知られない方がいいような気がしていた。ただの狂人が討伐対称になっていることだけが理由ではない。拾った狂人を、それも子供を狩人にするということが、他の狩人にどう思われるかも、レイラにはどうでもよいこと。彼女が最も懸念を抱いていたのは、ロゼッタの『友達』のことだった。

 レイラの手に収められた銃を暫し見つめた後、ロゼッタは自身の手に視線を動かす。其処に見える華奢な手が、自分が如何に弱い存在であるかを物語っていた。襲い掛かってくる狼に対し、少女としての自分は逃げることしか出来ない。こんな状態では、この国で大切な人を捜すことなど無理に等しい……。

 意を決したロゼッタはベッドの上でゆっくりと起き上がり、両手を銃に向かって伸ばす。受け取った銃は重く、今の彼女には抱えるように持つのが精一杯だった。だが、武器に対する恐怖などはない。それよりも、自分を守ってくれるものの重さから、自分の命がどれ程重いものなのかを感じていた。


「私……狩人になります。大切な人を見付ける前に死ぬなんて、嫌です」


 幼い少女の眼に宿る強い光が、彼女の決心の強さを示していた。銃を握り締めたその手に力が籠っていることからも、迷いなどはないのだと窺える。

 レイラは満足そうに微笑み、ロゼッタの頭を優しく撫でる。その笑顔は思わず見とれてしまう程に端麗で、男装をしていることもあり、最早貴公子としか思えない。例え彼女の性別を知っていたとしても、女性すら虜にしてしまいそうだ。呆然とレイラの顔を見つめながら、ロゼッタはそんなことを思った。


「いい返事だ。けど、今はまずそのケガを治さないとね」


 少し休んだ為か多少体力は戻ったようだが、ロゼッタの額に付いた傷は簡単に治るようなものではない。無理に動けばまた頭痛に襲われてしまうだろう。彼女の手から銃を受け取り、代わりにベッドの上に置いていたぬいぐるみを手渡す。ゆっくりと休むように告げると、彼女はそっと頷いて布団に潜った。

 ロゼッタは横向きに寝転がると、自分と同じように布団から顔だけが出るようにむっちさんを抱く。レイラは傍にいてくれるようで、ベッドの傍らに置いた椅子に座り、此方に顔を向けていた。

 また悪い夢を見ないといいけれど……そんな不安を抱いたロゼッタに、むっちさんが優しい声を掛ける。


「俺もレイラもいるから、安心して寝な。あ、間違ってもさっきみたいに放り投げないでくれよ?」


 恐らく先程も放り投げてはいないし、そんなに寝相も悪くない。頬を膨らませながらそう言葉を返すと、むっちさんは笑っているようだった。彼とのそんな遣り取りで、抱いていた不安な気持ちは自然と消えていた。思えば、彼はいつも安心させてくれる存在だ。――名前も思い出せないあの少年も、そんな存在だったのだろうか。頭の片隅でそんなことを考えたロゼッタは、懐かしむようにむっちさんのふわふわの毛並みを数回撫でてから静かに目を瞑った。


 * * *


 ベッドの上で横になり、布団と枕、そして抱き締めたぬいぐるみの隙間に顔を埋めるようにして少女は眠る。まだあどけなさを残すその顔は、先程強い意志を示した少女と同一人物とは思えない程に穏やかな表情を浮かべていた。それだけ彼女が安心している、ということだろう。

 寝息を立てるロゼッタに視線を注ぎながら、レイラは机の上に肘を乗せて頬杖を付く。ありがたいことに、少女は此方の話を素直に聞き入れてくれた。変に警戒心などを持たれれば面倒なことになると思っていたが、杞憂に終わってよかったと密かに溜息を吐く。


「……どうやら君の友達は、特別な存在みたいだね」


 眠っている少女が起きる気配はない。その耳に此方の声が聞こえている訳がないのを理解しながらも、レイラはそんなことを呟いていた。ちらりとぬいぐるみの方に目をやるが、ロゼッタの呼吸に合わせて微かに上下するだけで、その短い手足などが動く様子はない。見た目はただのぬいぐるみに間違いないが、喋ることの出来るぬいぐるみなど聞いたことがなかった。だが、機械人形オートマタの類ではないようだ。抱き上げた所、絡繰りが入っているような重さではなかった。そもそも内部にそんな仕掛けが入っていたら、抱き心地は最悪だろう。今のロゼッタのように、安らかに眠ることなど到底出来ない。

 鋭い光がレイラの瞳に宿る。ぬいぐるみを睨み付けるその眼は、正しく獲物を前にした狩人であった。殺気を放ちながらも、彼女の口角は微かに上がる。静かに浮かべた不敵な笑みは、相手の出方を窺う為のものだ。


「君が特別なのか、それとも……彼女が特別なのか」


 ぬいぐるみは、何も答えなかった。

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