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それからしばらくはリディと2人、広間の端で目の前に広がる煌びやかな空間を眺めていた。色とりどりのドレスは広間の灯りに負けず、キラキラと目にまぶしい。
ここまで連れ立ってくれたヒースとイアンと別れたのはつい先ほど。彼らの姿は、近くを歩いていたボーイから飲み物をもらっている間に、煌びやかな色彩に埋もれてしまってもう見えなかった。
とめどなく流れ続ける景色と音楽に、私は壁に背をあずけてそっと息をついた。手に持っていたグラスを口につけて一気にあおる。人々の熱気がまるで全身を包むかのように体をほてらせていた。
喉を伝い、甘い果実の風味が口や鼻まで広がって、なんだかふわふわ心地いい。夢心地とはまさにこのことだろう。
ヒースとイアン、彼らにも付き合いというのがあるらしい。
ロータス学院の学生もちらほらいるというのは、ここに来て分かっていた。ふたりは私たちも誘ってくれたが、今回は遠慮することにした。私やリディは学年も下だし、本当は挨拶なんかした方がよかったのかもしれない。でも初めての経験ですでに気後れしまっていた私には、到底自分から集団の中に入っていこうなんて勇気はもてそうになかった。
リディも気遣ってくれたのだろう、2人に断って私と一緒に壁の花になってくれている。リディには特に意味なんてないのかもしれない。でも私は彼女のこういうところが好きだった。
私は空になったグラスを近くにいたボーイに渡してから、広間の方へ顔を向けていたリディを見た。
「リディ」
「何ですの?」
「こういうのって、よく開かれるの?」
初めて目にした貴族たちの集まり。顔ぶれなんか私が知るわけない。でも彼、彼女らが見につてけているものや振る舞われる食事、宝石箱に入り込んでしまったかのようなこの空間は。
「そうですわね、毎夜どこかで開催されているんじゃないかしら」
「……こんなのが、毎日」
本当に今日一日で驚くことに疲れてしまったらしい。気を張っていた肩はすっかり脱力してしまって、唇からは小さく渇いた笑いしか出てこない。
「先生もいるんだね……」
「ああ、今夜は学院も休日ですし、先生方もいらっしゃっているようですわね」
普段私たちに教鞭をとっている先生たちは、今はまるで全く知らない人のようにもみえた。それはきっと私自身にも言えることで。
背後に視線を向けると窓ガラスに着飾った自分と目があった。初めは着ているだけで恥ずかしく思えた格好は、このパーティーにも浮くことなく自然と馴染んでいると思う。恰好だけは、そう思うとちょっと笑えた。
「もしかしたら学院長もいらっしゃっているかもしれませんわね。今夜はシア様、ここデモール家主催ですし」
「へぇ、そうなんだ」
リディの話に言葉だけで相槌を入れながら私は窓越しの夜空を見上げた。広間の灯りが強いから星が霞んでみえずらい。そして外の暗闇がいつもより一層濃く感じた。
この世界に来て初めて夜の暗闇を目の当たりにした。雲の隙間から漏れる星明りにほっとして、視界一面に広がる星空に感動した。
村ではもちろん、王都でも夜は炎の灯りが頼りで、今私の目に映っているような、こんな眩い魔法の光なんて見ることはなかった。
気付いてはいたが、この世界の魔法とはそういうものなのだろう。
「あ……、シアだ」
窓ガラスに薄らとシアが映っていることに気が付いて私は再び広間へと顔を戻した。
「どちらに?」
「ほら、真ん中あたり。すごい、いっぱい人に囲まれてるよ」
あそこ、と指を指さなくてもその場所はひと目でわかった。ただ、どこにいるのかはよく目を凝らさなければ分からない。たくさんの人混みの中にいるたったひとりだからだ。
「あら、本当ですわ!」
……でもリディには必要なかったらしい。まあ恐らくシアだけになんだろうが。
「いやぁでも本当、すごいね」
「ええさすがシア様ですわ。ああ……、今夜も一段とお美しい」
「……いや、すごいっていうのは、って聞いてないし。……もーいいや」
今のリディに何を言ったってきっと耳には入らない。リディとの見当違いな会話は日常になりつつあって、その経験が「今のリディとの会話は不可」だと伝えてくる。
リディが落ち着くまで放っていると途中で、何人か知らない男性に声をかけられた。簡単に言うとちょっと話しましょう、という感じだ。相手はどうか知らないが、私はもちろんそういう気で今夜ここに来たわけではないから受け流す。もちろん上手い断り方なんて私が知るはずもなく、たどたどしく言いよどみがらも少ない語彙力で言葉を並べていった。
引きつった笑みで頬の筋肉がヒクヒクと痛み出したころ、私はもういいだろうとリディの肩を叩いた。
「ね、リディ、シアの所に行ってきなよ」
しばらく間をあけて声をかけたからか、今度はすんなりとリディの意識をこちらへ向けることができた。遠く離れたところにいるシアからようやく視線を外したリディが傾げて問いかけてきた。
「ヒナは行きませんの?」
「私はちょっと外の空気吸ってくるから。何だか疲れちゃったし」
庭へと続く大きく開かれた扉に視線を投げかけながら言った。
これは今の私にとっての紛れもない本音だった。それに初めてこのような場面に立つ私に合わせてリディはここにいてくれて、だからそれに対しても申し訳ないという気持ちもあったからというのもある。
「――それでしたら……近くにベンチがありますわ。池の周りに。今夜は雲も少なくて明るいですし、風も穏やかですから落ち着きますわよ」
「うん、ありがとう」
少しだけ間を空けて話し出したリディの言葉の中に彼女なりの優しさがうかがえる。疲れたという私に、あえてひとりにしてくれるのはきっとリディなりの気遣いだ。色々と気を遣わせて悪いなとは思いつつも私は素直に頷いていた。
明るいホールの下で周囲の人々が雑談に花を咲かせたり曲に合わせてゆったりとダンスに興じている。私はそんな流れに反するようにリディに背を向けると外に続く扉へ向かって足を踏み出した。
「ヒナ」
数歩ほど前に進んだところでリディに名前を呼ばれた。
「何?」
「あまり遠くへ行かないように」
「もう、分かってるって」
どうしたのかと振り返ると、最後の最後までまるで小さな子を心配するような言い方に、さすがに少し苦笑いした。
薄い雲を通して、月明りが夜空を照らしていた。時折途切れる雲の隙間から射し込む金色の光が夜闇の森に静かに影を落とす。
頬を撫でる風は、火照ってしまった体にちょうどいい。ただ、昼の暑さと比べると1枚くらい何か羽織るものがほしくなる。
ホールから外に出た私は、見つけた大きな木の下にあるベンチに座って空を眺めていた。
この広い庭には所々いくつかベンチなどがあるのだろう。歩きながら途中、恋人との逢瀬か私のように休憩か、ベンチに座る影を見た。自分以外にも外に人がいることに少しほっとしながら、見つけたベンチに腰を下ろした。
リディが言っていた通り、近くに池があるようだった。葉の揺れる音の中に水の音が聞こえる。整えられた芝生に林のように木々がそびえていて昼間の図書館、ヒースたちのことを思い出した。あの庭も素晴らしかったが、こちらはまた違う庭なのだろう。星明りだけではよく見ることはできないのが残念だ。明日帰る前でも、シアにこの庭も見せてもらおう。そう思いながら今夜は、と私は目の前に広がるこの夜空を見上げる。
耳に届くのは同じ音なのに、風の音が水の音が、木の枝の軋みや葉の揺れる音が、四方から聞こえる虫の声が、なぜだか聞いていると心が落ち着く気がした。
「ここにいたのか」
風の音に紛れ、突然男の声が耳に届いた。
「池のまわり、巨木の下のベンチ。ここであっているでしょう?」
驚く間もなく今度は女性のクスクスと笑う声が聞こえてきた。
「それにしても早かったな」
「だって早く2人になりたかったんだもの」
空ばかり見上げていて、近くに人がいることに気付かなかった。突然のことに体がビクついて、そして立ち去るタイミングを逃してしまった。
だって聞こえてきた声は男女のもの。夜に男女が2人でこんな人気のない場所で待ち合わせなんて、思いつく理由は限りなく少ないはずだ。
「私もだ。いてもたってもいられないとは正にこのことだ」
「あら、お熱いのね」
「あなたもまんざらではないだろう?」
「女性にそんなことを聞くのかしら?」
ーーこれじゃまるで盗み聞きだ。
とは言っても動いたら気づかれてしまうだろう。周りがいくら静かとはいえ、話し声が聞こえてくるほどの距離だから。
今が夜なのが幸いだ。できればこの2人には私がここにいる間は健全な逢瀬をしてもらいたい。
できるだけ体を縮めるようにベンチにうずくまっていると、小さな光が幾つかフワフワと近寄ってきた。
「しっだよ、みんな」
まるで蛍を思い出させる光はきっとこの庭の妖精たちだ。彼らに声が届いているかは分からないが、ただそのふわふわとした光は小さく弱まった。
「――冗談はさておき、だ」
一瞬だけしん、と間が空いたかと思うと、男は声を落として言った。
「そうね。何かいい話はきけたのかしら?」
「ああ、まぁでもそれはお互い様だろう。でもまさか本当に”消えた魔石”の話が上がるとは思わなかったさ」
「ええ本当に。さすがデモール家の夜会というところかしら」
「だがあの方もみえられていたというのに」
「若君おふたりもね。……人の噂というのは誰に止められるものではないのよきっと」
巨木や草木を間にはさみ、互いに顔は見えないはずなのに、私には彼女の声から皮肉めいたものが伝わってきた。少し高めの、まだ大人になりきれていない声。そう、どこかで聞いたことのあるような――。
「普段なら決して話題にも上がらないさ」
「お酒が心の底をさらって夜の暗闇がしがらみを隠してしまうのよ」
「そうだな……だが、」
男の声がさらに一段と低くなる。私はいつの間にか2人の会話に耳をそばだてていた。
「そもそもあれは本物なのか?」
「……本物よ」
「確証は?」
「私がそう言っているのよ?」
言葉の中にまるで棘があるかのようだ。彼女の冷たい声に、丸めていた背中を両腕で擦る。
はあ、と男の息を吐く音がこちらまで聞こえた。
「イザベラ、あなたがそう言うなら信じよう」
――今思えば、声を聞いた時から気を引かれていた。特に魔石の話題が出てきてからは。
「――今のあなたがひと言そうだと言えば、一族全員がそれに従うのだから」
確証はない。でも彼女は何か知っている。