4
ヒースの大きな声のおかげで、暗くなりつつあった空気が少しだけ柔らかくなった。
「なんじゃヒース、急に叫びよって。聞きたいことがあるなら普通に話せ。年は取ったがまだ耳はそこまで衰えておらんからな」
「いえ、そうではなくて学院長……、今『異世界』とおっしゃいましたよね?」
「ふむ、言ったな。しかしヒース、学院の外ではおじいさま、と言いなさいと言っておるだろう」
「だからそんなこと、今はどうだっていいことでしょう!」
そう強く言い返すヒースだが、一方で学院長はソファの背もたれに深く体を預けると、ヒースの言葉なんてどこ吹く風というように、片手で白さの目立つ頭を撫でつけている。
「可愛い顔をして、その我の強さはいったい誰に似たんじゃ」
あなたですよおじいさま、と言い切ったヒースは、先ほどと打って変わってふてくれさたように静かだ。
目の前で繰り広げられるやりとりに、学院長と対面していたロウは口をはさむこともできず、諦めたように私のひざの上に収まっている。話が進むまできっとこのままだろう。つまるところはというと、私が先導しなければならないということになる。
しかしそう思ってようやく出たのは、口の水分が足らずカラカラでしゃがれた声だった。
「あの……、おふたりとも、話を元に戻してもいいでしょうか」
お茶を飲んでごほんごほん、と何度かのどを鳴らすとようやく普段通りの私の声になった。
「学院長、さっきの続きなんですけど、異世界と言われましたよね」
口の乾きは無くなっているはずなのに、異世界と声で出すときになんとも言い難いが、言葉がつまってしまう。
「……なぜ異世界、とそう思われるんですか」
しぼり出すように話す私を学院長がみつめる。その瞳は年齢のせいか、少しだけくすんだ様でもあるが、凛とまっすぐに私を映していた。
「あの森で妹がいなくなってからすぐ、家族や他大勢の人間で国内外と探し回った。多くの時間も金も使ってな。知っているとは思うかもしれんが、妹は当時この国で見つかったばかりの魔石をもっておったんじゃよ。だがどれだけ探しても、見つかるどころか一片の手がかりさえも見つけることはできんかった」
「たとえば魔石を持ってどこか遠くの国に行ったとか、そんなことは考えなかったんですか」
「考えたな……わたし以外は」
学院長は緩く首を振ると、私のひざで丸まっているロウへ視線を送った。
「妹が消えるその時、私も一緒にその場にいたのじゃ。それは突然起きた魔力のゆがみで、強すぎる力に魔石を持っておった妹の周りの空間が、ゆがむ様を目視できるほどじゃった」
目を閉じ、当時のことを思い出しているのか、学院長はしばらくそうしていた。その間、私もロウもヒースもじっと身動きひとつ取らない。
外に通じる窓はすべて閉まっており、室内は静寂が包んでいた。静寂は緊張をつれてくる。無意識に吐く息さえにも意識してしまうほどに。私は学院長が再び口を開くのを、息をつめて見つめていた。
「ゆがんだ空間の中に見たことのない世界を見た。……いいや、全く違うともいいきれない景色じゃった。ここと同じように空があり雲があり、木があり花があり、同じく人の姿も見えた。ただどこかの町か村の片隅のようだったそこは、大地が土や石などではなく、また遠くには見たこともない鉄の塊がその大地の上を動いておった。当時、わたしはまだ年若じゃったが、人よりも大抵のことは知っていると自負していた。しかしあの時目の当たりにした現象や向う側の世界について、何を説明することもできなかったんじゃ」
「……そこがヒナちゃんのお祖母さんが飛ばされたという場所?」
ヒースが小さく私に聞いてきた。問われた私はヒースに向き直り、無言のまま頷く。そうするとヒースがさらに疑問を投げかけてきた。
「それなら……ヒナちゃんのお祖母さんがその違う世界に行ったというなら、今ここにヒナちゃんがいるというのは――」
「今度はあちらの世界からこちらへ飛んできたということだな」
私の代わりとばかりにロウが答える。
「それはロウ、魔石の力が原因ということなのか?」
「さあな、少なくとも今も前回も故意に空間をゆがめたわけではない」
ヒースは難問を解くように「うーん」と深く眉間にしわを寄せた。
「魔法というのは依然として不可解な部分が多い。我々は知ったように魔法を使っているが、実際おそらくはその半分の力も使いこなせていないのだろう」
「半分も使いこなせていない? そんなまさか」
ヒースは驚いたように学院長を見た。私も同じだった。それもそうだ、教員でもあり、国でも有数の魔法師でもある学院長がそういうのだから。
私にとって魔法というと、それは万能の力にように思ってしまう。でも魔法について勉強し始めてそれは間違った考えなんだと気づかされるだろう。きちんと基本を学び、失敗を繰り返しながら何度も練習しないと簡単な魔法でもうまく使えないし、難易度が上がればさらにだ。でもそれは魔法に限らず、例えば他の勉強しかり、言語、運動、料理だってそうかもしれない。よくよく考えてみると当たり前のことだ。
過去に消えた魔法や、誰も使ったことのない魔法だってあるに違いない。学院長の言葉を当てはめるなら、魔法はまだ多くの未知の可能性を秘めているはずだ。それは異世界へも渡ってしまえるほどの。
「この国では現在、魔法の力は限られた人のみに現れるし、それも特に上流階級に多い。しかしずっと以前は、国民すべてが小さなものであったが自由に魔法を使えていた……これはヒースはもう習ったろう?」
「確か魔石とその内に秘められた大きな力が発見されて、それから徐々に人々から魔法の力が衰退していったんですよね」
「そうじゃな。最初の魔石が国内で見つかった後、国中で魔石の捜索が行われ、街や村にも広がっていった。魔石を使えば呪文を使ったりせず、簡単に魔法が使えるからの。ただヒース、最後だけ違うぞ。人々から魔法の力が消えたわけではない。潜在的には皆が魔法の力を有しておる。同じ人間なのじゃ、でなければ一部の人間だけが魔法を使えるとはおかしいじゃろう」
「ですが、現に地方の町や村はもちろん、王都の人間でさえまともに魔法を使える者はいないじゃないですか」
学院長は「復習が足りんようじゃな」と肩をすくめ、ヒース……ではなく私に質問した。
「ではヒナ、なぜ国の多くの者たちは魔法の力を使わないと思うかの?」
突然の話のふりに、私は少し戸惑いながらも考えを巡らせる。それで学院長の「使わない」という言葉が引っかかった。
「――使わないんではなくて、使えない。使い方が分からない、そうたぶん、魔石をみんなが使うようになって、今まで使っていた魔法の言葉や使い方を忘れてしまった。それで周りで教えてくれる人がいなくなれば、子供たちも使い方を知らないままだから」
答えを確認するように学院長を見れば、正解だというようにしっかりと頷き返してくれた。
「現在、平民の出で学院に通っておるのは、潜在的な魔法力の強いごく一部のものだけじゃ。まぁ魔石の話に戻るが、魔石というのは永久的なものではない。使い方や魔石そのものの力の強さでは半永久的なものもあるかもしれん。生き物や物に寿命があるように、魔石にも同じことがいえるんじゃよ。それに昔の人々が気づいたのは魔石が見つかってから随分経ってからのことじゃったが」
「魔石も寿命がきたらいつかは消えてしまうんですか?」
私はそう聞いて、ひざに座るロウに触れていた手に力が入った。ロウを見ると、その瞳は私を静かに見つめ返してくる。
「そうじゃの、しかし人よりは長い。持ち主が何度も変わるほどにの。それに消えたといっても、元は妖精じゃ、大地や木々に還ると言われておる。それよりも問題なのが魔石の数じゃな」
「そういえば今、国にある魔石は数えるほどなんですよね? 昔は色んな町や村にも普及していたのに。たとえ消えてしまったとしても新しい魔石は見つからないんですか?」
ロウのように、と最後に付け加えれば、学院長は悲しげに言った。
「見つかるかもしれんが、それはおそらくもっと先のことじゃろう。魔石が生まれる過程は知っているな」
「妖精が集まって、それで長い時間をかけて生まれる、ということは」
「魔石をとり過ぎたんじゃ。妖精は特に深い自然の中を好む。じゃから昔の人々は魔石の生まれそうな森の中を進み、洞窟を進み、大地を掘った。多くの魔石が見つかったそうじゃ。しかし反面、現れた大勢の人間に驚いた妖精たちは逃げるように数が減り、比例するように魔力で満ちていた森はただの森となった。今ではほとんどの森に妖精たちは戻ってきているようじゃが、まだ戻ってきていない森や山も一部ある」
「そうか、妖精がいない所では魔石は生まれない。しかも長い時間が必要で、まだ森に妖精が戻ってそれほど年月も経っていないから新しい魔石ができるまでにはもっと時間が掛かるのか」
ひとり納得するようにヒースが小さくつぶやく。私はその様子を視界の端にとらえながら、この世界に来た最初の森、ロウ――魔石が見つかった森のことを思い返した。
人が通る整備された道はなく、ごつごつと木の根が飛び出すような深い森の中には、街中ではないのに妖精の姿がなかったのを覚えている。まるで時が止まったかのように静まりかえった森の中は、昼間でも恐怖さえ感じさせた。
ただ学院長の話を聞いて私もヒース同様、納得した。
「今はまだ全部の森に妖精たちが戻っていなくても、きっとまた戻ってきてくれます。そうして国中の森や山に妖精が戻って魔力が満ちて、町や村の人たちが魔法の言葉や使い方を知れば、ずっと昔のように皆が魔法を使えるようになるかもしれない」
私は言いながら、胸の中に熱い高揚を感じた。今までぼんやりと霞むようだった足元に、小さな光がともされたかのようだった。