耳から。
千枝婆はよく話していた。
「悪いもんは耳から入ってくるんだよ。肌っこだけでなく、もし体ん中の方もひゃっこくなったらば、すぐ耳を塞ぎんさい」
お兄ちゃんも私たちも凍ったみたいに動かないで聞いていた。千枝婆はもう一度言った。
「ええかい? 必ず耳を塞ぎんさい」
茨城の端っこに建つひい婆ちゃんのうちには、夏と年末だけ親戚が一堂に会する。私たちも車で二時間かけて行っていた。
とっても田舎で夜は真っ暗。まだ七時でも大人がいないと外を歩かせてもらえなかった。
だから私はお風呂の後、五つ上のお兄ちゃんやイトコの由美姉、その弟の優ちゃんと四人仲良く千枝婆の話を聞くくらいしかすることがなかった。
「聞いちゃいけない音はね、錆びた風鈴の音や腐った下駄の底からやってくるのさ。今じゃお前らは昔ほど風鈴は吊るさないし下駄も祭りの時しか履かなくなったけどね」
千枝婆が話をする時、私は二つ嫌なことがあった。
一つはお兄ちゃんと由美姉が天井から垂れる紐をカチッ、カチッ、と二回引っ張って部屋を薄暗いオレンジにすること。もう一つは優ちゃんが途中で泣き始めること。私までぶるぶるしてしまう。
「使わんくなったって安心って訳じゃないよ。放って置いたら青銅は錆びるし木は腐る。それを可哀相に使い続けてごらん。空気でさえ嫌だ嫌だ、そう言いよる音が、お前たちの、ほれ、その開けっ放しの耳の穴からするりと入っちまう」
千枝婆がお兄ちゃんの右耳を指さした。
隣の部屋ではつまんない野球の試合をテレビに映して、ビール瓶を片手に大人たちが顔を真っ赤っかにして騒いでいる。
お父さんやおばあちゃんの笑い声が聞こえてくるはずなのに、千枝婆が話し出すと世界に私たち五人しかいないみたいに静かになる。
「だからね、物は大事にせにゃならんよ。使わん間もちゃんと面倒見てやんなさい」
千枝婆の話はお化けが出て来なくても怪談みたいだった。でも、きっと教訓みたいなものだったのだろう。
千枝婆がいなくなったあとになって、初めてそう思った。
「ねえねえ由美姉、車で千枝婆の夢みたの」
通夜式が執り行われたのはいつもの親戚の集まりと同じくらいの八月初めだった。私や兄も学校が休みの時期だったので急な呼び出しにも駆けつけることが出来た。
「そうなの。どんな夢?」
黒いスーツの由美姉はもうすっかり大人の女性だった。兄と同じ大学生でもまるで別物。もう就職先の内定が決まり、今は結構暇らしい。
「千枝婆の部屋で怖い話を聞いてるとこ。私は小学生でお兄ちゃんも由美姉もまだ中学生。優ちゃんはもっと小さかったよ。小学校に入ったばかりかな」
「ふふ。やっぱりあの部屋の夢なのね」
縁側で素足を揺らしながら由美姉は柔らかく微笑んだ。私はすでに黒のタイツを履いてきてしまった。さすがに暑いな。
中学二年生になった優くんと、大学四年生なのに遊んでばっかりいる兄は家の中で力仕事を手伝わされている。
縁側の外で四本の脚が揺れている。暑そうな黒い二本と白くて綺麗な素足が二本。
通夜式が始まるにはまだ時間がある。まだ明るい午後三時。私と由美姉の家族だけは式の手伝いをするために一足先に千枝婆の式場、今はおばあちゃんとじいちゃんだけの古い家に着いていた。
両家族、半年以上会っていなかった訳だが、毎年同じスパンで顔を合わせているから久しぶりという感じはなかった。
カランカラン
すぐ後ろから涼しげな音がした。
「なんでくつろいでるお前らに働いた俺らがお茶出ししなきゃいけないんだよ。なぁ優ちゃん」
汗を流しながらそう言ったのはスーツのまま働いてきたうちの兄。
「は、はい……」
弱々しく返事をしたのは最年少の優ちゃん。
「あら和樹ありがとう。ちょうど水分が欲しかったところよ」
由美姉は調子良くそう言って兄の持ってきた麦茶を受け取った。
「なんだかさ。この麦茶も、この変なサイズの氷も毎年見てたのに急に懐かしいかんじ」
「そうね。千枝婆の家だったからかな。一人いないだけなのになぁ。同じ家でも違う場所みたい」
「もう居ないのかぁ。実感がまるで湧かないんだよなぁ俺。湧いて欲しいかって言われりゃそれも違うんだけどさ」
月の光ように優しく言葉を噛み締める由美姉に対して、所構わず照らす無粋な太陽のような兄。由美姉が実姉ならよかったのに。
でも素直な兄の言葉を聞くと、私もなんだか急に胸がジワッとした。
風鈴の音が鳴る。誰も話さない。みんな千枝婆のこと考えているんだと思った。
「もう美鈴ちゃんも女子高生かぁ。早い。そして若い。羨ましい」
短い間だけ出来ていた冷んやりとした空気を逃がすように由美姉が明るい声を響かせた。
「まだまだ子供っぽくて困ってる。由美姉の方が綺麗で素敵。お兄ちゃんとは大違い」
それを聞いて「お前の方が子供だ! 高校生にもなって胸も俺と変わらねぇ」と私を咎める兄から「あんたって本当デリカシーとかないの? だから彼女が出来ないのよ」そう言って由美姉が守ってくれる。
そして困った兄は優ちゃんを無理やり味方に付けて、毎回恒例の女バーサス男論争ごっこが始まった。
年上の人に敬語を使わないのはすごく新鮮。
由美姉の背中に隠れれば、いずれ兄の歯切れが悪くなる。いつもやかましい兄が私に文句を言い返せないのは、くすぐったくて気持ち良い。
家族とか親戚っていうのはとっても不思議だ。一緒のクラスの友達でも、一番好きな恋人でもないのに居ると一瞬でそれが幸せだと分かる。皆んなの声が耳に当たると心地良くてたまらない。久々に会うと少しもどかしくて恥ずかしい。でも懐かしくて、あったかい。
その後、通夜式で千枝婆の死顔を見ると、さっきまではしゃいでた四人は全員が泣いてしまっていた。
優ちゃんはきっとちゃんと見れないだろうなって思っていたけど、みんなちゃんと見た。頭の中にいる笑顔の千枝婆もこわい顔の千枝婆も全部忘れない。それでもお別れをちゃんと受け入れないといけない。もう居ないんだって知らなきゃいけない。きっと全員がそう思ったんだと思う。
今そうしなきゃいつかもっと悲しくなるから。
夜は、沢山千枝婆と話した。私たち四人も大人に混じって線香に火を灯し続けた。
千枝婆が寂しくないように最後の夜を皆んなで笑った。
不意にお母さんやおばあちゃんが泣いたら、子供の私たちが肩に手を添えた。私も時折、急に悲しくなって泣いた。泣き止んでも、由美姉が泣きそうな顔をしているのを見て、また胸がジンとした。
後日、お葬式、告別式から火葬までつつがなく執り行われた。
私たちは車で二時間かけてまた都内の自宅に帰る。一時間が過ぎた頃に気付いたが、来る時は持っていた携帯音楽プレイヤーが無くなっている。マズイ、忘れてきてしまった。気付いてすぐに話したが、車はぐんぐん前に進んだ。
「面倒くさいから、また来た時探しましょ。おばあちゃんに見つけたら送ってもらうように言ってあげるから」
面倒くさがりなお母さんはそう言った。運転する父もそれに同調する。兄はスマホがあればなんでも出来るだろ、と言い笑っている。私は少しの間だけ駄々をこね、少しすると諦めた。
「そういえば珍しい人が来てたな」
運転中に父が喋り出すのは珍しい。兄がどんな人かと聞き返す。
「僕が受付の案内をしている時に見かけたんだけど、スズと同じくらいの男の子がいたんだよ」
父が説明するとすかさず兄が文句を言う。
「なにそれ。由美と俺ら以外の子供は親戚にはいないって言ってたの嘘かよ。遠い親戚ってやつ? くうう、会いたかったぜ」
「あら、私その子と話したわ。親戚じゃないわよ」
母が助手席から口を挟んだ。
「じゃあ誰?」
兄が再び尋ねる。
「おばあちゃん曰く、地元に住む千枝婆の友だち、だそうよ」
母が答えると全員が驚いて一瞬黙ってしまった。何十歳差の友だちだ。そう突っ込みを入れたくなる私たちを置いて母は続ける。
「その子ね、【香典とか持ってないっすけど、見送りさせて貰って良いですか】って律儀に訊いてきたの」
香典って言うのはどうやらお金のことらしい。聞いてもよく分からなかったが結婚のお祝儀みたいなもののお葬式バージョンらしかった。私が分からないと言うと「お金をあげるって意味よりも、大事な意味があるのよ」と母は言っていた。
「だから遠くから来た叔父さん叔母さんたちは髪もボサボサだった失礼なその子に訝しい目を向けた。けれど私は何だか嬉しかった」
母は前を見たまま話す。彼女はいったい今どんな顔をして話しているのだろう。
「千枝婆を送りたいって思ってくれる気持ちがあったらそれでいいじゃない。礼儀作法って時々面倒だわ。でもねその子、御愁傷様です、とかいわゆるお悔やみの言葉ってやつも言わなかったのよ」
すると周りの親族はますます彼を邪険にしたらしかった。母がやっと後ろを向いたと思ったら、ケロっとした顔で私たちに質問してきた。
「その代わりに別のことを私に言ってきたの。彼、なんて言ったと思う?」
「わかんなーい」
兄妹は二人してすぐにそう言った。私たちは母に似て面倒くさがりなのだ。はぁ、とため息をついた母が前を向き直し答えを言った。
【俺、あのばぁさんくそ大好きでした。死んで欲しくなかったっす。生き返らねぇかなぁ】
「そう言ったのよ。霊前で失礼だと思うかしら。お母さんは思えなかったのよねぇ。だって千枝婆を好きだったのが凄く伝わってきちゃったから……」
「うはは。そいつ面白いやつだな変わってる。でもいいヤツだな」
笑って返した兄に対して、母の声は少し震えていた。父は相変わらず真っ直ぐ前を見て運転していて、母の様子に気付いた兄は静かに景色を見る。私はまた簡単に涙を零した。
好きだった人が好かれていた、というのは否応なく嬉しいみたいだ。
私たちの誰一人知らない謎の少年は、千枝婆と友だちだったんだ。千枝婆とどんな話をしたんだろう。たまにしか帰らない私は何となく後ろめたさがあったから。ありがとうって思ってしまったのだ。その顔も名前も知らない少年に。
家に帰り、夏休みが明け学校が始まる。すると私はいとも簡単に日常に戻ってしまった。
千枝婆が居なくなった夏が終わり、新しい冬が始まる。冬にはまたおばあちゃんちに行ったが千枝婆はもういなかったし、私の音楽プレイヤーも見つからなかった。
結局見つかったのは翌年の夏で、私が高二の夏休み。千枝婆の一周忌の頃だった。
「何だがあの石おっかしいなぁっつって見てみたら機械だったのよぉ。早くみっけなくてすまんかったねぇ」
「ううん。ありがとう。諦めてたし見つかった
だけうれしい」
千枝婆よりは訛りの少ないおばあちゃんにそう笑って言った。実際に諦めていたし。それにしても、外に落ちていて一年後に見つかるとは小さな奇跡にも思える。
千枝婆のお気に入りはこの家の居間だった。古い家の大きな居間は風通りが良くて夏でも涼しい。その居間に私が戻ると、泥だらけのプレイヤーを見て兄は笑っていた。
「外にあったのかよ。よく見つかったな。もう手遅れだろうけどさ」
笑いが収まらないといった様子の兄を見て優ちゃんまでもがクスクスと肩を震わせている。
「まだ分からないでしょう!」
私より先にそう言ったのは由美姉だった。由美姉は男らしくそう叫んだのち、嵐のように私からプレイヤーを奪い、立ち上がりなんと台所まで駆けていくと蛇口を捻りゴシゴシとタワシで力強くプレイヤーを洗ったのだった。兄と優ちゃんはもう完全に声を出して笑っていた。
タオルで綺麗に水気を拭き取ると由美姉は真面目な顔をして「ほら」とだけ言った。
由美姉の誠意を無駄にする訳にはいかない!
そう強く感じた私はイヤホンを手に取り、まずは電源のボタンを押した。
押したがつかない。もう一度押すーーつく訳がない! 私がそう思った瞬間、三人の笑い声が古い家中に響き渡った。どうしてだ、なぜ由美姉まで笑ってーーーー
「由美姉! はめたな!」
私がそう言うと由美姉はお腹を抱えながら、
「だってさ、いや、うふふ、電源、つく訳ないじゃない。まず水で洗うって何。あーおっかしい。死んじゃうわ。もうやめて」
と息苦しそうに言った。千枝婆が本当に死んだ居間で死んじゃうとは何とも不謹慎な。そう思いながらも私は笑いを止めるのを諦めた。
少し経つと私も我ながら可笑しくて情けなくて笑ってしまった。そして未だに兄や由美姉の冗談について行く事が出来ないのだなと成長の無さを悲観した。
「元気で良いこった。家も久々に笑ってら」
みんなで笑っているうちに、畑仕事に行っていたおじいちゃんが帰ってきたようだ。おじいちゃんの後ろからおばあちゃんが来てスイカをテーブルに置く。もう直ぐ千枝婆の一周忌だ。
あの少年は今年も来てくれるだろうか。
一周忌の式も淀みなく運ばれた。私たちはいつものように毎年成長する二人に手を振り帰りの車に乗り込む。兄は相変わらずアルバイトに精を出す就職浪人とか言うやつだった。それでもこんなに能天気でいられるのはうちの両親がその辺あまり怒らないからだろう。毎月の食費と言ってアルバイト代から天引きするところが兄を堕落させ過ぎない親の気配りだ。
車が田舎の長くて見通しの良い道を走る。お母さんと兄がカモシカを見かけたという話をしている。少し開けた車の窓から吹き込む風が心地よくて私は少しずつ意識が遠くなる。
そういえば、イヤホンは高かったやつなのになぁ。泥だらけにするには勿体無かったな。もしかしたらイヤホンの方はまだ使えるかな。窓の外には綺麗に続く路側帯と田畑の緑が綺麗に流れる。
まどろむ意識の中で携帯電話にあのイヤホンを差し込む。スマホのディスプレイの再生ボタンを押して音楽が流れ出した瞬間だった。
窓の外を流れる景色の中に、一瞬写った人影。麦藁帽子に半ズボンの少年。照りつく日差しに似合わない真っ白の肌が私の眼の前を一瞬で横切った。綺麗な黒い瞳と目が合ったような気がした。
一気に目が覚め、今の少年のことを話そうと窓によりかかる体を起こそうとした時だった。
『お』
イヤホンから気持ち悪い声がした。耳から首のあたりに鳥肌が駆け巡る。反射でイヤホンをコードごと引っ張り外した。
「おい、どうした」
隣で驚いた兄が私の様子を伺う。恐る恐る耳の近くにイヤホンを持っていくと低いベースの音がぶんぶん唸っていた。なんだ……びっくりした……。
「いや何でもない。ちょっと音量間違えた」
「何だよ脅かすなよ」
「うん。ごめん。そう言えば今男の子いたよね」
「は? どこに?」
「え? 半ズボンの肌の白い子」
「何言ってんの? ずっと畑しかなかったぞ」
兄が真剣な顔をして私を見つめる。耳から首の後ろ、まぶたのまわり、二の腕に鳥肌が立つ。
「ねぇ。嘘だよね。ほんとやめてよ」
「うん。うそ」
兄はニヤついた顔でそう言った。
「お兄ちゃん、ほんと悪趣味ねぇ」
お母さんがそう言って笑う。
「お母さん! 早く言ってよばか!」
「ごめんなさい。つい」
みんなが笑いに包まれる。私は涙目で怒っている。今日も我が家は平和だ。そう思っていると前を見て運転しているお父さんが「あのさー」と小さくこぼした。「どうしたの?」とお母さん。次の瞬間父は信じられないことを言った。
「僕、本当に何も見えなかったんだけど」
車の中の温度が一気に冷え込む。皆んなが無言になる。車がアスファルトを蹴り進むジリジリという音だけが耳に入る。
「あ、えっと、ごめん、そんなに驚かないで。……僕もふざけたくなっちゃて」
私を騙した二人が一斉に父をバッシングした。私の気持ちが少しは分かったか。
うちの家族は似た者同士だ。
おばあちゃんちから帰った次の日は朝からダラダラと過ごしていた。スマホの画面に映る文字を見つめる。
「廃病院で会った女の霊」
「彼女が見た女の正体」
「学校で聞こえた友だちの声」
「浮かんだ犬の顔」
「隣の家に何か居る」
「夜の鳥居」
並ぶホラーサイトのタイトルはどれも見飽きたようなものだった。
次はどれを雪菜に送ろうか。
そう考えているうちに雪菜かメッセージが入った。
[ねー暇なら今からあそぼー]
怖い話のサイトを送り合って見ていたから、私も暇していると察したのだろう。きっと私の送った話を見ずにいるな。そう思い私も雪菜にメッセージを送ろうとした。
[私の送ったやつ水に返信したでしょ! ちゃんと見てよ]
そう入れて[みず]の変換間違いを正そうとした。しかし何度打っても変換されない。変換候補にさえ[水][水ニ][水シテ][水デ]しか出てこない。どうでも良かったから平仮名で送ったけど、一瞬知らない世界にいるような錯覚を受けた。送り仮名までカタカナしか出なくて気持ちが悪かった。
同時に自分がスマホに依存していて、スマホをいじっている時は自分の感覚がその箱の中に集中されているのだと気付いた。数秒間、私自身がスマホの中に存在していたみたいでゾクッとした。
冷房の効いた家のリビングから出るのは億劫だったが、貴重な高二の夏を少しでも友人と過ごそうと思い外へ出かけた。
私の家から近い雪菜の家まででも、夏の日差しは肌をヒリヒリと照らし付ける。
雪菜の家に着くと少しだけ雪菜のお母さんとリビングで話して、その後二階の雪菜の部屋に入った。
「暑かったよねー。お疲れ様」
「うんー。でも雪菜の部屋エアコンあるから最高」
「へへーだからうちに呼んだのだ」
「ありがてぇです。ところでさ、怖い話見た?」
「だからちゃんと見たってば! あれが怖かったよ。おじいちゃんの顔が犬の顔にみたいで、犬面人がいた! ってやつ」
「えーあれは違う意味で面白かったやつだよ。怖いやつじゃ無い」
他愛も無い会話。そしてそれがこの上なく楽しいのだ。
「美鈴って怖がりなのに好きだよね」
「怖いもの見たさってやつかも。お、家族とイトコの影響かもしれない」
「よく話に出てくるお姉さんたちか」
「そうそう」
ひとしきり話し終えると雪菜が最近ハマっているバンドのニューシングルとやらを聴くことになった。雪菜は二股になっているイヤホンジャックを彼女のプレイヤーに差し込んだ。私も昨日取り戻したばかりの高いイヤホンを差し込んだ。雪菜がプレイヤーを再生する。心地よいベースが初めに弾かれてハスキーなボーカルの声が小さめに歌いだす。綺麗な曲。サビにさしかかろうとするその時だった。
『おじま』
間違いなく声がした。だだ低い男の声が。私はまたコードを引っ張り耳からイヤホンを引き離した。
「ねぇ雪菜。今の声なに?」
「何のこと? どうしたの?」
雪菜は家族のように嘘をつくタイプではないし私以上に怖がりだ。恐らく今回は疑いようがないらしい。
「今、声がしたの。ボーカルの人のじゃない声。すんごく低いの。ベースの音より低くてボーカルの声よりはっきりとした声」
「何それやめてよ……」
「だって……」
その後は二人でリビングに降り、雪菜のお母さんと三人で昼食を作ると気味の悪さも無くなった。午後の四時ごろまで夏休みの残った宿題を片付けて帰路についた。
家に着くと夕方も終わりかけていて、お母さんが夕食の準備をしていた。私は部屋に入ると勉強の疲れもあり日中の声のことはすっかり忘れ、雪菜から借りたCDをCDプレイヤーで聴きながら眠気に襲われていた。暑いので、ベッドのタオルケットは全て取り去った。お母さんにはよく怒られるが部屋着のTシャツの袖から腕を中にしまい、イモムシのように丸くなって心地良い眠りに就いたのだった。
父も兄ももう家に着いた頃だろうか。気がつくと窓の外はもうすっかり暗くなっていた。耳から流れるハスキーな声はリピートを繰り返し何巡目か分からないサビを歌い上げていた。
眠気まなこで耳を傾ける。少し耳が疲れたような気がする。そんな寝覚めーーーー嫌な予感がした。これはどこかで知っている寒気。ヤバイ。イヤホンをとらなくちゃーーーーしかし、うまく腕が上がらない!
『おじましーー』
気持ち悪い寒い声が全身を巡った。自分の状況にようやく気付く。変な寝方をしたせいだ。そのあいだにも声は続く。
『まーー』
無理やりシャツの下から腕を出した時にはもう遅かった。
『す』
そう声がすると、イヤホンから音はしなくなった。全身が震える。痛いとかじゃない。寒い。体温というか、身体の中の方が震える。気持ち悪い。怖い。怖い。
階段を落ちるように降りると私は叫んだ。
「お母さん!」
『あら、すず。どうしたの?』
背中を向けた母から響いた音は酷く低い、あの男の声だった。
「お母さん! 声が……ねぇ! 私なんか変なの! 絶対何かおかしい!」
『落ち着けよすず。どうした』
お兄ちゃんが口をぱくぱくさせると、口の動きに合わせてお兄ちゃんじゃない気持ち悪い男の人の声がした。生きてきた中で聞いたことのない、音のような声がした。
「お兄ちゃんの声もおかしい! ねぇ悪い方の冗談だよこれ! やめて! 本当に怖いの!」
兄の顔が強張る。ワイシャツ姿の父が私の顔を見て小さく
『すず……』
と声を漏らした。その声も低く響いていた。
私の名前をそんな声で呼ばないでーーーー!
そう思っても寒くて頭がくらくらして上手く話せない。ついには泣き出した私を家族が取り囲む。
『ねぇあなた! すずに何か見えるの?』
『うん。千里、ご実家に電話して。出来れば隣の部屋で。あとなるべく和樹も喋らないで。心配なのは分かるけど千里、早く電話してくれ』
気持ち悪い声で父と母が私の知らない会話をする。見えるって何? お父さんには何が見えるの?
『すず。よく聞いて。冷静に。今お前に起きている状況を落ち着いて話して。大丈夫だから』
そして私はゆっくり話した。気持ちの悪い声を聞いた事、お父さんやみんなの声がその声と同じだって事、身体が寒くて怖いという事、私の声だけは変わらず私の声だということを。
すると父は紙とペンでこう書いた。
[その声をきくときもちわるい?]
私は頷く。
[じかんはかかるけど筆談の方がいい?]
私は強く頷いた。
今度は父が少し長めにペンを走らせる。
[まず、一つ分かっていることがある。それは僕らの声が変になったのではなく、恐らくすずの耳が変になっているということ。そしてもう一つ言わなきゃいけないことがある。僕は昔から良くないモノが少し見えるということ。見えると言ってもハッキリとじゃない。モヤみたいなガスみたいな。本当にうっすらと、それが良くないモノなのか、何か現実の気体なのか判別がつかない程に曖昧な見え方だ」
書かれている事自体も怖かったが、その字がいつものお父さんの綺麗な文字とはかけ離れていて嫌に不安になった。お父さんも焦っているんだ。
そして新しく書いた紙を私に見せる。
「ちえばぁの家からのかえり、ぼくはいっしゅんだけそれが見えた気がした。でも気のせいだと思ったんだ」
きっと少年を見たあの時だーーーーそう、私は直感的に思い出した。
私の隣で兄もその紙を覗き込み、同時に私の肩に手を添えた。なんだかすごくほっとする温度だった。父はもう一枚だけ紙を私に見せた。そこには「本当にごめん。本当に、本当にすまない。僕は全てをかけて絶対にどうにかするから大丈夫。安心していて」と、いつものお父さんの綺麗な文字で書かれていた。
母が隣の部屋から戻ると父と一緒に遠くへ行き、私は千枝婆の家に舞い戻る事が決まった。
家を最後に出てくる時に父が兄に何か話していた。私は車の中で震えていたからよく分からなかったが、兄が家の中へ戻ると私の部屋の電気が点いたのが見えた。
移動している車の中で兄はずっと私の手を掴んでいた。小さい頃、千枝婆の家で肝試しをした時以来の事だった。寒気は消えないが段々と落ち着きを取り戻してきたのが自分でも分かった。
兄はスマートフォンを取り出すと私に向けてメッセージを送った。
[母さんがおばあちゃんから聞いた話だと、お前と全く同じ話を千枝婆から聞いた事があるらしい。その話じゃ変な声が聞こえたのは錆びた風鈴からだったらしい。チリンという綺麗な音がある日、急に寺の鐘のように低い音になったらーー]
読んでいる途中だった。私の画面がブツリと真っ暗に沈んだ。私は急に怖くなり泣き出しそうな顔で兄に画面を見せた。兄はすぐ自分の携帯に[だいじょうぶ]とだけ打ち笑って見せた。
時間を置いたのち、私が続きが見たいと言うと、兄は[だいじょうぶか?]そう書き込んだ。私は大丈夫と言って、兄の送信画面を見て続きを読み始めた。
[寺の鐘のように低い音になったらしい。その後、葬儀も頼んだあの寺の先代の住職が、小さかった頃の千枝婆を助けてくれたって話だ。千枝婆のあの話、実体験だったんだな。お前は憶えてないかもしれないけど、その話、俺聞き覚えがあるよ。だから大丈夫。千枝婆みたいにお前も長生きする事になる。覚悟しておけ」
私は知らない種類の涙が溢れて止まらなくなった。その間もずっと兄の手は私の手を、肩を支えてくれていた。
時折車から変な音がしたり、鳴らしていないクラクションが押されたりした。私はただひたすら兄の手を握りしめうずくまるようにして到着を待った。
千枝婆の家に着くと、まだ帰っていなかった由美姉と優ちゃんが暗くなった玄関の外で私たちを待っていた。時間はもう十時をまわろうとしている頃だった。
家に入ると寒気がすっと取れて楽になった。
「大変だったねぇ」
おばあちゃんがそう言うと兄が人差し指を口の前で立てて、おばあちゃんも口を手で塞いだ。
「あれ、大丈夫だよ。おばあちゃんの声だ」
私は久しぶりに聞いた親しい声に耳が熱くなった。父や兄も私に恐る恐る話しかけるが不思議な事にその声は優しい響きを持った彼らのものだった。安堵と一緒に未だ残る恐怖心が頭を身体を右往左往して、私はまた泣いた。
家の奥から葬式で千枝婆に御経を上げていた現在の住職のお坊さんが出てきて、私に声をかけた。
「一旦ここで様子を見てからお寺の方で休ませようかと思っていましたが、ここに居た方が良いと見えますね」
目が細くて透き通るような声の住職は、とても優しい顔をしていて、ただそこにいるだけで安心できる何かを纏っていた。
「きっと大丈夫。千枝婆の時みたいになんとかなる」
兄が私に声をかけた。続けて住職に尋ねる。
「俺たちはここにいていいんですか? それともどこか行ってた方がいいならどこにでも行きます」
住職は渋い顔をしてこう告げた。
「実は千枝婆さんの時に立合ったのは先代の住職でして。私はその頃まだ生まれてもいないのです。何せ千枝婆さんは私からしても婆さんでしたから」
それを聞いて兄は言葉を失くす。私も落ち着いていた胸がザワザワと騒ぎ出す。
「しかし、先代の残した記録を元にこの家に安定した域を作りました。だから皆さんの声も今は普通に聞こえているのだと思います」
少しだけ安心したが、まだ解決した訳ではない。焦りと不安。そして仄かに感じる薄気味悪さを私は感じ漏らさなかった。きっと「良くないモノ」は今、家のすぐ外にいる。
「結界と言ってもそんなにすぐに効くようなものではないはずなのです。ですがお孫さんが無事こうして話を聞けているのは、成仏してなお千枝婆さんの助けがあるように思えます」
静かになった居間に、父の声が響いた。
「娘はどうしたら助かるのでしょうか」
今まで聞いた事のない強い声だった。いつも優しい父が怒るようなすがるような目で住職を見ている。
「先代は沢山いた住職の中でも殊に仏に通じやすかったお人ーーーーつまりは力の強かったお人だと伝え聞いて居ります。はっきり申し上げまして私にはとても及ばないほどの力です」
残酷な余命宣告を聞いてしまったような絶望感が私を襲った。しかし父は怯まず聞き返す。
「誰かそのくらいの力を持った人は近くにいないんですか? 誰でもいいから」
「……県内にはまず居ないでしょう。隣県の甚太寺の住職なら……いや、あまりに遠すぎる。半年前であればひとつ山を越えた寺に頼れる知人がいたのですが亡くなってしまいました。それかあの子が成長すれば或いはーー」
「居ない人の話は良いんです! 隣の県まで安全に行ける方法は無いのですか? 娘は助けられないんですか? このままだと娘はどうなるんですか?」
激しい剣幕を立てて声を荒げる父。私の寒気も激しくなる。
「そんな事はありません落ち着きなさい! 父親の貴方が気を持たずにどうするんですか! 時間がかかっても必ず娘さんを助けます。千枝婆さんへの恩を仇で返すような真似は私だってしたくありません。今出来る手立ては私がこの身にかえても全力で尽くします」
怒るでも叱るでもなく厳粛な住職の声が空気を清めた。
「……怒鳴ってしまい申し訳ありません。お願いします」
住職の一喝で父は少し落ち着く。
「とりあえずこの敷地の中へ悪いモノは入って来ないでしょう。しかし何にせよ夜はこちらの分が悪い。夜明けを待って寺の方に向かいまーーーー」
バンバンバンッ!!!!
住職が言い切る前だった。居間の奥。縁側へ続く長い廊下のガラス戸が叩かれたような音を立てた。
「おい、なんだよ今の」
兄が立ち上がる。瞬時に母が私を抱きしめるように包んだ。由美姉が私の手を握る。
住職と共に父と兄、そして優ちゃんまでもが恐る恐る廊下に続く襖を開けた時だった。
ガタッ……
どこかの戸が動いた音がした。次の瞬間ーー
ガタガタガタッガタガタガタガタガタ!!!
玄関の扉を揺らす音が家中に聞こえる大きさで鳴り響いた。
住職がすぐさま玄関の前に行き、何かを唱える。扉の音が消えると住職は玄関の戸を静かに開けて
「決して出ないでください」
そう言い残し暗闇が包む夜に出て行った。
「くそ。きっと外にいるんだ。今か今かとすずが出るのをずっと待ってやがる。これじゃいつ中に入って来るかわかんねぇ……くそ!!」
苛立つ兄を父と由美姉がなだめた。
しばらくの間住職は帰ってこなかった。
私に声をかけ続けるみんなの声以外は、何のの音も言葉も無い時間が過ぎて行った。
住職が出て行って三十分程が経った時、不意に優ちゃんが立ち上がった。窓越しに外を見るとすぅーっと玄関の方に向かって行った。
「おい! 優どこ行くんだよ!」
兄が牽制するようにそう言った。
しかし優は私を一瞬だけ見て、玄関の扉を開き住職と同じように暗闇の中に消えてしまった。兄が追いかけようとするがそれを制した優の父親が外へ出ようとした時だった。
パリンッ
台所の方の窓が割れる音がした。
その場にいた私ただ一人だけが、寒気が近付いてくるのが瞬時に分かった。
割れたガラスがまだ床に落ちる音を立てている最中の声。
『何の音だ!』
そう叫ぶ兄の声はもうすでに兄のものでは無くなっていた。
私がそのことを叫ぶとみんなが一斉に話すのをやめた。
あ、見つかった。
直感的にそう分かった。
あ、近付いてくる。
そう思った時には、何かが私に触れる感触が耳元を撫でた。
優の父親が手を掛けていた玄関の扉が外側から開いた。
『遅かったか!』
外に出て行っていた住職だ。住職はそう言ってすぐにまた何かを唱えた。さっきと違い頭がぼんやりする。すごく寒い。怖い。怖い怖い怖い。まずい、目の前が暗くなる。逆らえない。血が抜けたように体に力が入らない。
私はそこで何も感じなくなった。
気がつくと私は母の膝の上に頭を乗せていた。どうやら気を失っていたらしい。
周りを見渡すと居間だけを囲むように塩と札のようなものが置いてあった。
「大丈夫かい? 怖い思いをさせてしまい本当に済まないことをした。本当に済まない」
最後に聞いた住職の邪悪な低い声は、もう優しい声に戻っていた。
住職や父は私を励まし大丈夫だと言い続けていたが、状況から見るに私たちは攻め込まれているのだと察した。私の恐怖心は、もうこれ以上のピークは無いのではないかというほど膨れ上がっていた。それでも私は大切なものを見誤りたくなかった。
震える声をなんとか誤魔化してみんなに声をかける。
「ねぇ。由美姉にお母さん。お兄ちゃんも、一旦車に戻ってもいいのよ。多分あいつは私にしか来ない。さっきガラスが割れた時分かったの。真っ直ぐ私に向かってくるのがだからーーーー」
「ふざけんな!」
そう耳が痛くなるような大声で言ったのは兄で、その兄の目は赤く腫れていた。
由美姉が私の手を握り直す。皆んなが私を見る。言葉にしなくても、私から決して離れないという意思が伝わってきて、申し訳ない気持ちになった。それでもやっぱりうれしい気持ちは隠せなくて
「ありがとう……」
感謝の気持ちが口から溢れ出していた。
私が目をさましたあとから住職はずっと正座をして台所の方へ何かを唱え続けている。何も考えられずただ呆然と住職の大きな背中を見ている時だった。
ガラガラガラ
玄関が開いた。皆んなが驚いて振り向く中、住職だけは台所の方へ向けて手を合わせ続けていた。
「優! どこ行ってたの!」
そう言ったのは由美姉だった。
「えっと、ごめんなさい」
優は小さく呟いた。優の背中に何かいる。そんな気がした。
「誰だい?」
姿が見える少し前にそう言ったのは父だった。
優の後ろから、深夜にも関わらず麦藁帽子を被った少年が一人。身長は優よりも高い。その肌は夜の闇に紛れているのにとても白く、その黒くて綺麗な瞳は私の見覚えのあるあの瞳だった。
「あの時の」
なんと、私と父と母が声を揃えてそう言った。
「ああ。ご無沙汰しています」
少年の澄んだ声はどことなく聞いたことがあるような気がした。
「千枝婆の友達の子、よね?」
そういう母に由美姉や兄が質問を投げたが少年がぶっきら棒に
「まぁそれはいいからさ」
と彼らを見ずに言った。
「お父さん。俺多分、大丈夫。やってもいい?」
白い肌の少年はそう誰かに問いかけた。
「信じられん」
答えたのは背を向ける住職だった。
「俺、千枝婆の匂いがする人を死なせたくねぇよ」
見た目に合わず荒い口調で少年がそう言うと、住職は立ち上がり少年の前に立った。そして平手で少年を殴り、抱き締め言った。
「頼む。無理はしないでくれ。お前の無理だけじゃなく、彼女に無理をさせることもだ」
「分かってるよ」
少年は柔らかく微笑み、そして彼を抱き寄せていた住職から何かを受け取ったように見えた。
やはり少年は住職の息子だった。
親子はしばしの間話をしてからみんなを集めて「これから除霊を始めます」とインターネットの記事やホラー小説でしか聞いたことのない台詞を言った。その言葉は頼もしいとか気が引き締まるとかそういう言葉じゃないことに、当事者になって初めて気が付いた。
除霊という言葉は人生の中でたったの一度であっても住職やイタコの口から聞いてはいけない言葉なのだと。
そして少年は今、私と対面するように正座している。私もフラつく体でなんとか正座の体を保ち座っている。
「名前は?」
少年が私に聞いた。
「美鈴」
「じゃあ美鈴さん。はじめるよ。君が大好きなものは何? 言わなくていいからそっと心に思い浮かべて」
「その前に、千枝婆の匂いって?」
私は気になっていたことを聞いた。
「千枝婆が残してくれた大切な空気の匂いがするんだ。今はこれだけ。君を蔑ろにしようってんじゃないよ。あとからゆっくり話そう。必ず笑って話せるようにするから」
住職に似た少年の声が、こんな時なのにすごく涼やかで落ち着いていたから、私は大人しく頷くしかなかった。
「ありがとう」
彼はその一言を大切に言い切ると、顔付きが変わった。そしてまた私に聞き直す。
「美鈴。君の好きな人やモノは何だい? それだけ思っていて欲しい」
私は周りにいる人たちを目に焼き付ける。
「うん。思い浮かべた」
私がそう言うと少年は
「お父さん。お願い」
そう合図すると、住職がみんなを下がらせた。私は少年と向かい合うように正座をしていた。住職が順番を確かめながら周りの塩を取り、札を剥がす。それを見て不安がった兄が前に出ようとするが、兄の腕が後ろから掴まれた。腕を掴んだその手は父のものだった。兄より苦い顔をしていた父はいつの間にか真っ直ぐ私を見つめていて、その目を見た兄は静かに後ろへ居直った。
住職が札を剥がす最中で私はまた寒気が近付いてくるのを感じた。
家の空気が変わる。玄関の戸がガラガラ揺れ収まったかと思えば台所のガラスが今度は全部割れた。
これは入って来てるな。そう感じた瞬間には、もう体の自由がきかなくなっていた。
割れる窓の音に父や兄が思わず叫んだ。その声は全てあの男の声になっていた。私は身体を支えられず、肩から倒れるその寸前だった。白くて細い腕が私の肩をつかまえた。彼の腕だ。
兄や父が私のところへ駆け出すのを住職が必死で抑える。母や由美姉、そして優までもが必死で二人を抑えてくれていた。
身体の冷えは収まらない。まぶたが勝手に下がりだす。吐き気とめまいも止まらない。支えられているはずの身体がゆらゆらと揺られているようだ。
『おじゃましますよ。ごめんください』
イヤホンしていなければ誰かが声を出した訳でもないのに頭の中に直接声がした。
私はこのまま死んでしまうのだろうか。
そう諦めかけた時だった。
「大切な人はだれ」
違う声が聞こえた。普通の声が聞こえた。頭の中を顔が浮かぶ。声に負けないたくさんの愛おしい人たちの、私の周りにいる人たちの顔が巡った。
落ち行くまぶたの隙間から、少年がポケットに手を入れて何かを取り出したのが見えた。
あのイヤホンだった。少年が言う。
「大丈夫。俺を信じて」
聞こえた声は、やはり少年のままの声だった。そしてあの住職のように貫禄のある安心出来る心地良い声。住職よりも少し高くて、透き通るようなーーーー私はそのまま目を閉じた。
目を覚ますと玄関の扉が外れていた。そして涙を流すみんなの顔があった。台所の方では住職が、玄関では少年が何かを唱えていた。
「すず! すず!」
みんなが叫ぶ。頭の感触で分かる。私が寝ているのはお母さんの膝の上だ。住職と少年が私が目を覚ましたことに気付きこちらを見た。黒い瞳と目が合う。振り向いた少年の頬は軽く切れていて、片方の耳になガーゼが施されていてその根本は赤く染まっていた。
「すず! 大丈夫か!」
誰よりも大きく耳に飛び込んだ兄の声がいつもの声が、大切な事を私に気付かせる。みんなが私を呼ぶ声ーーーーみんなの声だ。
体の寒気も無くなっている。
私はようやく、助かったのだ。
波のように途方のない安堵が押し寄せる。
皆んなの泣く声がする。私も呼吸が出来なくなるほど涙があふ出れした。
やっと恐怖の混じらない、死を覚悟した曖昧な意識の中で響いた声のように綺麗な涙がぼろぼろとこぼれ続けた。
私の体調が安定してくると父は少年に何度も感謝の言葉を述べていた。住職は少年の頭に手を置いて「良くやった」とだけ言った。
私はその光景の全てが夢の中にいるようだった。
でも私はもう覚めたのだ。悪夢から覚めて日常を取り戻したのだ。
みんな、ありがとう。
後日話を聞いたところによると、あの住職の息子はやはり母が話していた千枝婆の友だちの少年で間違いなかった。
私が法事のあとに千枝婆の家から帰る際、車から目があったことも勘違いではない。彼は「あの車をずっと知っていた」と話していた。
彼は住職の言うところによると、その歴代の家系の中でも稀なほどに仏と通じる体質が顕著に生まれてきたらしい。しかしその性質はそもそも無くていいものだ。成仏出来なかった悪いモノが見えても、良いモノは見えないのだから。
寺での生活や、父親が良かれと思って試みた改善策は彼にとってただの苦痛な修行でしかなかった。寺はもとより小学、中学からも抜け出して、千枝婆の家の近く、つまりあの田舎の山や川を巡り歩く日々だったという。
そんな中で唯一出来た友達が、偶然出会った千枝婆だったらしい。千枝婆の話は学校とも寺とも違い少年には至極楽しい時間だった。もともと霊感のあったらしい千枝婆と、その人たちにしか分からない沢山の痛みを分かち合うことが出来たという。そんな千枝婆が亡くなったすぐ後に、おかしな気配の車が後ろから近付いてくることに彼は気付いた。
実際にその車は悪いモノがいたらしく強く記憶に残っていた。それが猛スピードで、それも悪い気配を増大させて千枝婆の家に向かって行ったのを偶然あの夜に見かけた彼は、走ってうちの前まで来たらしかった。
遠くでこちらを眺める少年に気付いた優ちゃんが、勇気を振り絞り確かめに行った結果としてあの少年を連れて戻ってきたということだった。優ちゃん曰く「住職さんに似た気配を感じた」らしいから、千枝婆の家系はやはり霊感を持つ体質の子が生まれやすいのかもしれない。
おまけに私の場合は、母と血縁関係の無い父まで僅かではあるが霊感を持っていた。結果生まれた私と兄は悪いモノを引き寄せやすく、また、千枝婆の昔話にあった「放置して腐らせた音のモノ」であるあのイヤホンを使ってしまったせいでこの事態を引き寄せたらしい。
兄が私の部屋からイヤホンを持ってきて、私が一度目に気を失った時に住職へ渡していたらしい。そして、少年と住職のあの抱擁のあとに手渡していたのが私のイヤホンだった。
「あのイヤホンはだいぶ穢れが強かった。持っていたお兄さんも軽い吐き気や頭痛はあったことだろう。君のお兄さんは心の優しい強い人だよ」
住職は翌朝、私にそう言って微笑んだ。
そして、今回の一件の中で最も後に尾を引いた問題は少年のことだった。
中学一年生だというあの少年は、実は除霊の仕方など分からず自分の体を犠牲にして私を救ってくれたということだった。
私が気を失った時、悪いモノは完全に私の耳から体内に入ってしまった。そこへ彼の影響力が強い声、つまりは悪霊の類へ働く声で外へ出そうとしたが私の体質のせいか上手く出てこなかったという。彼は元凶であり媒体になっていたイヤホンのヘッドの片方を自分の耳にはめ込み、イヤホンのプラグを先端を私の耳へ、もう片方は悪いモノの逃げ道を塞ぐようにお札で包み手で掴んだという。
そして私の耳から経を唱えると、悪いモノは元々居座っていたため戻りやすいイヤホンの中へ逃げ込んだとのことだった。
私はその話の途中で、それなら両イヤホンのヘッドをお札で包めばいいとか、イヤホンの中に閉じ込めて捨てればいいとか散々喚いてしまった。
しかし彼と住職は口を揃えてこういった。
「音は『耳』から入る。もし聞く耳がなければイヤホンの中と君のどちらかを選ぶことになる。一体やつらが居やすいのはどっちだったんだろうね」
それを聞いくと私は何も言えなかった。それどころか一瞬の時間の中で両耳にイヤホンを差し込むことなく、片耳のだけを犠牲にした彼の機転に感心することしか出来なかった。
「犠牲にして救ったとかじゃなく、俺が下手っぴだったからこんな風にしか出来なかった。って言い方が正しいんだけどな」
そんなことを笑いながら言う少年が一番怖かったかもしれない。そして心からの感謝した。
それと千枝婆の肝っ玉が大きなところがこの少年に受け継がれているような気がした。
何にせよ私はそれ以降、私は彼に頭が上がらなくなってしまった。
それから毎年の内に親戚の集まり以外にも何度か千枝婆の家に泊まり、その度お礼を繰り返したのであった。
これが私の体験したお話の全てだ。だから私が言いたいことは「ものは大切に使おう」という事と「大切にすることと卑しく使うことは違う」という事だ。
二十六歳になった私には、もうあの時のような事は起こらなくなった。あの音もあれから聞いていない。きっともう一生聞く事も無いだろう。
あの体験をしてから私は強く思うのだ。
人の精神というものは脳の信号や分泌物質、体内で行われる何万何億という働き以外の力があると。
体の中じゃない、体外に漏れ出す何か。
これは決してオカルトではない。酸素に窒素、紫外線や放射線にダークマター。目に見えないものが後から目に見えた事例なんてキリがない。きっと私たちの精神から漏れ出す何かが可視化する時もいずれくるだろう。あの声の男が見える時が。
それでも壁を叩き、壁を伝い、耳からするりと入ってくるあいつらが私のそばにはいない事を切に願うのだ。
目に見えないと言えばもう一つ。愛の力と言うものは目には見えない力があると知った。何故ならあのやんちゃな私が今では旦那をもらっているのだ。
その相手は勿論ーーーー
「すずさーん、手伝えよー」
私を呼ぶ、あの透き通る高い声。私にとってはこの上ない幸福の音。目を細くして少年の頃の面影残るあの人が同じ屋根の下で私の名前を何度も呼ぶ。
そして、愛には幸せを呼び込む力もあると信じて欲しいのだ。どんなものを呼び込むかって? そうね。例えばーーー目に入れても痛くない愛娘とか。
「ママ!」
もう幼稚園になる娘が家のフローリングを滑る。散らかしたおもちゃを片付けるパパは娘に甘々だ。おもちゃ箱のある二階と一階を行ったり来たり。命の危険を乗り切ったからこそ、今の幸せを過剰に喜んでしまう私をどうか許して欲しい。
あれからもパパの白い肌と黒い瞳は変わらない。でも一つ変わったことがある。
パパの仏様と通じる力が弱くなってきたということ。私の一件で彼は片耳の聴力を失った。完全に。それでも私に何かあったら困ると父親とともにこの家と同じ敷地内にある寺で日々修行している。
優くんや千枝婆もそうだったが、やはり霊感や霊力と言われるものは世俗に囚われていない子供の頃が一番力を発揮するという例が多いようだった。
「ママ! お外!」
娘の枝美が、甘く愛しい声で私に話しかける。
「なに? お外で遊びたいのー?」
今日は天気が良い。三人で近くの公園へ行こうかな。
「ううんー。お外からね、変な音がするの」
娘がそう言った瞬間だった。
「すず! 枝美を二階に連れてきて! 急いで! それか耳をーーーー」
彼が言い切るより早く私は感じ取ってしまった。
数年ぶりでも、すぐ分かった。
嫌な予感がする。気配がする。頭より早く体がそういっている。
私は水も止めずに台所から飛び出した。
上からは階段を壊すのではないかと言うほど荒々しい彼の足音がおりてくる。
娘は階段のすぐそば。スリッパが脱げる。もうすぐそこ、あと一メートルのところにいる愛娘の耳を、泡だらけの手で耳を塞ごうとする。階段からは顔色を変えた旦那も階段を落ちるようにくだってきていた。
でも、遅かった。
「枝美!!!」
名前を呼んだ私の声に、娘はこう返事した。
「ママ。お声が変。あと、さむい」




