健全な魔王
日頃『彩配の繰り手』を読んで下さっている方。この短編を読んで下さるという奇特な方々にお礼の気持ちを込めて。
本当に短いお話ですが楽しんでいって下さい! 2012/02/14 義已 暁
イアディガの大地は、此の程平穏を迎えた。
長きに渡る歴代勇者と魔王の戦いは終わり、人々は平和を享受する。
イアディガの西端。極西の孤島アンメナに一組の夫婦が暮らしていた。年若い妻は燃える様な緋色の瞳をした異人種の女だった。女の名はスルナ、かつて勇者と呼ばれ、今は一人の男を愛するごく平凡な少女である。
スルナは目の前で地べたに這い蹲っている夫に向かって冷えた眼差しを落とす。可哀想に夫は震え上がって顔を上げる事も出来ないでいた。
「あなた、どうしても細切れにされたいみたいね?」
スルナの手には包丁が握られ、フリルのエプロン姿のまま台所に立っていた。夫の後頭部にスルナの繊細な足の裏が乗せられる。それをおもむろに捻じ込んだ。
「いだだだだっ! ……ス、スルナ。痛いってっ!」
夫は蜂蜜色の瞳を涙で濡らし、上目遣いでスルナを見上げた。縋るような視線にスルナの脳裏に子犬を過ぎらせたが、それはほんの一瞬の事だった。この男が子犬などという可愛らしいもので無い事は、スルナが一番理解していた。
「アーディ、あなた結婚の誓約を忘れた訳じゃないでしょう? ――――たった一週間前の事なのだから」
スルナの問い掛けに、夫であるアーディ。正確にはアーディルトロイエは何度も頷いて肯定する。
「あ、当たり前だろう! 俺がスルナとの約束を忘れる訳ないじゃないかっ!」
「じゃあ、復唱なさい」
「…………」
「言えないの? 言いたくないの? ……それとも忘れてしまったかしら?」
口篭もったアーディにスルナの追及の手は止まない。追い打ちを掛けるようにスルナは言い放った。
「一言一句違えずに復唱なさい」
そう言うとスルナの手の中にある包丁は虹色の輝きと共に剣へと、フリルのエプロンは純白の軽鎧へと変貌した。
「あ、あうう……。まのちからは、つかってはならない」
「スルナが許さない限り魔の力の使用を禁ずる、ね。シャキッと喋りなさいよ」
スルナは剣の腹でアーディの頬をひたひたと叩く。冷えた剣の感触が肌に当たる度、アーディは『ひえぅ!』と情けない悲鳴を漏らした。
「スルナが許さない限り夫婦の営みは禁ずるスルナが許さない限り同衾することを禁ずるスルナが許さない限り島を出る事を禁ずるスルナが許さない限り魔獣に接触する事を禁ずるスルナが許さない限り死ぬ事を禁ずるスルナが許さない限りスルナを殺す事を禁ずるっ!」
アーディは誓約を息継ぎ無しで、一息に吐き出した。スルナは顔を顰めてアーディの頬を剣の腹で殴った。
「ぐげぇっ!」
「区切りなさいよ、判りにくい」
「ス、スルナが許さない限り魔王を名乗る事を禁ずる」
「……あと、二つよ」
「……ううぅ。スルナが許しても、……スルナを愛する……事……を禁ずる。――――スルナが死んでもアーディルトロイエが死ぬ事を……き、禁ずる……」
絞り出すようにアーディが呟くと、スルナは満面の笑みを浮かべ夫の前に跪いた。
「良く出来ました」
そう言うと、スルナは音を立てアーディの唇へ口付けを落とす。アーディは顔を真っ赤にして呻く。
「拷問だ……」
「愛してるわ、私の只一人の人」
スルナはアーディと向かい合う様に寝っ転がり、にこにこと笑みを浮かべていた。啄むように何度も口付けられ、アーディは理性と欲望と死線の狭間であえいだ。
「ひ、酷い。……生殺しだ」
「あら? 半殺しがお好みなのかしら? 変わってるわねぇ~」
「き、きみが全殺しか誓約かって言ったんじゃないかっ! 俺の決死のプロポーズにっ!」
アーディは涙声で悲鳴を上げる。
緋色の瞳の少女に一目惚れしたあの日から、アーディの運命は決まっていたのだ。
自分が魔王を捨て彼女のものになることも。――――彼女が永遠に自分のものにならないことも。
そうして今日もイアディガの大地は守られている。
……健全な魔王の禁欲な生活によって――――。
このお話は短編ですがお気に入りです。
今のところ連載の予定はありませんが、反応次第では彼らが出会う話を書こうかと思っています。