第六話
馬車が屋敷へ向けて走り出すと同時に、ノックスは懐から一枚の書状を取り出した。そこには、先ほどギルドで掲げた再現計画の概算費用が、恐ろしいほど整然とした数字で並んでいた。
「ライラ様。先ほどゴドウィンに提示した事業、その初期投資の試算でございます」
俺は、窓の外を眺める余裕を装いながら、横目でその紙面を覗き込んだ。
「……っ!?」
心臓が、物理的に跳ねた。視界に飛び込んできたのは、合計額90,000 Gという、およそ「買い物」の範疇を逸脱した数字だ。
(きゅ、九万!? 土地一軒が六百Gだったよな? なんで!? 工房建てるのに二万五千、偏屈な学者を雇うのに一万五千……おい、これ、俺の全財産の四割が消える計算だぞ!?)
温まりかけていた胃の底が、今度は別の意味で冷たく冷え切っていく。22万G。さっきまでは一生遊んで暮らせる無敵の軍資金だと思っていたそれが、急に心許ない、砂の城のように見えてきた。
「……ノックス。これは、少々、大胆な数字ですわね」
(大胆どころじゃないよ!)
「お言葉ながら、ライラ様。主が求めておられるのは、この世界の限界を超えた『美』。そのための苗床を作るには、これでも控えめな数字かと」
ノックスの眼鏡の奥の瞳が、試すように俺を射抜く。俺は、震えそうになる指先をドレスの襞に隠し、最高に不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ふふ。ノックス。わたくしの退屈を埋めるための授業料としては、些か、慎ましすぎますこと」
(… 九万Gを慎ましすぎとか言っちゃったよ、この口! 俺のバカ!)
「畏まりました。さすがは我が主。……では、この九万Gを血液として、王都の技術を強制的に進化させるといたしましょう。独占権さえ握れば、数年後にはこの十倍の金貨が、主のクローゼットを埋め尽くすことになります」
ノックスが満足げに深く頭を下げる。
だが、俺の耳にはその言葉は半分も入っていなかった。
(あと、十三万G。ドレス四百着分。……いや、もし開発に失敗したら? 納期が遅れたら? ひえ〜)
「それと、ライラ様。九万Gの主な使い道の一つ、技術顧問についてでございますが」
ノックスが羊皮紙を一枚追加で取り出した。
「王立魔導院を追放された研究者、オーレル・モンドという男がございます。光の固定化という、院が百年かけて諦めた研究を、たった一人で続けている狂人でございます」
(……狂人ね)
夕闇に沈む王都の街並みが、今は巨大な集金マシーンのように見えてくる。
俺は、冷や汗で少しだけ重くなった背中をソファに預け、決して悟られぬよう、静かに、深く、ため息を飲み込んだ。
(九万G……)
馬車が屋敷へ向かう中、ノックスが提示した試算表の末尾にある数字は、揺るぎない現実としてそこに記されていた。土地代の百五十倍。それが、失われた技術をこの街に再興させるための対価だ。
俺は窓の外を眺め、徐々に街並みの彩度が落ちていく様子を見つめていた。これから向かうのは、王都の華やかさとは無縁の職人街、あるいはその先の澱みだ。
「ノックス。行き先を変更してくださる? 」
今の紺碧のドレスは、至高ではあるが、泥にまみれる探索には向かない。状況に合わせた適した装いが必要だ。
「御意に。お供いたしましょう」
※ ※ ※ ※
再び訪れた仕立屋。カウベルが鳴ると同時に、カウンターの奥からミラが顔を出した。
「いらっしゃいませー! ……って、ええっ!? ライラさん!?」
ミラは驚きで目を丸くし、慌てて駆け寄ってきた。
「昨日お別れしたばかりじゃないですか! もしかして、もうそのドレスに何かあったんですか!?」
ミラは慌てて俺の周囲を回り、隅々まで点検し始める。一通り点検し、安心したのか腰に手を当て、ふぅっと大きく息を吐いた。
「ご安心なさい、ミラさん。ドレスは無事ですわ。ただ、これから少しばかり足元の悪い場所へ赴かなければなりませんの。」
「ええっ、スラムの方へ行くんですか!? そのドレスじゃ無理ですよ!」
「ええ。ですから、わたくしの格を損なわず、それでいて、多少の無作法を許容してくれる一着を選んでくださる?」
「ライラさん⋯⋯見かけによらずアクティブすぎ。でも、いいですよ! ちょうど、そんな状況にぴったりなのが一着だけあるんです」
ミラが奥から持ってきたのは、深い森の静寂を閉じ込めたような、フォレストグリーンの外出着だった。
「これ、北方の貴族が使う丈夫な生地なんです。銀糸の刺繍も撥水加工がしてあるから、泥が跳ねてもすぐ落ちますよ。なにより、今のライラさんのやる気満々な目に、最高に似合うと思うので!」
試着室で着替えを済ませ、背中のボタンをミラに留めてもらう。その手際は、相変わらず迷いがない。
「50Gになります。結構いいお値段なんですけど⋯⋯」
鏡の前に立つ。濃緑の生地が銀髪を鮮烈に引き立て、清楚でありながら、どこか軍服のような凛とした強さが宿っていた。
「ええ。安いものですわ。あなたの熱意への対価としては!」
「わぁ! ライラさん、本当にかっこいい!」
支払いを済ませ、店を出る。ミラは扉のところまでついてきて、威勢よく手を振った。
「ライラさん!生きて帰ってきてくださいね! 次はもっとすごいの、用意して待ってますから!」
「……ええ、またお邪魔しますわ。ミラさん」
ミラの明るい声に背中を押され、俺は再び馬車へ乗り込んだ。行き先は、職人街のどん詰まり。オーレル・モンドの工房は、もうすぐそこだ。
※ ※ ※ ※
馬車が揺れるたび、新しいフォレストグリーンの生地がかすかに擦れる音がする。ミラの言った通り、この服は驚くほど身体に馴染み、それでいて芯の通った強さを俺に与えてくれる気がした。
だが、馬車の窓から見える景色は、中心街の華やかさを脱ぎ捨て、徐々に色を失っていく。石炭の煤に汚れ、湿り気を帯びたレンガ造りの建物が並ぶ職人街。そのさらに奥、日の光さえ届かないような路地の突き当たりに、その建物はあった。
「……ここですな。オーレル・モンドの工房……いえ、ゴミ溜めというべきか」
ノックスが指差した先には、歪な看板が力なく掲げられた、今にも崩れそうな工房があった。扉の隙間からは、怪しげな紫色の煙と、時折バチバチという不穏な火花が漏れ出している。
馬車のステップを降り、俺は一歩、湿った地面を踏みしめた。
「ノックス。案内してくださる?」
「御意に」
ノックスが重い鉄の扉を叩こうとした瞬間、中から腹に響くような怒鳴り声が響いた。
「帰れと言ったはずだギルドの犬ども! 影の彩度を固定する大事な瞬間なんだよ! 邪魔をするならその薄汚い足を魔力の触媒にして煮込んでやる!」
直後、扉が勢いよく開き、中から煤で汚れた白衣を纏った男が飛び出してきた。鳥の巣のような茶髪を掻きむしり、眼窩の窪んだ鋭い瞳が俺たちを射抜く。
彼こそが、王立魔導院を追放された異端児、オーレル・モンド。
「ごめんあそばせ。あいにくですが、わたくしは犬を連れて歩く趣味はございませんわ。ノックス、この方に教えて差し上げて?」
「は。モンド殿、言葉に気を付けたまえ。貴殿のこれからの人生を、金貨で埋め尽くすか、あるいは路地裏の塵とするかを決めるお方がお見えなのだ」
ノックスが冷徹に言い放つ。俺は扇をゆっくりと広げ、散らかった工房の中に転がっている、歪に光るガラスの破片を見つめた。
「オーレル・モンド。あなたの固定しようとしているその彩度。わたくしのドレスを飾るには、少しばかり……暗すぎますわね」
モンドの動きが、ぴたりと止まった。彼は鼻を鳴らし、俺の着ているフォレストグリーンの外出着を、上から下まで、舐めるように見つめる。
「……ほう。撥水魔術を組み込んだ銀糸か。ミラの小娘の仕業だな。だが、その色の深み……今の王都にある染料じゃ出せねえはずだ」
「あら、お目が高いことですわね」
(よし、食いついた! さすがは光の職人だ。ミラのこだわりを見抜くか)
「……いいだろう。中に入れ。ただし、俺の機材に触れたら、その指を一本ずつ光分解してやるからな」
男は吐き捨てるように言うと、背を向けて薄暗い工房の奥へと消えていった。俺はノックスと目配せをし、意を決してゴミ溜めへと足を踏み入れた。
工房の中は、外観以上のカオスだった。天井からは正体不明の結晶体が吊るされ、作業台の上には分解された魔道具の残骸が転がっている。
(本当にゴミ屋敷だな)
オーレルは、そんなガラクタの山を器用に避け、部屋の奥にある巨大なレンズが備え付けられた装置の前にどっかと座り込んだ。
「オーレル・モンド。わたくし、立ち話をするために、このような場所まで参ったわけではなくてよ」
俺は、埃を避けるように扇で口元を覆いながら、毅然とした態度を保った。50Gの外出着の裾が汚れないよう、意識的に背筋を伸ばす。
「ケッ、貴族の姉ちゃんが何の用だ。そのミラの服を自慢しに来たんなら、もう十分見たぜ。さっさと帰って、お茶会でもやってな」
「お茶会? いいえ、わたくしが求めているのは、もっと刺激的なものですわ。例えば、月光そのものを糸にして織り上げた布とか」
モンドの手が、一瞬、止まった。彼はゆっくりと振り返り、濁った瞳を細めて俺を凝視する。
「月光を、糸にするだと? フン、寝言は寝て言え。光は物質じゃねえ。屈折させ、反射させることはできても、形を固定して布にするなんてのは、魔導院の老いぼれ共が百年かけても諦めた夢だぞ」
「だからこそ、あなたに声をかけたのですわ。魔導院を追い出され、この泥の中で、一人『光の真理』を追い求めている、狂った貴方に」
(よし、煽りは完璧。次は、本題だ)
俺はノックスに目配せをした。ノックスは無言で、懐から一通の書面……先ほどの「九万Gの試算表」とは別の、特別な契約書を取り出した。
「九万G。それが、わたくしがあなたの狂気に投資する最初の金額ですわ」
「……な、……っ!? きゅ、九万だと!?」
モンドが椅子から転げ落ちそうになる。
「工房の最新鋭化、素材の調達、そしてあなたの生活保障。全て、わたくしが持ちますわ。その代わり、わたくしに献じなさい。この世界の誰も見たことがない、至高の光を」
ノックスが差し出した試算表を、オーレルはひったくるように受け取った。だが、そこに並んだ数字の羅列を目にした瞬間、彼の顔から血の気が引き、紙を持つ指が目に見えて震え始めた。
「……っ!? おい、これ、正気か?」
オーレルの声が裏返る。彼は何度も目をこすり、桁を数え直した。
「九、九万……? 冗談じゃねえ、これだけありゃ、王都の目抜き通りに一等地が買える。魔導院の十人委員会が一年で使い潰す予算より多いぞ! ……こんな額、俺みたいな人間に預けてどうするつもりだ!」
(俺も馬車の中で『ひえ~』ってなったしな)
オーレルは椅子から立ち上がり、後ずさりしながら首を横に振った。
「……無理だ。返してやる。こんな大金、もし失敗した時にどう責任を取ればいい? 俺の命を差し出したって、お釣りも来ねえ。……あんた、頭がどうかしてるぜ」
俺は、冷え切った工房の床を、わざと音を立てて一歩踏み出した。
「ふふ。オーレル・モンド。わたくし、あなたのことを光の真理を追う狂人だと聞き及んでおりましたけれど。案外、慎ましすぎる方なんですのね」
「……なんだと?」
「失敗を恐れて、金貨の重さに膝を屈する。そんな臆病な感性で、よくもまあ月光を織る、などという傲慢な夢を見られたものですわ。わたくし、少々、ガッカリいたしました」
俺は扇で口元を隠し、冷ややかな、それでいて相手を芯から見下すような視線を向けた。
「この九万Gは、あなたの責任の代価ではありません。わたくしの『退屈』を埋め、わたくしの『美学』を形にするためのただの、素材代ですわ」
「そ、素材代だと……!?」
「ええ。素材を買うのに、失敗のリスクなど考えまして? 使えない素材なら捨て、次を買う。それだけのこと。あなたの価値は、その九万Gを使い切った先に、何を残せるか、ただ一点にしかございませんの」
(実は全財産の四割が消える超ハイリスク投資だけど⋯⋯お嬢様フィルターを通せば『たかが素材代』に変換される)
オーレルの顔が、屈辱と、そして名状しがたい高揚感で赤く染まっていく。
「それとも、オーレル・モンド。あなたは、この金貨の山を抱えて一生、この泥の中で、手が届かなかった光の思い出に浸って死ぬおつもり?」
「……っ、ふざけるな!」
オーレルが、テーブルを叩いて叫んだ。
「やってやるよ! 失敗して、あんたが破産しようが首を括ろうが、俺の知ったことじゃねえ! 九万G分、この世の物理法則をひっくり返して、あんたのクローゼットを光で埋め尽くしてやる!」
「ふふ。それでこそ、わたくしが選んだ道具ですわ」
俺は、泥で汚れた作業台の上に、ノックスから受け取った前払い金の3万Gを音を立てて置いた。




