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灰ノ血  作者: 春色
虹彩異色の少女
2/5

この話から少しの間、時系列が過去になります。

 今から二年程前。その日の空は何時もよりも一層暗い灰色で、大粒の雨が降り注いでいた。悪天候にも関わらず、市街地には相も変わらず何匹もの狼の唸り声が響き続ける。彼らの襲来を恐れた人々は家の扉を固く閉じていて、水煙の立ち込める街路には誰の姿もなかった。

 雨除けの外套を被り、ロゼッタはそんな市街地を走り続けていた。むっちさんを抱き締める腕には緊張から力が籠り、彼女の顔には焦りの表情が浮かぶ。足を踏み入れた水溜りからどんなに泥水が跳ねても、彼方此方に転がる死体の一部に突っ掛けても、彼女が足を止めることはなかった。嘗て野犬であった狼が牙を剥き出しにして、彼女を追い駆けてきていたのだ。

 必死に走っていたロゼッタだったが、彼女の体力ではそう長い時間走ってはいられなかった。更に運の悪いことに、足を縺れさせた彼女の目の前には下へと続く階段があったのだ。

 悲鳴を上げる間もなく、彼女の身体は走っていた勢いのまま、下へと転がり落ちていった。下の街路まで落ちた所で彼女の身体は止まったが、頭を打ち付けたせいか酷い目眩に襲われる。起き上がる所か目を開けていることすら出来ない。それでもむっちさんだけはなくさないようにきつく抱き締めて、彼女は意識を手放した。

 漸く追い付いた狼が、ゆっくりと階段を下りてくる。倒れたまま動かない彼女に飛び掛かろうと、狼は階段を踏む前足に力を込めた。

 今にもロゼッタを襲おうとしていた狼を止めたのは、一発の銃声だった。同時に狼は力なく倒れ、重力に引き摺られて階段を落ちていく。その身体には風穴が空き、其処から流れ出した血液が階段に赤い軌跡を描いた。

 階段の向かい側には、銃を構えた人物が立っていた。白いスカーフに焦げ茶色の上着といった貴族のような服装に身を包み、右手にはマスケット銃のような物を構えている。銃口から微かに立ち上る硝煙が、この者が狼を撃ったのだと物語っていた。

 銃を下ろし、紳士風の人物はロゼッタにゆっくりと近付く。倒れている彼女が命に関わるような怪我をしていないことを確認してから、その身体を優しく抱える。彼女が大事そうに抱えているぬいぐるみを落とさないよう、慎重に抱き上げた。


「……今日の狩りは終わりだね」


 男とも女とも思える中性的な声で呟くと、ロゼッタを抱えたまま、雨が降り頻る街路を歩き出す。硝煙と血の匂いは直ぐに雨に洗い流され、市街地には湿気った灰混じりの空気が漂うのみだった。


 * * *


 鼻を突くような消毒液の匂いに、ロゼッタは薄らと目を開けた。目を細めているからか、将又周りが薄暗いせいなのか、視界はぼやけて自分が何処にいるのかもどうなっているのかもわからない。数回瞬きをしている内に、少しずつだが漸く鮮明になってくる。

 揺れる灯火に照らされた天井に、誰の物かわからない影が映っていた。天井を見上げているということは、自分は横になっているのだろう。身体を包み込む柔らかな布の感触からすると、ベッドの上にいるようだ。そんなことを呆然と考えている内に、影はふと天井だけではなく彼女の顔にも落ちてくる。いや、影ではない。背後から光を浴びている為に、暗く見えているだけのようだ。部屋の暗さに慣れてくると、灰色の瞳と目が合った。


「大丈夫かい?」


 ロゼッタの顔を覗き込んでいたのは、中性的な顔立ちをした貴族風の者だった。胸元に掛かる程の長さをした亜麻色の髪を、後ろで束ねている。低い位置で結われたその髪には幅の広い白いリボンが巻かれ、同色のスカーフの結び目には赤い宝石のブローチが付いていた。胸元で波打つスカーフの下からは、気品溢れる白いシャツとベストが覗いて見える。服装からは貴族としか思えなかったが、右手に巻いた包帯がただの貴族ではないことを物語っていた。

 見た目は男性のようだ。しかし、やや小柄な体格は女性であるようにも感じる。戸惑っているロゼッタの気持ちを汲み取ったのか、服装だけの貴族は思い出したかのように自己紹介を始めた。


「ああ、まだ名乗ってなかったね。私はレイラ。この国で狩人をしている」


 名前を聞かなければ、ロゼッタにはこの貴族が女性なのだとわからないままだっただろう。男装をしている理由はよくわからないが、此方を心配してくれている優しい瞳に悪意は感じられない。

 意識を失う前のことを思い出す。確か自分は、狼に追われていたはず。だが、今は狼の鳴き声所か、自分とレイラの吐息位しか聞こえない程の静けさだった。

 ロゼッタははっとして、布団の中を手で探る。ずっと一緒にいたぬいぐるみがないことに気付き、彼女は慌てて部屋の中を見渡した。


「むっちさんは……何処?」


 左右異なる色をした少女の瞳に不安の色が混ざっているのを見て、レイラは不思議そうな顔をしていた。それから納得したような表情になると、座っていた椅子をくるりと回し、ベッドに背を向ける。ベッドの反対側に置かれた机の上に手を伸ばし、少女の僅かな荷物を探る。

 悲しげに眉を顰めていたロゼッタに向き直った時、レイラの腕には見覚えのあるぬいぐるみが抱えられていた。


「君の友達なら、此処にいるよ」


 黒い刺繍糸で出来た目が、ロゼッタを見つめている。レイラに手渡されたむっちさんを怖ず怖ずと受け取り、そのふわふわの毛並みを注意深く観察する。血や泥などの汚れがないことを確認して、ロゼッタは安堵の息を吐いた。

 大事そうに抱えていたから、その子もちゃんと連れてきたよ。レイラは微笑みながらそうロゼッタに語り掛けた。

 相変わらずむっちさんの表情に変化はなかったが、ロゼッタには心なしかほっとしているように見えた。彼が安心しているのは、その口調からも窺えた。


「おはよう。大丈夫か?」


「うん……むっちさんも怪我とかなくてよかった」


「ぬいぐるみだからな、そもそも」


 例えぬいぐるみだとしても、手足が千切れたり中の綿が飛び出している様は見るに耐えない。汚れてしまうことすら悲しみを覚えてしまうロゼッタは、むっちさんのそんな姿を決して見たくはなかった。

 ロゼッタは先刻のレイラの言葉を思い出し、自分がレイラに助けられたのだと漸く理解する。ベッドに寝かされていることを考えると、介抱までしてくれていたのだろう。お礼を言わなければと慌てて起き上がろうとした彼女を、レイラは静かに止めた。


「無理に起きない方がいい。身体に障るよ」


 瞬きと共に首を傾げたロゼッタの頭に、ずきりと鈍い痛みが走る。前髪を掻き分けて額に片手を当てると、幾重にも包帯が巻かれていた。朧気な記憶を辿ると、階段にぶつけたような覚えがある。あの時はこの傷が原因で気を失ってしまったのだろう。

 痛みに耐えながらベッドに横になったロゼッタは、むっちさんを抱き締めながらお礼の言葉を述べた。


「あの……ありがとう、ございます」


「偶々だよ。運がよかったね」


 乱れた布団を直しつつ、ロゼッタに顔を向けないままレイラはそう言葉を返した。

 狼に襲われて命を落とす、或いは同じ狼にされてしまう者は後を絶たない。子供、特にか弱い少女は狼にとって格好の獲物だ。そのまま喰われてしまうことも少なくない。運のいいことに、気絶した時に狩人が近くにいたからロゼッタは助かったのだ。

 市街地がそれだけ危険なことを知っているからこそ、民間人は滅多に外へは出ない。それなのに武器も持たない少女が一人で彷徨いていたことに、レイラは疑問を感じていた。この国の者なら、狼に襲われる危険性を知らない訳がない。それに、虹彩異色(オッドアイ)という珍しい特徴を持っているのだ。もしこの国の者であれば、レイラの元にこの少女の情報が来ているはず。つまり、彼女は国の外から来たことになる。この国に入るのは簡単ではないが、方法がない訳ではない。だが、それなりの目的がなければこんな危険な場所には来ないだろう。何らかの理由があって、少女は此処にいるはずだった。


「君は何処から来たんだい? どうして此処に?」


 直ぐに答えようとしたロゼッタだったが、開いた口からは言葉が出てこない。自分が何故此処にいるのか、思い出せないのだ。目的があって来たのかすらわからない。気付いた時には市街地におり、狼に追われていた。

 ぬいぐるみを抱えて固まってしまった少女を、レイラは困った表情と共に見つめるしかなかった。少女の頭の傷は酷くはなかったが、一時的に記憶を奪うだけの衝撃はあったのかもしれない。此処に来た理由は後で思い出せればそれでいいが、何処から来た何者なのかは知らなければ困ることもある。せめて名前位は覚えていてほしいと思いながら、レイラは質問を変えた。


「それじゃあ、君の名前は?」


「えっと……ロゼッタ」


 しっかりとした答えが返ってきたことにレイラは一先ず安堵する。少女の口から出た名前を確認するように呟きながら、彼女は机の上に置いていた小瓶を手にした。小瓶の蓋に手を掛けて開けると、赤黒い液体が中で揺れた。

 幾つかの質問に対して、ロゼッタは名前しか正面に答えられなかった。どうやら彼女は自分が何者なのかも、此処に来た目的も忘れてしまっているようだ。だが、彼女が何者なのかを少しだけだが知る方法はある。その為に、レイラには一つだけ試したいことがあったのだ。


「飲むかい?」


 蓋を開けた小瓶を、レイラはそっとロゼッタに差し出す。目を瞬かせる彼女の背中をそっと支えながら起き上がらせ、その手に小瓶を渡した。

 普通の人間なら、小瓶の中身を本能的に拒絶するはずだ。その赤黒い色と独特の鉄のような香りは、通常は身体の中にあるからこそ、外に出た途端に人には受け入れ難い物へと変わる。身体を構成する重要な要素はまた、吸血鬼に関係のある者にも重要な物なのだ。

 小瓶を手にしたロゼッタは困惑していた。中身に入っている液体の見た目や香りには覚えがあるが、確信が持てない以上、飲もうという気持ちが湧いてこない。助けを求めるようにむっちさんに視線を向けると、彼は直ぐに中身を教えてくれた。


「血だな。誰のかは見当も付かねえけど」


「誰かの……血」


 呟きながらそっとレイラの方を見る。眉を寄せながら瞬きをするロゼッタが言わんとしていることがわかったのか、彼女は首を左右に振った。


「私の血じゃないよ。教会が配っている物だから、私も詳しいことは知らないけどね」


 レイラの背後にある机の上には、同じような小瓶が幾つか並んでいた。その中の一本を手にして蓋を開けると、レイラは小瓶の隣に置いていたワイングラスに注ぐ。赤黒い液体が硝子の壁面を伝い、水面に波を作りながら底に溜まっていく。僅かな波飛沫と共に、錆びた鉄の匂いが部屋に溢れた。

 小瓶の中の血を注ぎ終えると、今度は其方をロゼッタに手渡す。中々口を付けずにいるのは、小瓶のままでは飲み難い為なのかもしれないと考えて、彼女の手の中にあった小瓶とワイングラスを交換した。

 喉の渇きは確かに感じているが、飲むのは少し気が引ける。勧められている物が血であるからではない。口にしてしまうことでレイラに変な目で見られないかが、ロゼッタには心配だったのだ。

 どうしようかと悩むロゼッタに、むっちさんが静かに告げた。


「飲んだ方がいいぞ。最近あんまり口にしてなかったからな」


「でも……」


「レイラは狩人だって言ってただろ。だから大丈夫だ」


 むっちさんにそう説得されたが、当時のロゼッタは狩人という存在について知らなかった。ただ、むっちさんが大丈夫だと言うのであればその通りなのだろうと考え、躊躇いながらもワイングラスを傾ける。少し口に含んだだけで、甘苦い鉄の味が強く広がっていった。今まで口にしていた覚えのある血とは、全く違う味。その芳醇さを吟味するように舌を動かし、それからゆっくりと喉の奥へと流し込む。唇に残った血まで、余すことなく舐めた。

 幼い少女という見た目に反して、血を口にした時に浮かぶのは何処か恍惚とした表情。普通の人間であれば、その異質さに恐怖しただろう。だがレイラは何も言わず、じっとロゼッタの様子を見ているだけだった。血を飲む少女を前にしても彼女の目に畏怖の情はなく、何か考え込んでいるように見える。

 空になったワイングラスを受け取りながら、レイラは心の中でやはり自分の考えが正しいと確信する。血を飲んでいた時の表情は、人間の浮かべるそれではない。ロゼッタは自分達と同じ『吸血鬼の仲間』に違いなかった。

 疑問に思うことはまだ幾つかあったが、傷の癒えていない少女を質問攻めにする訳にはいかない。再び布団に潜り込んだロゼッタの額にそっと手を当て、レイラは傷を労わるように優しく彼女の頭を撫でたる。

 少し眠っていただけでは、幼い少女の身体に伸し掛かる疲労は取り切れなかった。レイラの手はとても暖かく、心地よいと感じる。自分のことは安心して彼女に任せられると悟ったロゼッタは、安心感からか強い眠気に襲われて目を瞑る。むっちさんを抱き締めた彼女の意識は、直ぐに深い眠りへと誘われた。


 * * *


 気付いた時、ロゼッタは見覚えのない場所に立っていた。何処まで続いているのか確かめようとしても、視界の端の方は白くぼやけ先が見えない。そもそも、どういう訳か首を動かすことが出来ないのだ。

 視界の端から正面に意識を向けると、何時の間に現れたのか、誰かの姿が其処にはあった。ロゼッタよりもやや高い身長と無造作に撥ねた短い髪から、辛うじて少年であるということはわかるが、その顔は絵の具で塗り潰されたかのように黒く染まっている。誰なのかはわかりそうにもなかった。

 自分がこの場所にいることに気付いてから、やけに頭の働きが鈍い。何者か知りたいのならば、名前を聞けばいい。そう気付くまでに数十秒も掛かってしまった。

 しかし、いざ問い掛けようしてもロゼッタの口からは何の言葉も出ない。必死に口を動かしてはいるのだが、吐息が僅かに漏れるだけで言葉にならないのだ。一言も発することが出来ないことで、彼女は漸く自分が普通の状態ではないのだと気付く。徐々に頭も働くようになってきた。

 少しずつはっきりしてくる意識に合わせて、彼女の足元には赤黒い水溜りが現れ始める。よく見ると少年の足元にも同じような水溜りが広がり、やがて二人の足は赤黒い水に浸った。ただの水ではないのか、肌に纏わり付くような感覚が気持ち悪い。


「――」


 不意に耳に届いたのは、はっきりとした言葉にならない声。聞き覚えがあるように感じるそれが少年の声なのだと、ロゼッタには直感的にわかった。

 赤黒い水はどんどん嵩を増していく。ロゼッタがほぼ水面に立っているような状態でいる一方で、少年の姿は赤黒い水に沈むように消えていった。まだ行かないで――ロゼッタは必死にそう叫ぼうとしたが、相変わらず彼女の声は微かな吐息にしかならない。思うように動かない身体にももどかしさを感じながら、彼女は少年に向かって重い右腕を伸ばす。掴もうとした少年の姿はあっという間に水の中に消え、右手は空を切った。

 腕を伸ばした勢いを殺すことが出来ず、ロゼッタの身体は前の方へ倒れ掛かった。数歩先で水の上に頽れるように膝を着くと、赤黒い水飛沫が上がる。だが彼女の頬を濡らしていたのは、飛び散ったその液体だけではなかった。温かい透明な雫が、頬を伝って赤黒い水の中に落ちていく。ぽろぽろと零れ落ちる涙は止まりそうになかった。

 堰を切ったように溢れ出したのは涙だけではない。無意識の内に心の奥底に仕舞い込んでいた、悲しみや寂しさといった様々な感情の波が押し寄せてくる。乱れる感情は最終的に不安へと形を変え、ロゼッタの心に重く伸し掛かった。

 少年の姿を追うように水の中に両手を入れると、白い肌が赤黒い色を纏う。肌を近付けたことで、彼女はその色がよく知っている物の色であることに気付く。途端に鼻腔を抜ける錆びた鉄の匂いを感じ始めた。何時もならば不思議な心地よさを覚えるのに、今は気分が悪いとしか思えない。噎せ返る程に溢れるその匂いに吐き気すら感じる。

 水の中に映る自分の姿を見つめれば、まるでこの液体を浴びたかのように赤黒く染まっている。濁った水面でも、右の瞳の赤色だけが不気味に輝いて見えた。

 鉄の匂いが溢れているせいか、妙に息苦しい。勝手に早くなる呼吸と鼓動は、より一層不安を煽ってくる。絞り出すように息を吐いていると、先程までは出そうにも出なかった声が、喉の奥から突然飛び出した。


「一人に、しないで!」


 そう叫んだ瞬間、ロゼッタの視界は弾け飛ぶように真っ白に変わる。赤黒い液体も一瞬にして跡形もなく消え、彼女は白く強い光に包まれた。

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