第九話
王宮の執務室。重厚な石造りの壁に囲まれたその部屋には、王都の喧騒を遮断した冷徹な静寂が満ちていた。
第一王子、アルベルト・ルイス・ローゼンは、窓外に広がる街並みを無感情に見下ろす。その脳裏には、先日、演習の帰路に森で遭遇した、ある一人の女の姿が微かに残像として浮かんでいた。
「失礼いたします、アルベルト殿下」
背後で扉が開き、側近の騎士が入室した。その手には、商業ギルドから上がってきた最新の報告書が握られている。
「……何だ。またギルドの連中が、予算の増額でも求めてきたか?」
アルベルトの声は低く、微かな退屈を孕んでいた。
「いえ……。それが、ギルドの予算を上回るほどの私財を投じ、王都の技術体系そのものを買い叩こうとしている令嬢の噂が届いております。名は――ライラ・クロエラ」
その名を聞いた瞬間、アルベルトの眉が僅かに動いた。
「……ライラ、だと?」
「ご存知なのですか? 家系図のどこにも存在せぬ名ですが、ヴァルト子爵から高台の土地を六百Gで即決。さらには新素材開発のために、個人で九万Gもの投資を約束したとのことです。ギルド長すら、その底知れぬ資力に恐れをなしているとか」
アルベルトはゆっくりと振り返った。数日前、森で遭遇したあの女。王子である自分を前にしても、まるで行きずりの石ころを見るような冷ややかな視線で名乗った、あの不遜な女だ。
(あの時は、ただの世間知らずな放浪者かと思ったが……)
「九万Gの投資……。ふん、どこの馬の骨とも知れぬ女が、金でこの王都の流行を塗り替えようというのか」
アルベルトはデスクに歩み寄り、報告書に記されたクロエラという名に冷たい視線を落とした。
「……面白い。九万Gを『素材代』と断じ、王都の技術を底上げさせる。ただの贅沢にしては、あまりに常軌を逸しているな」
アルベルトは、窓の外のどこかにいるであろうその主を想い、薄く冷ややかな笑みを浮かべた。
「ライラ・クロエラ。……その『贅沢』が、この私をどれほど退屈させないものか。一度、直々に検分してやろう」
王都を揺らす謎の富豪にして、かつての不敵な女。
アルベルト・ルイス・ローゼンの冷徹な好奇心が、静かに動き出した。
※ ※ ※ ※
その招待状は、あまりにも唐突に、そして有無を言わせぬ威圧感を伴って届けられた。白磁のような上質な紙に、ローゼン王家の紋章である「双頭の鷲」が重厚な金箔で刻印されている。
(……アルベルト・ルイス・ローゼン。あの森で会った男⋯⋯王子だったのか)
「ライラ様、いかがなさいますか? 王族からの招きを無下になされば、今後の活動に支障が出る恐れもございます」
ノックスが静かに、だが警告を含んだ声で告げる。
(最悪だ。ここで権力に目をつけられたら、俺のお洒落計画が水の泡だ。……行くしかないか)
「いいでしょう。受けて立ちますわ。ヨルン、わたくしに相応しい『武装』の準備を」
俺はクローゼットの奥から、先日ミラから購入した三百Gのドレスを引き出した。
この一着は、王都の一般的な令嬢が一生かかっても手に届かない、狂気的なまでの贅沢が詰め込まれた逸品だ。一着で家が数軒建つほどの価値。だが、九万Gの投資や一万五千Gの原石を知る今の俺にとっては、これが「挨拶代わり」の丁度いい装いだった。
「ノックス。この三百Gの輝きで、王子の目を眩ませて差し上げますわ。……準備なさい」
ノックスは無言で一礼し退室した。傍に控えていたヨルンが魔法のような手際で俺を整え始める。
※ ※ ※ ※
翌日。王宮の一角にある「静寂の庭園」。白薔薇が咲き乱れるガゼボの主、アルベルト・ルイス・ローゼンは、退屈そうに冷めた紅茶を眺めていた。
(九万Gを投資し、ギルドを揺らす謎の令嬢……ライラ・クロエラ。あの森で見せた不遜な態度が、ただの虚勢か、あるいは――)
その思考は、空気そのものが震えるような、圧倒的な存在感によって遮られた。アルベルトが顔を上げた瞬間、その瞳に衝撃が走る。
現れたライラが纏っていたのは、一国の夜会を一人で支配できてしまうほどの、暴力的なまでの贅沢を極めた紺碧のドレスだった。
最高級の極細シルクを何層にも重ね、光の角度によって深海から宇宙の果てまで色を変えるその布地は、歩くたびに絹鳴りの音さえも音楽のように響かせる。
(……なんだ、あの装いは)
アルベルトは、立ち上がるのも忘れ、その場に釘付けになった。王族として、彼は数多の贅沢を見てきた。だが、目の前の女が纏うのは、単に「高価な服」ではなかった。
一人の令嬢が身に纏うにはあまりに過剰で、あまりに重い「富」そのもの。それを、彼女は羽毛のように軽やかに、そして当然の権利であるかのように着こなしている。
ヨルンによって緻密に編み込まれた銀髪には、細かな真珠が星屑のように散りばめられ、ドレスの紺碧をより一層、峻厳なものへと引き立てていた。
(……認めるしかない。この女は、金に振り回されているのではない。この圧倒的な贅沢を、自らの一部として完全に支配しているのだ)
アルベルトは、王族ですら眉をひそめるほどの過剰な贅沢を、自らの圧倒的な自尊心で正解へと変えて立っている姿に、心底見惚れていた。
これまで見てきたどんな洗練された貴婦人よりも、そのやりすぎなほどに美しい姿は、アルベルトの目に鮮烈な刺激として焼き付いた。
「お待たせいたしました、アルベルト殿下。……わたくしの貴重な昼下がりを割くに相応しい理由、お聞かせいただけますかしら?」
ガゼボの入り口で足を止めたライラの声は、静寂の庭園を支配するほどに凛としている。
アルベルトは、熱を帯びた瞳で、知らぬ間に椅子から立ち上がっていた。
「……久しぶりだな、ライラ・クロエラ。……その装い、なかなかどうして、私の目を喜ばせてくれるじゃないか」
アルベルトは、自分をあざ笑うような彼女の不敵な微笑みすら、もはや至高の宝石のように感じていた。
「……座れ。ライラ・クロエラ」
アルベルトは、吸い寄せられるように立ち上がった自分を誤魔化すように、低く、威厳に満ちた声で促した。
※ ※ ※ ※
お嬢様補正のかかった俺は優雅に対面の椅子に腰を下ろす。ノックスは音もなく背後に控え、王宮の侍従が淹れたての紅茶を注ぐ。
「さて、殿下。わたくしのような出所不明の女を、わざわざ王宮の奥庭まで招き入れた理由……。単にわたくしの装いを鑑賞するためだけではございませんわよね?」
俺は扇を閉じ、アルベルトの鋭い双眸を真っ向から見据えた。アルベルトは鼻で笑い、冷めた紅茶を口に運ぶ。
「鑑賞、か。……違いない。だが、お前という存在は、この王都の調和を乱すほどに眩しすぎる。九万Gを素材代として一介の魔導師に投げ与え、ギルドの相場を一夜で破壊する。そんな怪物を、王家が放置するとでも思ったか?」
「あら。わたくしはただ、わたくしの肌に触れる布地が、この世界の未熟な技術のせいで濁っているのが許せなかっただけですわ。それが破壊と呼ぶほどの影響を与えるとは、この国の基盤は随分と……脆いのですね」
「……っ」
アルベルトの額に青筋が浮かぶ。だが、彼は怒るどころか、その瞳にゾクりとするような愉悦を宿らせた。
「面白い。……その傲慢、その資力。そして、市場のどんな贅沢品をも神話のドレスに変えてしまうその格。お前を野放しにすれば、いずれどこかの国がその財を奪いに来るだろう。ならば――」
アルベルトは懐から、一通の羊皮紙を取り出した。そこにはローゼン王家の赤い封蝋が押されている。
「ライラ・クロエラ。お前に、『クロエラ男爵』の爵位を授ける。今日この瞬間から、お前は王家公認の貴族だ」
(……は? 男爵? いきなり貴族かよ!?)
俺は心の中で盛大にずっこけた。お洒落を極めるために金を使いまくっていたら、いつの間にか「国家レベルのVIP」として身分まで買い叩いてしまったらしい。
「爵位、でございますか? ……ふふ、殿下。わたくしを王家の鎖で繋ぎ止めようというおつもりかしら?」
「鎖ではない。これは通行証だ。貴族の位があれば、お前が欲しがる禁忌の素材も、王立宝物庫の秘宝も、正当な手続きで手に入るようになる。……どうだ、悪い話ではなかろう?」
(王室の宝物庫へのアクセス権……! それは、さらに高額な課金が可能になるってことじゃないか!)
俺は扇の影で、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
お嬢様フィルターは、今や完全に俺の肉体と一体化している。
「いいでしょう。その通行証、ありがたく頂戴いたしますわ。……その代わり、アルベルト殿下。わたくしを退屈させないでくださいませね? 殿下の期待に応えるのは、なかなか高くつきますのよ」
「……ふん。お前のその贅沢が、この国をどこまで塗り替えるのか。……見届けさせてもらおう」
アルベルトの視線は、もはや尋問者のそれではない。自分を驚かせ、翻弄し続けるライラ・クロエラという名の唯一無二の芸術品に、完全に魅了された男の眼差しだった。
※ ※ ※ ※
王宮からクロエラ邸へと戻る馬車の中。俺は、手渡されたばかりの爵位授与証の羊皮紙をじっと見つめていた。そこには、力強い筆致で新たな名が記されている。
『ライラ・ゼーレ・クロエラ』
(……ゼーレ。魂、か。アルベルトの奴、粋な真似をしてくれる。単なる男爵位だけじゃなく、ミドルネームまで公式に認めさせるとはな)
「おめでとうございます、ライラ様。……いえ、これからはライラ・ゼーレ・クロエラ男爵閣下、とお呼びすべきですな」
ノックスが、馬車の揺れに合わせて僅かに身を乗り出し、慇懃に頭を下げる。
「よしてちょうだい、ノックス。呼び方はこれまで通りで構わないわ。……それより、アルベルト殿下のあの顔、ご覧になって? わたくしを鎖に繋いだつもりでしょうけれど、彼がわたくしに与えたのは、宝物庫への『合鍵』ですのよ」
俺は扇をパッと開き、窓の外に流れる王都の景色を眺めた。
男爵。それは貴族としては末席だが、王家直属という肩書きと、この「ゼーレ」の名は、商業ギルドや魔導院において絶対的な「暴力」となる。
「ゼーレの名に相応しい、魂を揺さぶるような贅沢を見せて差し上げなくては。……ふふ、次のドレスには、王家の歴史そのものを縫い込んで差し上げますわ」
(……よし、お嬢様フィルターは完璧だ。実際は、あのアルベルトの獲物を狙うような目が怖くて、心臓がバックバクなんだけど。 でもこれで、さらに素材が買える……!)
屋敷に到着すると、門の前にはすでに商業ギルドの使者が数名、列をなしていた。クロエラ男爵誕生とゼーレの名の報は、王宮の門を出るよりも早く街を駆け巡っていたらしい。
「ライラ閣下! おめでとうございます! ……つきましては、以前お話ししていた新素材の独占契約の件ですが、投資額をあと三万Gほど上乗せしていただければ、王立魔導院との共同開発枠を確保できそうでして!」
ギルドの男が、揉み手をしながら寄ってくる。
「三万G? ……ふふ、端した金を提示して、わたくしを試しているのかしら? 良いでしょう。その開発枠、わたくしがすべて買い取りますわ。……ノックス五万Gを。その代わり、出来上がった素材の第一号は、わたくしの靴一足のためだけに使い切ること。よろしいかしら?」
「ご、五万!? ……は、はい! 喜んで!」
(あ、また五万溶かした。でも、魔導院との共同開発なら、さらにレアな布が手に入るはず……!)
現在の所持金:126,797 G
「ノックス。オーレルの様子はどうかしら? ドレスの完成を待つ間、わたくしの『新しい名前』に相応しい、さらに過激なアクセサリーが必要になってきましたわ」
「心得ております。……ですがライラ様。一つ、耳に入れておくべきことが。先ほどから、屋敷の周囲を影が動いております」
ノックスの瞳が、一瞬だけ鋭い銀色に光った。
「影……?」
「ええ。アルベルト殿下の密偵か、あるいは……あの闇市でお会いした不気味な男の手の者か」
俺は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。貴族という身分と「ゼーレ」の名は、お洒落を加速させるブースターであると同時に、望まぬ外敵を惹きつける餌でもあるらしい。
「……構いませんわ。わたくしを飾るための舞台装置が増えただけのこと。……さあ、ノックス。今夜は祝杯ですわ。最高級のワインを」




