道中
「どういうことだ、これは」
ランセル殿下についてロータス学院の入り口まできた私はある困難に直面していた。
「どういうことって、見たら分かるだろう?」
学院から出てすぐの所で仁王立ちをしている人物に対し、ランセル殿下は先ほどから保ち続けている笑顔で返事をする。殿下の返事が気に食わなかったのか、私たちの前にいる人物は眉を寄せた。
周囲には休日を学院の外で過ごす学生や、そんな彼らを迎えにきたと思われる御者が馬車と共にいたが、眉を寄せているこの人物から少し離れた場所にいた。理由は身分、だけではなくきっと隠そうともしない不機嫌な雰囲気で周りが怯えているからだろう……。
私も例外ではない。
ランセル殿下と会話をしている人物の注意を引かない様に、できるだけ体を小さくして殿下の背中に隠れた。
「今から行くのは王宮のはずだが、……なんでそいつがいる」
「……ひぃ!」
私は直接顔を合わせていないのに感じる視線に縮み上がった。体と一緒に思わず声も上がる。
「まったく。女の子をそういう風に睨みつけたらいけないと何度も言っているだろう? それと、この子はそいつじゃなくてヒナだよ」
私や周りの人間とは違い、ランセル殿下は怯えの表情を一切見せない。逆に、殿下の言葉に対して目の前の人物が一瞬たじろいだ。
その様子を私は殿下の背中から顔だけを出して伺う。
「……それから、王都までヒナも一緒に行くから」
「は……?」
ランセル殿下はそう言うと、後ろにいた私の方に振り向く。肩に手を置かれ、横に並ぶように立つと前に進むよう促される。
「えっ、あの……?」
戸惑う私にランセル殿下は「だいじょうぶ」と繰り返す。だが前へと進む足は止まらない。目の前の人物が近付く私たちに向かって口を開いた。
「おいっ……!」
「女の子が1人で歩いて王都まで行くというのに、心が痛まないのか? 我が弟ながら、情けないよ」
はぁ、と大げさにランセル殿下はため息をつく。
「ランセル殿下、あの、私やっぱり1人で行けます。ヴェ、ヴェルリル殿下も困ってるみたいだし……。心遣いだけで……」
私は肩に置かれている手に少し意識しながら、ランセル殿下を見上げる。今まで兄や父以外の異性に肩を抱かれる経験がなく、慣れないそれに自然と心拍数があがる。そして、それ以上に美人でかっこいい人がこんなにも近くにいることに緊張したのか、出す言葉が震えた。
――きっと迷惑だよね……。
私はランセル殿下から、そろりとヴェルリル殿下に目を向ける。
「あ……」
気付かれない様に見たはずなのに、ヴェルリル殿下と視線が重なる。気まずさですぐにでも逸らしたかったが、私はその瞳から視線を外すことはできなかった。
「馬車もちょうど来たみたいだ」
重なった視線はランセル殿下の声でようやく外すことができた。
――うう、さっきは女子たちに睨まれ、今度はヴェルリル殿下に睨まれ……。
今日という1日が始まったばかりなのに、と思わずにはいられない。
自分の世界に入ったまま歩いた私は、陽の光から私自身をすっぽりと隠す物に気がつかなかった。
隣にいるランセル殿下に「ほら、ヒナ」と呼びかけられるまで。
「ぅわ……! 何これ?」
目の前にある「それ」に大きく瞬きを繰り返す。開いた口からは意味のない「ふわぁー」というような声が流れ出た。
しばらくそのまま立ちつくした私は「ごくり」と息を飲み、横にいるであろうランセル殿下を振り仰ぐ。
「もしかして、これに、この馬車に乗るんですか?」
美しい装飾がほどこされた馬車についうっとりとしてしまう。顔もだらしないことになっているだろう。だからか、そんな私を見たランセル殿下はくすり、と笑い「そうだよ」と答えてくれた。
殿下の言葉を聞いた私は、改めて馬車を見る。装飾だけではなく、扉や窓もしっかりしているようだ。今いる場所からは中を確認することはできないが、内装も素晴らしいものだと想像できた。
「あの、触っても……?」
馬車の出入り口である後方にいた私は前方にいる馬の所へ行くと、殿下2人に許可を求めた。おそるおそる聞いたので、おそらく私の声は2人に届いていなかったかもしれない。しかし私の様子から判断したのか、ランセル殿下が首を縦に振った。ヴェルリル殿下の反応はなかったが、私はランセル殿下の頷きから、馬を触ってもよいという解釈をした。
「とてもきれいだね、君たち」
馬に向き直った私は初めに指だけで触れた。元々賢いのか、調教されているのか、……多分その両方だろう。2頭の馬は見知らぬ私が触れても暴れたりなんかしなかった。
「おい、そろそろ行くぞ」
長いまつげに縁取られた大きな瞳の馬達に話しかけながら触っていた私にヴェルリル殿下が声をかけてきた。少しばかりうんざりとした声は、私がどれだけ2人を待たせていたかを示している。
「ヒナは馬が好きなのかい?」
ヴェルリル殿下とは裏腹に、ランセル殿下は先ほどと変わらない口調で近づいてきた。
「あ、馬がというか。動物が好きなんです」
私は口元を緩めながら、先ほどから共にいるロウに視線を送った。
どうやら私のせいで随分と待たせてしまったようだ。送ってもらう立場なのに、と私は「すいません」と何度も謝った。
「どうぞ」
御者だろう壮年の男性が扉を開く。先に乗ったランセル殿下が私に向かって中から腕を伸ばす。
「あ……、えと」
開かれた扉の中は想像通りに素晴らしかった。それまで乗った馬車とはまるで違う壮麗さ。それは「殿下」という2人の立場からいえばごく当たり前のこと。周りにも迎えの馬車があったが、そのどれよりも立派であったし、2人も十分すぎるほどに馴染んでいた。
私は自分自身の身なりを見降ろしてみる。ごわついた手触りの、しかし今の私にとって馴染んだ服に、擦り切れた靴。そんな姿の自分と馬車とを見比べた私は、もう触れそうなくらい近くにある馬車に乗ることをためらってしまった。
「どうしたんだいヒナ?」
開いた扉の前に立ち尽くす私にランセル殿下が訝しげに尋ねる。
殿下の声に対して目を泳がせる私はあるものが目に入った。
「馬に、馬に乗せてください!」
「え?」
急に声をあげた私にランセル殿下は驚いた顔を見せる。殿下の返事を聞かず、私は扉を支えていた御者の男性に話しかけた。
「……御者の代わりでもして、お前が馬車を動かすのか?」
私の後ろに立っていたヴェルリル殿下は皮肉を込めた声を出す。わがままを言うな、とでも言いたいのだろう「さっさと乗れ」と私の背中を押した。
「う、馬に乗りたいんです!」
馬車の方へと押される体をなんとか足に力を入れて踏ん張る。2人にも御者の人にも迷惑をかけているが、それでもこの馬車に乗ることはためらってしまうのだ。
なかなか動こうとせず、「馬に乗りたい」とわがままを言い続ける私にあきれたのかヴェルリル殿下は「……はぁ」と息を吐いた。殿下は私の背から手を下ろすと、私たちの攻防を見守っていたランセル殿下へ助言を仰ぐように、顔をあげる。
「ヒナはどうしても馬車に乗りたくないのかい?」
ヴェルリル殿下の視線を受けたランセル殿下は小さく頷くと、私に問いかける。
「や、乗りたくないわけではないんですけど……。豪華すぎる、っていうか」
はっきりとしない物言いに、自分でもあきれてしまう。誰かに叱責してもらいたいくらいに。
――それにしても、ランセル殿下が送ってくれる、といった時点で予測するべきだった。当たり前じゃないか。殿下、王子といわれる人が乗るものなんだから。私のような平民が乗るような馬車のはずがない。
もごもごとする私に、ランセル殿下は優しげな、しかし少し困った表情で何かを考えているようだ。
申し訳なさでいっぱいの私は両手でワンピースの裾を握り締めた。
「……うん。それじゃあ馬で行こう。すまないけど、王宮へ先に行ってくれる?」
少しばかり間が空いたと思っていたら、ランセル殿下は突然そう言うなり、馬車の御者に命を出した。御者が「かしこまりました」という返事に頷くと、ランセル殿下は乗っていた馬車から下りる。
「ラ、ランセル殿下……?」
「王宮で何か聞かれたら『久しぶりに馬を走らせたい』と言っていたと伝えて」
戸惑う私をよそに、殿下は御者と話す。ついには、馬車は殿下達を乗せずに走り去ってしまった。
「え……、え……?」
私はだんだんと小さくなる馬車を見つめる。そして事の重大さに気がつくと一瞬にして血の気が引いてしまった。
「も、申し訳ありません! 私のわがままで!」
謝っても謝りきれない。こんなことになるなら私の気持ちなんか無視して、大人しく馬車に乗るべきだった。
「ん? 大丈夫だよ。馬を走らせたいと思っていたのは本当だし。まぁ本来なら護衛なんかをつけないといけないところだけど、たまにはいいかな」
「で、でも」
若干涙目になっている私の肩を、優しくたたく。その慰めるような行為に涙がこぼれ落ちそうになった。
「あ、来たみたいだ」
ランセル殿下は学院の入口に視線を向ける。私もそれに倣うように見ると、2頭の馬を連れたヴェルリル殿下がいた。
いつの間にいなくなっていたのか。私が去る馬車に茫然としているときなのか、それ以前なのかはわからないが、ヴェルリル殿下は鞍などをつけた馬を慣れた手つきで引いている。
どういうことなのか、と理解できていない私をよそに、ランセル殿下は馬の元へ近づく。
「……本当に馬で行くんですか?」
「実を言うと、ヒナに少し感謝しているんだよ? 理由はどうであれ、こうやって馬に乗ることは本当に久しぶりだからね。ヴェルも口には出さないけれど、僕と同じ気持ちだと思う」
そう言うランセル殿下は普段よりもはにかんだ笑顔に感じた。その笑顔に、申し訳ないとばかり思っていた心の重みが少しだけ軽くなる。
「まぁ、確かに馬車よりは馬に乗った方が気分はいい、ということは認める」
「ヴェル、まったく……」
これまでは殿下、という立場が先だって近づきにくいという先入観を持っていた。だが、それは彼らの肩書きだけを見た結果だったのかもしれない。考えれば、2人は自分たちの身分を驕ったことなどなかった。
色々と迷惑をかけたという実感はもちろんある。それでも、それを感じさせないようにする2人に対してじんわりと心が暖かくなった。
「あの、……ありがと!」
無意識に頬が緩む。そして同様に、無意識に言葉を紡いでいた。
自然と出た感謝の言葉に、殿下達の大きく見開く瞳。2人の瞳の異なる色彩は、どちらとも太陽の光を受けてキラキラと輝く。妖精のいたずらか、辺りを漂う風が私たちの髪や服をはためかせ、馬のたてがみが風に揺れる。
「それじゃあ、ヒナはヴェルと乗ってね」
「はい――って、え?!」
「おい、さっさと乗れ、ヒナ」
「ヴェルリル殿下と? なんで!」
――私の休日はまだ始まったばかり。