第七話
重厚な扉をくぐると、暖炉に火が入っていて、玄関ホールが温かく光っていた。
(……ただいま)
声には出さなかった。でも、そう思った。ヨルンが俺の外出着を受け取りながら、今日一日の疲れを心配するように顔を覗き込んでくる。ノックスは無言のまま帳簿を閉じ、控えめに一礼した。
応接間のソファに腰を下ろすと、身体の奥底から疲れが滲み出てきた。王都に来てまだ二日しか経っていない。なのに、土地を買い、ギルドで大口を叩き、追放された狂人に九万Gを投資した。
(191,877G)
頭の中に、その数字が焼き付いている。
「ライラ様。本日は大変お疲れ様でございました」
ノックスが静かに一礼した。
「……ノックス。一つだけ聞いてもよろしい?」
「何なりと」
「あなたは、わたくしのやることが、正気だと思いますの?」
ノックスは少し間を置いた。
「正気かどうかは存じません。ただ、美を飾るライラ様は、退屈ではないように見えます」
「そう――」
老執事の口元がほんの僅かに緩んだ。
「ところでノックス、次の予定は何かしら?」
「は。モンド殿の工房への機材搬入の手配、および、素材となる『魔導銀』の調達ルートの確保でございます。……ライラ様、これよりはギルドの枠を超えた、非合法ギリギリの交渉も増えるかと」
ノックスが淡々と告げる。
(非合法ギリギリ、ね。お洒落のためなら、悪役令嬢として闇ルートの一つや二つ、開拓してやるさ)
「ふふ。 穏やかではありませんわね」
俺は背もたれに深く身体を預け、わざとらしく優雅に足を組んだ。50Gの外出着は、シワ一つ寄ることなくその役目を終えようとしている。
「ですが、ノックス。既存の法や常識で測れるものに、わたくしが満足するとお思い?」
「失礼いたしました。主の渇望は、法などという細かな枠組みに収まるものではございませんでしたな」
(でも「非合法」って具体的に何するんだよ。密輸? それとも闇市? 俺にそんなハードなイベント、こなせるのか……?)
期待と不安が、温まった身体の中で微かに火花を散らす。
「それで、その『魔導銀』とやらは、どこに行けば手に入りますの?」
「表の市場では、王立魔導院がその流通を完全に支配しております。ですが……王都の地下、通称『鼠の通り道』と呼ばれる闇競売であれば、話は別でございます」
ノックスは淡々と、だがどこか楽しげに言葉を継いだ。
「明後日の夜、そこで大規模な出品があると聞き及んでおります。もっとも、そこは身分も名誉も通用せぬ、剥き出しの欲望が渦巻く場所。ライラ様、それ相応の覚悟と、そして――」
「そして?」
「何者にも正体を悟らせぬための、特別な仮面が必要かと」
(闇オークション! 仮面! なにそれ、めちゃくちゃイベントっぽいじゃん……!)
俺の心臓が、九万Gを提示した時とは別の高揚で跳ねた。
「いいでしょう。ノックス、その『鼠の通り道』とやらへの招待状、手配しておきなさい。わたくしに相応しい、最高の仮面と共に」
「御意に。……では、今夜はこれにて。明日は、その競売に備え、少しばかり荒事の準備を整えていただきます」
ノックスが深く頭を下げ、音もなく部屋を後にした。一人残された応接間。暖炉の爆ぜる音だけが、静かに響いている。
俺は、誰も見ていないことを確認してから、ふぅー……と大きく息を吐き出した。
(……19万G。闇オークション。今日以上の修羅場が始まりそうだな)
俺は、重くなった瞼を閉じ、銀糸の刺繍が施された袖口をそっと指先でなぞった。
(まず仮面のデザインは、絶対に妥協しないようにしないと)
それが、今夜最後の決意だった。
※ ※ ※ ※
翌朝、目が覚めると同時に、昨夜の「闇オークション」という不穏な単語が脳裏をよぎった。
(……闇市、か。命がけのイベントになりそうだな。しかも魔導銀……王立魔導院が独占してるってことは、正規ルートじゃ手に入らないレア素材ってことだろ)
ふかふかのベッドから身を起こすと、用意されていたのは昨日ミラから買ったあのフォレストグリーンの外出着ではない。マイルームのボックスに秘蔵されてた動きやすさを重視した、上質な鹿革のパンツスタイルと、落ち着いた灰色のチュニックだった。
「ライラ様。本日の準備が整っております」
ヨルンが、いつもより心なしか緊張した面持ちで、サイドボードに一本の剣を置いた。それは、俺がこの世界に来た時に持っていた、あの忌々しくも頼もしい竜鎧と共にあった剣だ。
「……ノックスは?」
「すでに中庭で待機しております。本日は、ライラ様の腕前を確認したいとのことです」
(腕前、ね。アクション要素は苦手なんだけどな)
中庭に降りると、そこにはノックスが一人、冷徹な空気を纏って立っていた。彼の足元には、練習用の木剣が二本。
「ノックス。朝から物騒ですわね。わたくしに、その棒切れを振れとおっしゃるの?」
「左様にございます。闇オークション『鼠の通り道』は、金だけでは渡り歩けぬ場所。不測の事態に、主がご自身で身を守れるかどうか。あるいは、暴漢を黙らせるだけの『威圧』を放てるかどうか。それを見極める必要がございます」
ノックスは無造作に一本の木剣を放り投げた。俺は反射的にそれを受け取る。
(重い。でも、手に馴染む感覚がある。設定されたステータスが身体を動かしてるのか?)
「よろしいでしょう。わたくしの時間を奪うのです。退屈させないでくださる?」
俺は木剣を片手で構え、ノックスを正面から見据えた。
「では、参ります」
次の瞬間、ノックスの姿が消えた――ように見えた。
(速い……っ!?)
風を切る音が左耳を掠める。身体が勝手に反応し、木剣が火花を散らすような勢いでノックスの一撃を弾き返した。
「……。ほう」
ノックスの瞳に、微かな驚きと、そして深い悦びの色が混ざる。
「いい反応です。これならば、荒事の際もただの令嬢として扱われることはないでしょう」
(ひえ~、今の、俺が動かしたのか!? )
俺は、額に浮き出た冷汗を悟られぬよう、不敵な笑みを深く刻んだ。
「当然ですわ。わたくしを誰だと思っているの?」
(実際は、心臓バクバクだけど)
「十分でございます。では、ライラ様。午後からは、闇オークションへの潜入に必要な『仮面』を仕立てに参りましょう。もちろん、ミラ殿の店ではなく、別の裏の知己を頼りますが」
「……裏の仕立屋、ですの?」
俺は木剣をヨルンに預け、乱れた呼気を悟られないよう、ゆっくりと喉を鳴らした。手首に残る痺れが、今の打ち合いが単なる演舞ではなかったことを物語っている。
「左様にございます。ミラの店は、あくまで表の世界の光を形にする場所。ですが、これから我らが向かうのは、光を拒む者たちの領域。そこで必要となるのは、美しさよりも恐怖を纏うための衣でございます」
(裏の仕立屋か……どんな偏屈が出てくるんだ?)
※ ※ ※ ※
馬車は、昨日訪れた職人街とはまた別の、さらに空気の重い一角へと入り込んでいった。道行く人々の視線が鋭い。華やかな馬車の紋章を、敬意ではなく「獲物」を見るような、あるいは「邪魔者」を疎むような目で見つめてくる。
「……ここですな。古着屋『ラザルス』。表向きは死者の遺品を扱う店ですが……」
ノックスに促され、俺は馬車を降りた。カビと埃、そして焦げた魔法薬のような、鼻を突く嫌な匂いが漂っている。
扉を開けると、そこには天井まで積み上げられた服の山。その山の中から、一人の老婆が這い出してきた。蜘蛛のように細長い指。顔の半分を覆う大きなアザ。
「眩しい銀髪のお嬢ちゃんが、この泥溜めに何の用だい?」
「ご機嫌よう、お婆様。わたくし、少々退屈を凌ぐための、特別な遊び着を探しに参りましたの」
俺は、埃っぽい店内の空気に眉をひそめながらも、扇で優雅にその場を制した。
「鼠の通り道を歩くための、誰にもわたくしの正体を悟らせぬ影を。用意してくださるかしら?」
老婆――ラザルスの目が、濁った色から一変、鋭い観察眼へと変わる。
「影、ね。いいだろう。ちょうど、呪い付きの黒衣をバラして作った、最高に不吉な出物がある。あんたのその美貌を、完膚なきまでに殺してやろうじゃないか」
(不吉な出物!? 呪い付き!?大丈夫なのか?)
俺は、不安を押し殺し、不敵な笑みを浮かべた。
「面白いですわ。わたくしをどこまで異形に変えられるか、試してご覧なさい」
(一体いくらするんだろう⋯⋯)
店の奥から、真っ黒な、光を一切反射しないような布が引きずり出されてくる。それは、服というよりは、一つの闇そのものに見えた。
「これが、布ですの? まるで、夜の底を引き摺り出してきたかのようですわね」
差し出されたそれは、重厚なベルベットのようでありながら、羽毛のように軽く、それでいて指先に触れると微かな拒絶反応――魔力の毒のようなピリつきを感じさせた。
「へっ、お目が高いねぇ。これは影縫い蜘蛛の糸を、死刑囚の影で染め上げた代物さ。光を反射しないんじゃない。光を喰らうのさ。あんたのその派手な銀髪も、これに包まれりゃ路地裏の煤溜めと変わらなくなる」
(蜘蛛の糸はわかるとして、死刑囚の影ってなんだよ!)
老婆ラザルスは、蜘蛛のような手際で俺の身体にその布を巻き付けていく。鏡の前に立つと、そこにはライラ・クロエラとしての華やかさが、文字通り塗り潰された異様な姿があった。
「ふふ。いいですわね。わたくしの存在そのものが、この世界の不純物になったかのようですわ」
最後に差し出されたのは、磁器で作られた真っ白な仮面だ。目元だけが鋭く切れ込み、感情の一切を遮断する無機質な造形。
「お代はそうだね、五百G。呪い付きの特別製だよ。あんたの『声』まで少し変えてくれる。正体を隠すには最高だろう?」
「五百G? お婆様、お耳が遠くていらっしゃいますの?」
(五百!?いくらなんでも⋯⋯)
俺は、差し出された真っ黒な布を指先で撥ねのけ、冷ややかな視線を老婆に投げた。
「へっ、何を言いやがる。これは影縫い蜘蛛の糸を、訳ありの魔力で染め上げた特注品なんだよ。光を反射せず、着る者の気配すら希釈する。五百Gなんて破格の……」
「ふふ。馬鹿なことを。確かに面白い素材ですけれど、所詮は古着の寄せ集め。八十G。それ以上は、わたくしの扇の骨一本分にも満たない価値ですわ」
(八十G。ミラから買った五十Gのドレスより少し高い設定だ。これでも十分、この界隈じゃ大金のはずだぞ!)
老婆ラザルスは、蜘蛛のような細い指をピクリと動かし、俺を睨みつけた。
「八十……!? 舐めるんじゃないよ、この小娘が! これ一着で、衛兵の目から一生逃げ切れる代物なんだぞ!」
「あら。では一生逃げ続けるために、わたくしは毎晩これを着て眠れとおっしゃるの? 使い捨ての影に、そこまでの値段はつきませんわ。明日、その役目を終えれば、ただのゴミになるものですの」
俺は優雅に踵を返し、扉へと向かう素振りを見せた。
「ノックス、参りましょう。期待外れでしたわ。この程度の古着に、わたくしの時間を割くのは無駄でした」
「待ちな! ああ、もういいよ! 八十Gだ! 持っていきな!」
(え、まじで!?言ってみるもんだな。このババア、ボッタクリにも程があるだろ!)
俺は、表情一つ変えずにノックスへ顎で指示を出した。八十枚の金貨が、汚れたカウンターにジャラリと積み上がる。
「八十G。これでも、わたくしにとっては些か、気前の良すぎる買い物ですわね」
鏡の前に立ち、手に入れた黒衣を纏う。それは、光を吸い込むような不気味な黒。磁器の白い仮面を被れば、そこにはライラ・クロエラという華やかな個性を完全に殺した、無機質な影が完成していた。
「ふ。悪くありませんわ。ミラの作る服が『光』なら、これは『闇』の機能美というものですわね」
店を出ると、冷たい夜風が外套の裾を揺らした。
(191,797 G。よし、節約成功だ。残った金は、明日の闇オークションの競り合いに全力を注ぐぞ!)
馬車に乗り込む俺の姿を、ノックスが感心したような目で見つめていた。
「ライラ様。交渉術まで、悪役らしくなってこられましたな」
「あら。ただの、無駄遣いを嫌うお嬢様ですわよ、ノックス」
明日の夜。王都の地下で魔導銀を巡る、剥き出しの欲望の場。俺はこの『影』を纏い、最高にスマートに立ち回ってみせる。




