第五話
暖炉の火を見つめながら、俺はソファの肘掛けをそっと撫でた。土地は手に入った。拠点も確保した。だが、ふと脳裏をよぎった計算が、温まりかけた胃の底を冷たく冷やした。
(……待てよ。22万G。これ、本当に足りるのか?)
ノックスは一国の国家予算だの王都の半分が買えるだのと仰々しく言っていた。だが、それはあくまで普通に生きて、普通に軍隊を動かす場合の話だ。
俺がやろうとしているのは、そんな普通のことじゃない。俺がやりたいのは、この広大な屋敷を、ゲーム時代に妥協して選んだそこそこの家具ではなく、この世界の最高級品で埋め尽くすこと。そして、季節ごとに、あるいは気分ごとに、ミラの店に卸された300Gのドレスを、何十着、何百着と揃え続けることだ。
(ドレス一着で300G。100着買ったら3万Gだろ? 予備の靴やアクセサリー、宝飾品、さらにこの屋敷の維持費、ヨルンたちの給料、税金……)
頭の中でそろばんを弾く。お洒落勢にとっての装備品は、実用性ではなく「美」という底なしの沼だ。限定品、一点物、伝説の素材。そんな言葉が並び始めたら、22万Gなんて、あっという間に溶けてなくなるはした金に変わる。
「ライラ様? 眉間に皺が寄っておりますわ。もしや、お身体の具合が……」
ヨルンが心配そうに顔を覗き込んでくる。俺は咄嗟に表情をお嬢様へと固定した。
「いえ。ただ、少しばかり現実的なことを考えていただけですわ」
「現実的なこと、でございますか?」
「ええ。ノックス。先程、あなたは私の資産を『底知れぬ』と評しましたけれど。……富というのは、注ぎ込む先を間違えれば、砂漠に撒いた水のように消えてしまうものですわ」
ノックスが、意外そうに眼鏡の縁を上げた。
「左様でございますな。主の仰る通り、維持と浪費は紙一重。して、ライラ様。具体的にどのような懸念を?」
「この屋敷に相応しい装飾。そして、わたくしの身に纏うもの。妥協を許さぬ『美』を追求すれば、今の蓄えなど、ひとたまりもありませんわ」
「……なるほど。単なる支配者ではなく、究極の審美眼をお持ちであるがゆえの懸念、というわけですな。失礼いたしました」
ノックスが深く、今度は経済的な敬意を込めて一礼した。
「では、ライラ様。単に溜め込むだけでなく、この王都で資産を増やす仕組みを構築する必要がございますな」
(増やす? 投資か? 商売か? それとも、また誰かから分捕るのか?)
「わたくしに、相応しい方法を提示してくださるかしら?」
「もちろんでございます。幸い、この屋敷の立地と、ライラ様のその美貌……。これらを利用すれば、王都の金回りを掌握するのも、そう遠い話ではございませんわ」
(なんか、話がどんどん大きくなってないか!? 俺はただ、一生お洒落して引きこもりたいだけなんだけど⋯⋯)
窓の外、夜の帳が降りた王都を見下ろしながら、俺は自分のお洒落ライフを維持するための、壮大なマネーゲームの予感に身震いした。
※ ※ ※ ※
翌朝、俺は鏡の前で、ヨルンが丁寧に整えてくれた銀髪の輝きを確認した。纏っているのは、あのミラ謹製の300Gのドレス。だが、昨日の逃走劇の時とは違う。今は首元に、マイルームのストレージから引っ張り出した「気休め」程度の真珠のネックレスが光っている。
(この世界だと、一体いくらの価値がつくんだか)
「準備はよろしいですか、ライラ様。馬車の手配も完了しております」
ノックスが、影のように背後に立った。
「ええ。行きましょう。この街の血液が、どこに流れているのか、確かめておきたいものですわ」
(よし、お嬢様フィルターは今日も絶好調だ)
屋敷の前に止まっていたのは、ノックスがどこからか工面してきた、黒塗りのシックな馬車。ヴァルト子爵から奪い取った……いや、買い取った土地を滑るように進み、俺たちは王都の中心部、巨大な石造りの塔がそびえ立つ商業ギルド本部へと向かった。
馬車の扉が開いた瞬間、周囲の視線が突き刺さる。
王都の商人、護衛の冒険者、着飾った貴族の使い。その誰もが、馬車から降り立った銀髪の美女と、その背後に控える隙のない老執事の姿に、一瞬で言葉を失う。
(うわっ、人がいっぱいだ)
「……。……歩きにくいですわね。ノックス、道を開けてくださる?」
「御意に。道を開けよ。ライラ・クロエラ様のお通りである」
ノックスの低く、刃物のような鋭さを秘めた声が響く。重厚な油の中に熱した鉄を落としたかのように、 密度の高かった群衆がじわりと、それでいて逆らえぬ力に抗うように左右へと割れていった。
俺はその真ん中を、心臓をバクバクさせながらも、最高に冷ややかな微笑を湛えて歩き出した。300Gの紺碧が、石畳の上で鮮やかに翻る。
商業ギルドの受付は、一転して混乱の渦に飲み込まれようとしていた。
「ご、ご用件をお伺いしても、よろしいでしょうか、お嬢様」
震える声で尋ねる受付嬢に、俺はノックスに視線だけで合図を送った。
「主は、この街における至高の素材と揺るぎなき商流を求めておいでだ。……ギルド長、あるいはそれに準ずる責任者を出していただけるかな? ライラ様の貴重な一秒を、端金のように浪費させたくはないのでね」
ノックスがそう言って、カウンターに挨拶代わりの金貨を一枚、指先で弾いた。その清冽な音と、俺が纏うドレスの圧倒的な実在感。
(言われるがままついてきたけど、ノックスの奴何を始める気なんだ?)
「し、失礼いたしました! すぐに、副ギルド長を呼んでまいりますので、あちらの応接室へ!」
鼻をつく羊皮紙とインクの匂い、そして金貨を数える無機質な音が響くギルドの喧騒を抜け、俺たちは厚い絨毯の敷かれた特別室へと通された。
(よし、とりあえず座れた。あとはノックス、お前に任せたぞ。俺は、この高い椅子の座り心地を確認する仕事に専念するからな)
俺は、ヨルンに促されるまま、部屋の中央にある最も豪奢な肘掛け椅子に深く腰を下ろした。背筋を伸ばし、扇をゆっくりと動かしながら、視線を虚空へと向ける。お嬢様フィルターが、俺の人見知りの沈黙を退屈な王者の余裕へと変換してくれている。
やがて、扉が開いた。現れたのは、脂の乗った体躯を高級そうな毛織物に包んだ、初老の男だ。その瞳は、獲物を値踏みする商人のそれだが、俺を一目見た瞬間、その眼光が驚愕に揺れた。
「これはこれは……。私は当ギルドの副ギルド長、ゴドウィンと申します。お噂は、昨夜のうちに聞き及んでおります。ヴァルト子爵からあの、不毛の高台を、金貨六百枚で即決された銀髪の令嬢。まさか、これほどのお方とは」
ゴドウィンが俺に向かって深く頭を下げる。だが、俺は答えない。ただ、一瞥をくれただけで、視線を再び窓の外へと戻した。
代わって、一歩前に出たのはノックスだ。その立ち居振る舞いだけで、部屋の空気が張り詰めた。
「挨拶は結構。副ギルド長殿、主は極めて多忙であり、同時に極めて退屈を嫌っておいでだ」
ノックスの声は、冷徹な刃のようにゴドウィンの言葉を切り捨てた。
「我が主、ライラ・クロエラ様が本日ここへお運びいただいたのは、この王都の商業ギルドが……主の渇きを癒せるほどの価値を有しているか、その一点を見極めるためである」
「は、はあ。価値、と申されますと……」
「至高の素材。そして、それを形にできる唯一無二の職人。主が求めておられるのは、単なる商品ではない。この世界の調和を乱さぬ程度の『美』だ」
ノックスは、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机に滑らせた。そこには、俺が今朝、適当に思い浮かべたゲーム内の希少素材リストが、ノックスの端正な筆致で書き連ねられている。
「例えば……『月光を織り込んだ蜘蛛の糸』。あるいは、『深海の魔石で染めた極細絹』。……ギルド長、これらを用意するのに、まさか数ヶ月も要するとは言わせないでいただきたい。ライラ様がこの椅子に座っておられる一分一秒は、貴公が一生をかけて稼ぐ金貨よりも重いのだから」
(……ノックス、お前、めちゃくちゃ言うな!? )
内心で冷や汗を流す俺を余所に、ゴドウィンの額からは本物の汗が滴り落ちていた。彼は震える手で羊皮紙を手に取り、そのあり得ないリストの内容に絶句している。
「こ、これは……。伝説に聞くような品ばかり。しかし、これほどのご要望に応えるとなれば、当ギルドとしても相応の誠意を示していただかねば――」
「誠意、か」
ノックスが、俺の傍らに置いてあったポーチを、無造作に、だが確実な重みを伴ってテーブルに置いた。
ズシン、 という音が、ゴドウィンの言葉を物理的に封じ込める。
「主にとって、金銭とは『美』を飾るための最低限の端金に過ぎない。……貴公がその誠意に応える準備があるというのなら、我々もまた、ギルドの金庫を溢れさせる程度の用意はある」
俺は、扇をパチンと閉じた。
それが、この対話の終わりを告げる合図だ。
(よし、今のタイミング、完璧だった)
だが、ゴドウィンの反応は、俺が期待していたひれ伏して差し出すようなものではなかった。彼は何度も羊皮紙を読み返し、顔を青くしたり赤くしたりした後、絞り出すような声で言った。
「……お恥ずかしながら、王都最大のギルドと言えど、存在せぬものを売ることは叶いませぬ」
ゴドウィンのその言葉が、静かな応接室に虚しく響いた。
(は? 無い? 王都一のギルドが在庫切れどころか存在しないって言いきったぞ。おい、これ、俺がマイルームに飾ってたあのコレクション、この世界じゃ伝説どころか空想扱いなのかよ)
沈黙。
ノックスが眼鏡の縁を指でなぞる。その静かな動作が、今は酷く不穏に感じられた。
(詰んだ。金は腐るほどあるのに、買いたいものがこの世に存在しない。お洒落勢にとって、これ以上の絶望があるか?)
「……。ノックス」
俺は窓の外を眺めたまま、静かに口を開いた。声は、自分でも驚くほど冷えていた。
「は。主よ、何なりと」
「この街には、夢を見せる力すら残っておりませんのね。わたくし、ひどく失望いたしましたわ」
(使えねーな。はこう翻訳されるのか!)
「副ギルド長。主の落胆を、重く受け止めるがいい」
ノックスがゴドウィンを射抜くような視線で威嚇する。ゴドウィンは椅子の端で小さくなっていた。
「ですが、ライラ様。手に入らないのであれば、この地に根付かせてしまえばよろしいのでは?」
(根付かせる? 何を?)
「副ギルド長。我が主は慈悲深いお方だ。貴殿らが存在しないと断じたその素材を、この王都で再現するための、あらゆる支援を惜しまぬとおっしゃっている」
「 再現、でございますか?」
ノックスが、机の上に再び一枚の羊皮紙を叩きつけた。
「月光を織る技術が失われたなら、その魔導具を復元させるための工房を建て、国中の学徒を呼び寄せよ。深海の魔石が手に入らぬなら、その採取を可能にする魔導船の開発に、我が主の資産を投じよう。……もちろん、その特許と独占販売権は、すべてライラ・クロエラ様が握ることになるがな」
(……ちょっと待てノックス。話がデカすぎる。俺、ただの服好きだよ!? なんで王都の産業革命を主導するパトロンみたいになってるんだ!?)
ゴドウィンが目を見開いた。その顔に、商人の強欲な光が戻ってくる。
「……っ、投資、ということでございますか!? それも、王都の技術そのものを底上げするほどの……!」
「主が求めておられるのは、ただ一つの『美』。そのための手段として、この街の文明が未熟だと言うのなら、それを引き上げるだけのこと。……ライラ様、よろしいですな?」
俺は、ゆっくりと扇を閉じた。
(もう、どうにでもなれ!)
「わたくしを、これ以上退屈させないでくださるかしら? ……欲しいものが無いのなら、わたくしがこの世界を塗り替えて差し上げますわ」
「……。……。承知いたしました! ライラ様! ギルドの総力を挙げ、最高の技術者と魔法使いを招集いたします!」
ギルドを後にし、馬車に乗り込んだ瞬間。
俺はソファに深々と体を沈める。
(……22万G。一気に溶けそうな予感がする。……でも、これでこの街の『流行』は俺が握ったも同然だ。俺の好きな服が作れない世界なら、作れる世界に変えてやる)
窓の外、夕暮れに染まる王都を見下ろしながら、俺は本当の意味で「この世界のルール」を、金の暴力でぶち壊す覚悟を決めた。




