第6話 大津事件かよ!
1906年7月17日
ローマ外港であるチヴィタヴェッキアにはロンドンから到着した義親父殿コノート公の御召し艦として英国海軍の最新鋭装甲巡洋艦デューク・オブ・エジンバラと随伴艦ブラック・プリンスと給炭艦リージェントが、更にダートマスからは英国海軍装甲巡洋艦クレッシー、ユーライアスが到着していた。
これはダートマス英海軍兵学校が遠洋航海を試験的に導入する事になったからで、これも俺が関わっているんだ、元々英国海軍は兵学校卒業と共に実戦艦艇に配属していたんだが、イタリア海軍が遠洋航海をはじめたので、試験的にしてみることに成った訳だ。義親父殿が日本へ行くから序でに良いよねって時期を決めたらしい。
イタリア海軍もそれじゃとばかりに今年度の遠洋航海時期を前倒しにして、俺の乗艦として新造装甲巡洋艦レジナ・エレーナを候補生の乗艦として二番艦ヴィットリオ・エマヌエーレを、更に戦闘支援艦エトナを参加させる事にして、英国海軍と一緒に遠洋航海しようという事になった。
エトナは俺のアイデアと資金援助によりアンサンドル社で建造された最新鋭の戦闘支援艦で、21世紀で言えば海上自衛隊の”ましゅう型補給艦“に近い艦だ。燃料、弾薬、食料、真水、その他補充品を搭載し、病院船機能を持ち、軽工作艦機能も持っている。今回の参加は、うちの装甲巡洋艦の釜は重油専焼なので、この時期、海外では補充できにくい重油の補充と乗員の健康管理のためだ。
まず最初は英、伊の士官候補生が一同会して従兄殿(ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世)の謁見を受けてから政財界の重鎮たちとパーティーを行い我が国の候補生が英国候補生を案内して色々市内を渡り歩いたようだ。
1906年7月20日~
チヴィタヴェッキア港には候補生の家族や彼女たちから商売女らしい連中までが集まって暫しの別れをしてるんだが……
「ブリジッタ、浮気するなよ!」
「フランチェスカ、殿下も奥さん連れているんだから、メイドに化ければ乗っても判らないって」
「マウリツィオ、早く帰ってこないと、誰かを引っ張り込むわよ!」
「貴方?あれはどう言う意味なんですか?」
余りの酷さにシアがポカーンとしながら聞いてくるんだが、「シア、聞いちゃいけないぞ」とそっと耳を塞いで上げた。
お前等!まったくイタリア男児だな。
そんな喧噪も終わり、英伊連合の8隻は順次出向していくのである。
しかし、行く先々で、英士官候補生は確りとしているんだが、うちの連中ときたら、港に上がるやナンパするわ、酒飲みすぎて死屍累々だわで、義親父殿は苦笑い。シアは『面白い方々ですね』ってにこやかに笑うから、ナンパ野郎共が色めきだつことこの上無いが、シアは俺のだからな!
メッシナ、トリポリ、アレキサンドリア、ポートサイド、マッサウ、アデン、コロンボ、マドラス、シンガポールと英伊植民地&保護領で歓待を受けながら、シンガポールから米領フィリピンのマニラへ入港、此処にはアメリカ海軍の遠洋航海艦隊が停泊していて、共に日本へ向かうことになっていた。
これは、ルーズベルト大統領と、ハリマンとの連絡で、日本に対する圧力をかけようと言う話が決まった事から、英伊は東回りで、米は西回りで来たわけ。
我が国は元より米側もハリマンの件とかがあるから圧力をかけることは判るが、同盟を組んでいる英が何故日本に対する圧力に協力するかというと、俺の未来知識から知っていた日露密約、日仏密約などをスパイが掴んだことなどで、本来なら1907年には締結されるはずの英露協商が暗礁に乗り上げているためなんだよな。
更には、日露が清に強要した条件とかでも、英の権益に関わる可能性があるので、少し圧力をかけておこうと言う事に、歴史がかなり変わってきているんだよな。1902年に締結されたはずの仏伊協商も未だに未締結だし、これは完全にイタリアの繁栄のせいでフランス経済が左前なので、反発している状態になっている訳で、それに鑑み英伊関係に関して怪しんだフランスが未だに英を信じていなくて1904年締結去れ筈の英仏協商も未締結……
んー、外交上の問題が大きくなっているんだよな。ただ、英米関係に関しては、イタリアというか俺が仲介した結果、史実に比べて頗る良好なんだけどな。
結果的に、1906年時の国際情勢は、英伊秘密協商+アメリカ、仏露協商、英日同盟、独墺伊三国同盟という感じなんだが、従兄殿は既に三国同盟から抜ける気満々だけどな。
何故かと言うと、ドイツの髭親父(ヴィルフェルム2世)がイタリアの攻勢に嫉妬して色々裏で手を回して、利権を掠め取ろうとしたり、不満分子を焚きつけたりしてくるんだからな、当初は偶発的な物と思っていたが、史実でも伊土戦争の原因はドイツがリビアにあるイタリア利権を掠め取ろうとしてトルコを焚きつけたのも原因の一端だったから、もしやと思って、マフィアなどを使った情報収集でドイツの陰が見えたことで確信したわけだ。
それで、従兄殿に資料を添えて連絡し、イギリス側では義父上に御願いして調べて貰った結果ビンゴ!これにより従兄殿は大激怒!速攻破棄の予定が、英から暫くスパイしててと言う事で、上辺だけの三国同盟状態になっている。
その結果、日露、日仏関係にたいして、ある程度の掣肘をする為に、一番弱い日本に対する米伊の圧力を見て見ぬ振りをする事にしたわけで、今回の同行も見届人的な存在。
アメリカ側もその事が判っているから、マニラでの在比米人の歓迎は凄まじい状態になった。結構イタリア系もいるからね。街々で“ウディネ公夫妻歓迎”の垂れ幕がビルから掲げられて大変恥ずかしかったが、シアは相変わらずにこやかに応対、『流石に幼い頃から義親父殿と共に世界をまたにかけてきただけのことはあるな』と感心するばかりだ。
1906年8月25日
マニラ湾からアメリカの装甲巡洋艦ブルックリン防護巡洋艦コロンビア、ミネアポリス、給炭船エイジャックスの4隻が参加して総数12隻の艦隊は、霞浦シアプー租借地へ寄港、まだ開市してから5年しかたっていないので、人口もそれほどでは無いが此処でも大歓迎を受ける。在留市民の殆どが繰り出してきた様で、街中に紙吹雪が舞うほどに……
1906年9月5日
霞浦から出港し、国際港上海へ寄港、此処でも各国の居留民が大勢繰り出しての大パーティーが繰り広げられ、義親父殿と共に各国公使や資本家とかと腹の探り合い、更に清朝の高官までやって来て笑顔で歓迎の言葉を言ってくるが、胡散臭いったらありゃしない。此奴ら『夷を持って夷を制する』がモットーだから今回も日本の横暴を何とかさせようと言う魂胆なのは重々承知だが、此処は知らぬ振りで踊らされた振りをしておく。そうすれば、聞かなくても色々話してくれるからね。
上海で数日過ごして出港、2日間の航海の後、合計50日の船旅を終えて、9月10日に横浜へ到着した。
東京湾口では大日本帝国海軍が本来の歴史におけるアメリカのグレート・ホワイト・フリート来訪時のように主力艦を精一杯だしてお出迎えなんだが、戦艦が富士、朝日、敷島、装甲巡洋艦が出雲、磐手、春日、日進、防護巡洋艦が笠置、千歳という感じで、英、伊、米製艦をバランス良くホスト艦にした感じだ。本来ならいるはずの戦艦香取、鹿島はすったもんだの関係で回航途中で参加出来ず仕舞い。
1906年9月11日
横浜に停泊後、有栖川宮威仁親王ありすがわのみや たけひとしんのう殿下の案内で宿である霞関離宮へ、離宮は1903(明治36)年まで有栖川家が本宅として使用していたのを、宮内省が買収したから、勝手知ったる他人の家と言う事で、ホストになったわけだ。
しかし、横浜からは汽車で新橋まで移動して、そこから馬車で移動するんだが、沿道には警官と憲兵が嫌と言う程多くいて、民衆を押しとどめているのが判るんだ。その姿を見ると民衆が俺を嫌っているのが判るほどの状態で、一歩火が付けば投石とかが有りそうな状態だった。
シアもそれに気がついて『貴方』って手を握ってきたから『私が護るからね。大丈夫だから』って落ち着かせたが、この時代の日本人は本当に思慮が無いな、21世紀の直ぐ暴動や国旗を焼くどっかの国民みたいに民度が低いな。
まあ、仕方が無い、この時代の民衆は完全に特定三国状態だったから、記者も三流揃いで勝手なことを書きまくってアジっていたからな。しかし、有栖川宮と言えば、ロシア皇帝ニコライ二世が皇太子時代にテロに遭った大津事件でもホストだったな、縁起でも無いが仕方が無いか。
それから、数日後には、明治天皇に義親父殿がガーター勲章を明治天皇に叙勲したんだが、この時、義親父殿は誤ってピンで自分の指を傷付け出血したが、何事もなかったように式を続け、天皇も気付かない振りをしていたんだが、あれは痛いんだよな、なんたって指先には神経が多いからな。
俺の方は、従兄殿から託されたイタリア最高の勲章である『最も神聖なるアヌンツィアータ勲章』を明治天皇に叙勲したが、義親父殿のように手は傷つけなかったからな。
天皇は式が終わった後、コノート公の落ち着きを称えていたが、俺にも日露戦争時の資金援助に関しての感謝の言葉があったんだが、なんか気の毒に感じたよ。何と言ってももと日本人としては明治天皇は偉大な為政者だと言えたからな。尤も軍部とかの暴走を止められなかったのは残念だがね。
それから、二度目の日光観光とか行くのは、テロでもあったら大変だと気が気じゃ無かったが、流石に義親父殿と一緒だから英国との関係悪化を恐れてか抗議のデモすら無かったので、シアは喜んでいたので、こっちもホッとした。
日光観光や政財界とのパーティーが終わり、三菱総帥の岩崎弥之助に深川親睦園に招待された。俺の場合、清澄庭園と名前が変わった時代なら知っているが、関東大震災で壊れる前の全景を写真以外では初めて見たわけだが、つくづく日本人の美的感覚に感銘を覚えて、嫌な連中の抗議とかを一時忘れられたね。
1906年9月25日
関東での行事が終わると、東海道本線最急行下り1列車で大津へ移動し琵琶湖見学後に京都見学なんだが、ルート的にはニコライ2世と同じ感じだから、色々考えていると、義親父殿は判ったようで『私が一緒で有る以上は馬鹿な真似はすまい』と言ってくれたし、有栖川宮も『御懸念は確かですが、この度は以前の様な真似はさせませんので』と言ってきたので取りあえずは安心していた。
結果を言えば、大津や京都では何も無く、神戸港へ停泊している艦艇で今度は瀬戸内海を通って長崎見物に行くために、神戸駅から波止場へ向かう最中に事件は起きた。
その時、俺は人力車にシアと共に乗っていたんだが、周りには神戸在住の在留外国人と共に、日本人も多くいて、ザワザワしていたんだが、警官と姫路憲兵隊が規制線を張っているので何の障害も無く進んでいった。シアも俺も義親父殿も沿道の在留外国人の歓声に応えて手を振ったり会釈をしたりしていた。
そんななか、シアがモジモジしながら俺に話してきた。
「貴方、もしかしてなんだけど、未だお医者様にも見て貰っていないんだけど、実はね……」
シアが言いかけている最中、湊川を越えるために橋を渡る瞬間に事件が起こった。
橋の橋脚付近から何かが投げ出されると、いきなり大音響が響き渡った。
数回にわたる大音響で、多くの人間がパニックになって逃げ惑い戸惑う中、銃声が響き渡った!
カーッと熱い感覚と共に喉の奥から熱いものが駆け上がるようにしてくる。
「貴方、貴方!」
俺を呼ぶシアの声が震えているのが判る。
更にもう一発の銃声と共にシアが倒れた!
「シア、シア……」
「サノバビッチ!」
護衛の連中が叫んでいるのが遠くに聞こえるが俺の意識はそこで途切れた……