前篇
ある村に、気立てのよい娘がおりました。
その娘は心根が現れたような美しい娘ではありませんでしたが、愛きょうのある笑い顔を持つ、とてもかわいらしい娘でした。
ある時、娘は木苺を摘みに森へと出かけてました。
森のとても奥深い場所に、娘だけが知っている木苺の群生地があるからです。
危険なクマや蛇に注意しながら森の中を歩いていると、目の前に大きく張ったクモの巣に淡く光る美しい蝶々が囚われていました。
娘はその美しさに魅入られましたが、このままいくと大きなクモの巣の真ん中で手ぐすね引いて待っている蜘蛛に蝶々が食べられるかもしれないと思うとなんとも気の毒になって、その蝶々を助けることにしました。
薄い羽を傷つけないように優しく蜘蛛の巣をほどいてやると、蝶々はしばらくそこにとどまって何度か羽を動かしてから、ひらひらと何処かへと飛び去っていきました。
娘は蜘蛛には気の毒なことをしたと思いながらも、蝶々の飛びゆくさまを見て満足もしていました。
そうしてまた森の中を歩き始めました。
とうとう群生地に着くと、それはそれはみごとなまでに木苺がたわわに実っておりました。
これには娘も大喜びで、せっせと木苺を摘んで籠に溢れかえるほどでした。そして、この木苺で沢山のジャムを作れることに喜びを感じていました。
籠を持って家に帰る前に手を洗おうと近くにある泉に行くと、どうしたことか前に来た時よりも水の溜まっている量が多かったのです。
不思議に思いながらもしばらく長雨があったせいだろうと納得をして、少し水を汲んで手を洗おうとしました。
その時です。
泉の水がきらきらと輝き始め、ちょうど真ん中あたりの水がごぽごぽと湧き始めました。
娘は驚いて沢山の木苺が入った籠を倒してしまいましたが、そんなことになっているとは全く気付かずに泉を見つめるばかりでした。
泉はどんどんと水が湧き、そうして水の柱が立ったかと思うと、その柱は人の形を取り始めました。
その水の人形はだんだんと色彩を纏って、長い水色の髪と瞳を持つ、美しい女神になりました。
あまりの出来事に娘が声を失っていると、泉の女神はこう言いました。
「そこの娘。そなたが摘んだ木苺を所望する」
なんていうことでしょう。
女神は自ら供物を所望されたのです。
先ほど時間をかけて籠いっぱいに摘んだ木苺ですが、女神さまの言葉につられてその籠をみてみると、倒れて中がひっくり返っていました。そして娘自身の足で踏みつぶしてしまったものも見受けられました。
こんな木苺では女神さまに召し上がっていただくなどできないわ
そう思った娘は、恐れながらも女神に話しかけます。
「もうしわけございません。この木苺は私の不注意で汚れてしまいました。もしお時間がいただけるのならば新しく摘みなおしてまいります」
「いや。その木苺でよい」
「それでは籠の中にあるものでよいものを選んでもよろしいでしょうか」
木苺は随分と地面に落ちてしまっていて籠の中のものは残りわずかとなっていましたが、それでも女神さまに差し上げることができるのならば少しでも良いものをと思ったのです。
するとどうでしょう。女神は娘をみてにっこりとほほえんだではありませんか。
「心優しい村娘よ。さきほどそなたが助けた蝶々は妾の化身であった。あのままであるならば力弱き蝶のである妾は確実に蜘蛛の餌食になっていたであろう。助けてもらったのに礼もせなんだな。そして時間をかけて摘んできた木苺をわらわの所望に応じてくれたこと、ありがたく思うぞ。褒美は何が良いか?好きなものを申してみよ」
娘はいったい何が起こったのか、しばらく理解できませんでした。
なぜなら娘にとって蝶々を助けたことや木苺を女神さまに差し上げることが神様から礼を言われるようなことではないと思いましたので女神さまにそのように伝えました。
その娘のありようをいたく気に入ったようで、女神はまぶしいほどの輝きで娘にほほ笑みかえしました。
「では、わらわの好きなようにさせてもらおうぞ。そなたがこの泉に向かい、何か願い事を唱えれば、その願いをかなえてやろう。おなごが欲しがる宝石や服でもよいぞ。そなたが望む限り何度でも叶えてやろう。そなたの一生の時など、わらわのひとときの夢の間の出来事にすぎぬからな。そのくらいの気まぐれも許されるであろうよ」
女神は娘から熟れた木苺を受け取ると、娘の返事を待たずにきらきらと輝きを放ちながらぱしゃんと水音を立てて消えました。
後には風に揺らぐ水面だけが残りました。
もし木苺が地面に落ち広がっていなければ、そして籠の中に残された木苺の数が減っていなければ、いまあったことは全て夢だと思っていたことでしょう。
しばらく茫然としていた娘でしたが、太陽が陰ってきたことに気がついて、あわてて籠の中に拾い集めた木苺を入れ、家路を急ぎました。
胸に湧き上がる喜びを抑えつけながら。
家に帰りつくと、娘は早速森での出来事を両親に話しました。
けれど両親は、森の中でうたた寝でもして夢でも見たんだろうと取り合いません。
たしかに夢のような出来事でしたが、籠の中の土にまみれた木苺が森での出来事が本当にあったことだと告げていました。
ただ娘は、両親に信じてもらえなかったことが悲しくて、また両親でも信じないことを他の人に行ったとしても信じてもらえないことだろうと思って、女神に会ったことは誰にも言わないことにしました。
それから随分と経って、娘も女神にあったことなど忘れそうになっていた時のことです。
娘の大切な年老いた両親が、疫病にかかってしまいました。
娘の家は裕福ではありませんでしたので医者に診せることも薬を買うこともできませんでした。
うんうんと熱に唸る両親を、娘はただ額に濡れた布をのせかえることしかできません。
ただただ途方に暮れていたら、棚の上にあった木苺のジャムが目に入ってきました。
そのジャムは森で女神にあったときに摘んだ木苺で作ったものでした。
ジャムの入った瓶を見ているうちに、あのときに女神が言った言葉が思い出されました。
たしかに、女神は「願えばなんでも叶える」と言っていたはずです。
娘はベッドで寝ている両親に森に行くことを告げると、病に犯された両親は最後の時を娘に看取ってほしかったものの、懇願する娘をむげにはできませんでした。
そうして娘は森の中のあの泉へと駆け出して行きました。