2章
あたしは――走った。
体力の続く限り―― 目的はない。行く場所もない。帰る場所も目指すものもなくなった。闇の中をただひたすらに――無心で走る。
流れる景色にも目もくれず、無意識に人の少ない場所へ。何処に向かっているかさえわからず。
――限界ぎりぎりの勢いは長く続かなかった。
持久力を試されるように意識的には恒久、現実では短く。体中の筋肉がこれ以上動くなと警告の悲鳴をあげる。動悸は徐々に激しくなり、血液中の酸素は全身に廻りきらなくなる。酸欠、貧血に近い症状があたしの体を支配していく。
暴走を続け、命令からはずれた身体は、ついに――路上の小さな何かに躓いた。
スローモーションのように前から地面に倒れ込んでゆくのが理解る。
「ッッッ――!」
受け身はとれない、とらない。慣性が赴くままに身をまかした。来たるべき衝撃に身構える事すらしない。顔面から突っ込んむ。今のあたしには身体的な痛みなどものともしなかった。
「―――」
再び静寂が辺りを覆う。
俯けに転がった体はしばらく動かなかった。
「――ッ」
――両手で土を握りしめ、汚れてしまった顔から枯れたはずの水滴が頬を伝う。
「・・・くぅ――ちっ・・・く・・・しょおおおおおおお!!」
何も考えないように全力で走っていた。もう二度と会えない事など考えたくなかった。夢であってほしいと願った。目が覚めたら彼は傍にいて、いつもの無愛想で不器用な笑みをみせてくれるはずだと。これ以上過酷な現実をあたしに与えるな――
駄々をこねる子供のように、まだ大人になりきっていない弱い少女の心を彼女は自覚する。身を切り裂くような衝動を抑えられない――身内に近い死別など経験した事などない。
(やっぱり離れるべきじゃなかったのでは――?まだ生きているのでは――?今からでも引き返せば、間に合うかもしれない―――だめだ!だめだ!!彼を悲しませるだけだ!あたしは彼に何を言った!?・・・でも、でも――もしも、あの時、あたしが言う事を聞かなければ、彼は本当に私を撃っただろうか――?それとも、軽蔑して罵倒する?・・身捨てる?・・わからない。)
そのどれも当てはまらない気がした。それにもう選択は為されたのだから。考えても仕方がないはずなのに。
彼といた日常は当たり前になっていた。こんな簡単に失われるはずがないと思っていた。
(あたしは――これからどうすればいい――)
気の済むまま走り、泣き叫ぶ事で心は、平静を取り戻しつつあった。
しかし、消耗した身体はまだ回復を要求していた。
俯けから仰向けになり、空を見上げる。
永遠に近い星の輝きを恨みがましく見つめて、
(もういい。・・・疲れた。)
そのままゆっくりと、瞼を閉じた・・・。
死んだように動かない地面に転がる影がある。
(・・・・。)
微かな風の囁き以外何も聴こえてこない。意識は目の上から頭の方へ。そこから肉体を離れ、虚空を飛んでいるような感覚。自分でも眠ったのかどうかさえわからない。あたし達にとって寝るという行為は死に等しい。完全に眠ることはない。身体機能を休めるだけの作業。
安らかに眠れる時が来るとしたら、それは二度と目覚めない永遠の――
「――――」
どれほどの間そうしていたのだろう。時間の推移は曖昧。刻一刻ときざむのは鼓動のみ。呼吸は規則正しく一定。頭の上から手足の先まで研ぎ澄まされていいるが解かる。景色は変わっていない。
目覚めの刻の近づいている。
あたしは機能を停止した機械のような肉体に覚醒を促す。
すぅっと目を開いた。
「――フゥ・・。」
深呼吸をする。心は平静を取り戻していた。同時に言いようのない虚しさが胸に広がる。
想い出も悲しみも風化するなら、忘却してしまうのがヒトの定めなら、
(あたしは違う。失わない――)
自然と拳を握りしめていた。揺ぎ無い決意を新たに心へ誓う。
(戻ろう・・・。)
転々と変えていく隠れ家の何処かへ。それにはまず現在地を正確に把握しなければいけない。
(ここは何処だ?・・・あたしとした事が・・・ッハ・・。)
ガムシャラに走ってきた所為で、何処をどう通ったのかも覚えていない事に苦笑が浮かぶ。
気を取り直してから周囲を見渡して街の構造、状況に記憶を照らし合わせてゆく。
賑やかな街の中央から繁華街を抜けて、スラム地区のはずれ辺りまで来たのだろうか。おおよその検討をつけた。
その時――遠くから近づくものの気配を察知する。
(――ッ!もう刺客!?)
後少しで状況分析が終わり、考えがまとまりそうだったのを遮断された為、舌打ちが漏れた。
――あたしは切り替える――
すでに冷徹な暗殺者の顔に変貌している。
空気の流れ、地面の振動、招かれざる者の動向、どんな微かな音も見逃さない。五感を導入して全神経を集中させる。
(二度とヘマなどするものか!)
怒りに染まりそうになるのを冷静に受け止め、程よい昂揚感を維持する。
相手の技量が凄腕だろうが上だとしても、
(これからもその先も誰にも負けない――負けられない。ファントムの名を継ぐ者として!!)
(――駆け引きはやめだ!・・さっさと勝負をつけてやる!!)
「――誰だ!!そこにいるのは!!」
自分と相手の存在を明らかにして、威嚇しながら相手の出方を伺う。
静まり返っていた辺りから、地面を踏みしめる音だけ微かに読み取る。
音は十メートル以上離れた薄汚い建物の路地の暗闇の方から聞こえる。
「・・今、あたしに構うな。死にたくなかったら消えろ!」
座ったままの姿勢でベレッタを瞬時に抜き、腕のみを闇の方に構える。
銃を抜く動作は彼に優るとも劣らない。
相手の反応次第ですばやく回避行動がとれるように片膝を立て、中腰の態勢に変える。
辺りに静かで人は居ないのにも関わらず、緊迫した空気が走っている。
――均衡をやぶる声が遠くの路地裏から聞こえてきた。
「・・そんなに警戒しないでもらえますかね」
どこか人を馬鹿にしたような調子外れのある独特なトーン。聞く者をいやでも惹き込む強制力。話術に関しては天性のものがあるかもしれない。
(この声は・・・)
バーニーD。バーニーか、Dの略称で大体呼ばれている。本当の名前かどうかすらもわからないがどうでもいい事だ。あたし達がよく使っていた便利屋。有益な情報と仕事さえ持ってくれば何だっていい。
浅黒い肌にミスマッチするような柔和な作り笑いはサングラスから透けるようなギラギラした目には似合わない。たっぱ(身長)はあたしとほぼ変わらない小柄な方だが反面鍛えられたしなやかな筋肉を全身に纏っていて、大きく見える印象を持つ。こいつも稼業上、危険と隣り合わせな生活をしているのだろう。
「さすがは、バニィさん。この距離からわたしに気付くとは。」
言葉を発しながら、無警戒で歩いてくる。
バニィはあたしの仮の名前。
ファントムがバニティとつけてくれた。意味はないと本人は言っていた。他の奴に聞いたら、phantom(亡霊)と vanity(虚無)は似たような事柄だそうだ。呼びにくいから自然と省略されて今に至る。
世界にとって居ても居なくてもいい存在。名前でも似たもの同士だったんだと気付かされる。
「それ以上近づくな!・・・コンタクトはとってないはずだが」
銃の照準は以前Dに向いたまま。
「・・・情報を持ってきたんですよ。」
ぶら提げていた両手を胸の方まで腕をあげて、敵意はないというアピール『やれやれ』といったジェスチャーで証明する。
「情報?・・・頼んだ覚えはない。」
「貴女に関係する事ですよ。バニィさん・・ファントムさんは――」
「――ッ!!」
最後まで喋りきらない内にコルトパイソンの発射音が言葉を遮断した。
「――その先は言うな。もう知っているんだろう?・・命の保証はできない。」
ベレッタを持ちながら、もう片方の腕でパイソンをぱなした。
「怖いですねぇ・・。今の貴女は殺気の塊だ。耳寄りな情報ですよ?」
そう言いながらもDの調子は変わらない。彼も職業柄、相当な修羅場を潜っているのだろう。
「手短に話せ。彼の事は言うな・・今日は虫の居所が最高に悪い。八つ当たりしたくて手元が狂っちまいそうだ。」
「
「まあ、誰かに聞かれて困る話でもないですが。
「理解しました。・・・では尋ねます。貴女は鍵型のペンダントをお持ちですか?」
――呼吸を忘れた。
怒り、悲しみ、悔み・・色んな感情が混ざり合い複雑な気持ちになる。
心を落ち着かせる為に一呼吸した。
「・・・ある。」
「でしたら、これを」
懐に手を入れようとする。
「――おかしな素振りをみせるんじゃない!・・今のあたしは誰も信用しない!」
「困りましたねぇ。お渡ししないとわたしの役目が果たせないんですが」
全然困っているように見えない。表情は変わっていない。
「・・・・」
Dを睨んだまま、あたしは警戒を緩めない。
「でしたら後ろ向きになってブツを置きますよ?」
「・・・わかった。でも、振り返ったら容赦しない!」
埒があかないと思い妥協して、Dの一挙一足を注意深く見守る。
Dは後ろを向いたまま胸の方に手を探り入れ、何かを取り出したかと思うとゆっくりと屈んで、足元に鋼鉄製の小さな箱のようなものを置いた。
「・・なんだ?」
ここからの距離でははっきり見えない。
「預かり物です。鍵を持っていなければ、お渡ししない代物ですよ。・・・ではわたしはこれで。」
もう用はないと立ち去ろうとする。
「・・情報は?」
「その中にあると思いますよ。」
振り向かずに答えながら、離れて行った。
一人残されたあたしは地面に耳を当てる。例え1%に満たない事でも何がおこるかわからない。可能性を考えて最善を尽くすべきだと教えられたからだ。この場合はまだ罠ではないという確証は得ていない。タイマーのようなものは鳴っていない。
傍まで寄って見ると持ち運べる金庫のようなものだった。鍵穴がある。
外観は大丈夫そうだと判断して、手に取って持ってみる。鋼鉄製の箱の重みしか感じられない。少し揺らすと中では紙の擦れる音がした。
どうやら本当に害意はないようだ。鍵穴にペンダントの鍵を差し込む。
「ッ」
長く使われなかった為か、なかなか回らなかったが、少し強く力を入れると鋼鉄製の箱は、音がしてロックを解除した。
中から出てきたのは、古ぼけたメモ帳のようなものとチケット、書類のようなものの三つ。
(なんだぁ・・・?)
ある程度身構えていた分、拍子抜けだった。
まとめて取り出そうとすると、3つのどれかに挟まっていた一枚の紙切れが空中に舞った。
ひらひらとゆっくり落ちてゆく。自然に視線はそちらの方に注目していた。
何か書かれている。
『バニィへ』
(――彼の私物じゃなく、あたし!?)
信じられない気分で、3つのものを大まかに目を通していく。
チケットは見てもなんなのかよくわからない。小さな書類(通帳)を開けると数字がたくさん並んでいる。頭が痛くなりそうなので後にまわす。
メモ帳を開くと字が書かれていた。
(ッ・・!?)
予測していない事に息を飲みこんだ。
1ページ目には
『これだけは最初に言っておく。ここでの生活を変えたくないなら、これ以上見るな』
『一言付け加える』
『こんなものを書くのも残すのも柄じゃない。感謝しろ』
(・・よく言うよ。こんなものを残しておいてさ、一人でさっさといっちまいやがって・・・似合わないんだよ!)
また涙が込み上げそうになる。感傷に浸ってる場合じゃない。優先すべきは内容だ。早く読んでしまわないと。
もちろん、読まないという選択肢なんて今のあたしにはない。
次のページには
『字など書き慣れていないから簡潔に言う』
『俺はおまえの傍にいない』
『クリスティーヌファミリーのドンを頼れ』
『チケットは地球行きのものだ。どうするかはおまえが判断しろ』
『通帳は俺の口座だ。金は全部くれてやる。よく考えて使え』
『パスワードはおまえならわかる』
そう書かれていただけだった。
残りのページは捲っても捲っても白紙。
「・・ハッ・・」
溜息が自然と出る。
(・・・ほんっ・・とに簡単だな!遺言のつもりじゃないのか?・・・わたしを愛していたとかもっと色々書きやがれ!バカヤロー!)
メモ帳なのに2ページしか使われておらず、感情のこもっていない様子が文章にまで出ていて、悲しみを通り越して思わず怒りが込み上げた。
「・・・・・」
もう一度書かれていたものを反芻して、しばらく考え込む。
(・・・こういう奴だったな。なんであたしを助けたのか何回聞いても答えてくれなかったし、あたしが何度誘っても最後まで手をださなかった。そりゃ昔は小便臭いガキだって自覚はあったけど、女になったらいけると思ってた。ゲイだと疑った時期もあった。だけど違う。一緒に行動してわかった。あいつは何も望んじゃいなかった。なら、あたしはあいつにとって何だったんだろう・・・止そう、今考えるべきは過去じゃない。)
長く物思いに耽っているとあらぬ事まで浮かんでくる。
(もう一度整理しよう。
地球行きのチケット?こんなもの普通じゃ手に入らないのに。ユートピアとか言われているあそこに行くのか?このあたしが!?・・・場違いにもほどがある。今更平和ボケした連中の住処に行けと?・・・どういうつもりだったんだ?・・・それになぜ、金を?あたしの為に残してくれた?・・・違うな。ならペンダントは最初から渡しておくはず。・・・だめだ、まるでわからない。)
色々な事が起こりすぎて、頭を抱えたくなった。
そうして考える内に一つだけ、行くべき場所を思い当たる。
メモに書かれていたように
(・・ドンを頼れ?・・っ!・・クリスティーヌファミリーなら色々知っているかも知れない。明日会いに行って、確かめるしかない。)
彼女は結論を出すと大きく息を吐いた。