第四話
重厚な黒檀の扉をくぐると、そこには見慣れたはずの光景が、圧倒的な質量を伴って広がっていた。
(……本当に、全部ある)
画面をスクロールして眺めていた壁紙の細かな唐草模様も、配置したアンティークの暖炉も。今はただのデータではなく、手を伸ばせば触れられる、確かな物質としてそこにある。
ヨルンが慣れた手つきで暖炉に火を入れ、ノックスが静かに応接間の椅子へと私を促した。最高級の牛革を張った一人掛けのソファ。腰を下ろすと、吸い込まれるように深く沈み込んだ。そのあまりの柔らかさに、慣れないドレスで強張っていた身体の芯が、ふっと軽くなる。
「少々お待ちくださいませ、ライラ様。すぐにお茶を淹れてまいります!」
ノックスは影のように部屋の隅に控え、ヨルンの足音が遠ざかると、部屋に濃密な静寂が満ちた。
暖炉の薪がパチパチとはぜる規則正しい音だけが、広い部屋に寂寥を連れてくる。窓の外では、王都の空が燃えるような朱から、深い藍色へと溶け落ちようとしていた。
「お待たせいたしました!」
戻ってきたヨルンが、白磁のカップを差し出す。琥珀色の液体から、花のような、あるいは熟した果実のような芳醇な香りが立ち上った。
「……ありがとうございますわ。いただきます」
指先に伝わる、カップの確かな熱。
一口、喉を通す。
(……熱い。そして、甘い。ほんの少しだけ、心地よい渋みがある。ちゃんと、味がするんだ……)
それはあまりにも当たり前で、けれど決定的な一撃だった。川に落ちた時の肺を刺す冷たさ。アルベルトの冷徹な眼差し。ミラの店の絹の感触。ノックスの指の硬さ。夢にしては、これらはあまりに鮮明で、あまりに痛すぎた。
(夢じゃない。……もう、認めなきゃいけないんだな。俺は、本当にここにいるんだ)
ソーサーにカップを戻す音が、静かな部屋にカチリと響く。ふと視線を上げると、暗くなった窓ガラスに、夜の闇を背景にした、ライラ・クロエラの姿が映っていた。
冷たい瞳をした、この世のものとは思えないほど美しい銀髪の女性。それが自分の動かしている「肉体」なのだという現実に、眩暈がする。
「……ライラ様? お顔色が優れませんわ。もしや、お疲れで……」
ヨルンが不安そうに顔を覗き込んできた。その瞳には、プログラムにはない慈しみが宿っている。
「……なんでもありませんわ。ただ、少しこの火を眺めていたかっただけですの」
(嘘だ。全然なんでもなくない。……でも今は、これ以上考えたら、自分を保てなくなりそうだ)
私はお茶の湯気の向こう側、揺らめく炎を見つめながら、自分がかつて「ぬしぽん」と呼ばれていた世界の記憶を、そっと心の奥底へ押し込んだ。
※ ※ ※ ※
最初に意識に滑り込んできたのは、肌を撫でる極上の感触だった。現実の安アパートの使い古した綿とは違う、絹のような滑らかさを湛えたシーツ。次いで、遠くで囀る小鳥の声が、高い天井に反響して届く。
(ああ、そうか。やっぱり、夢じゃなかったんだな)
目を開けるより先に、昨日の記憶が脳内にロードされる。
「ライラ様。朝でございますよ。お目覚めくださいませ」
柔らかな声と共に、重厚なベルベットのカーテンが引かれる乾いた音がした。瞼の裏に鋭い朝の光が差し込み、俺はゆっくりと重い腰を上げた。
「おはようございます、ライラ様! よくお眠りになれましたか?」
ヨルンが、眩しいほどの笑顔でベッドサイドに立っていた。その手には、銀のトレー。湯気を立てるコンソメスープに、焼き立てのパン。そして宝石のように瑞々しい果物の盛り合わせ。
「おはようございますわ。よく眠れましたことよ」
身を起こし、シーツの上に投げ出された自分の手を見つめる。
(やっぱり、細い。そして、白いな……)
昨夜も嫌というほど確認したはずなのに、朝の光の下で見ると、その指の長さや、手入れの行き届いた爪の光沢に、また脳がバグを起こしそうになる。鏡の中では、銀白の長い髪が野生の藤のように枕一面に散らばっていた。
ヨルンに手伝われながら朝食を口にする。改めて見回したこの寝室は、天蓋付きのベッドから壁一面の本棚に至るまで、俺が「雰囲気重視」で配置した家具ばかりだ。
(でも、実際に住んでみると、動線も完璧だし居心地最高だな。俺インテリアの天才か?)
そんな自画自賛をスパイスに、温かいスープを一口。絶妙な塩気が、眠っていた意識をライラ・クロエラとして覚醒させていく。
「……ノックスは、どちらに?」
「既に一階の書斎でお待ちでございます。今朝の土地交渉に向けて、王都の法典と地主の家系図を洗っておられるようで」
(資料作成に法典チェック? あの老執事、いつ寝てるんだよ。いや、こいつらNPCだから、そもそも睡眠の設定なんて無かったっけ?)
そんなメタな疑問を抱きつつも、俺は最後の一口のパンを飲み込んだ。一階へ降りれば、そこには「不法占拠」という名の現実が待ち構えている。
(さて。このドレスで、どこまで押し通せるか)
一階の書斎に下りると、ノックスが重厚な机の前に微動だにせず立っていた。机上には、羽根ペンと羊皮紙、そして几帳面に分類された数枚のメモが整然と並んでいる。
「おはようございます、ライラ様。昨夜のうちに、この界隈の土地相場と権利関係の洗出しを完了させておきました」
「……いつ、そのような調査をなさいましたの?」
「夜風に当たりがてら、少々。ヴァルト子爵――昨日、無作法に現れた御仁の爵位でございます。土地の所有地ですが、ここは王都外縁の高台ゆえ、相場は平地より二割ほど高値で推移しております。……ですが、面白いことに、この区画は長らく空き地として放置されており、子爵は中央への税罰金の支払いに相当難儀している様子が見受けられます」
ノックスの言葉が右から左へと抜けていく。彼が悪いわけではない。俺がこういった事に関して詳しくないせいだ。だが、多少は理解するべきだろう。
「つまり、どういうことですの?」
「喉から手が出るほど、この土地を現金化したがっている……ということでございます」
書類を見つめながら、ノックスは口元を緩めた。しかし、すぐに表情を引き締め言葉を繋げる。
「ただし、相手は腐っても貴族。最初は必ず、法外な値をふっかけてまいるでしょう」
「その時は、どう対処すればよろしくて?」
「ライラ様は、ただ悠然と椅子に深く腰掛け、沈黙を守っていただければ結構でございます。交渉の泥臭い部分は、私めにお任せを」
(俺、座ってるだけでいいのか。逆に緊張するな)
「ただ……」
ノックスが眼鏡の奥の鋭い双眸を細めた。
「もし、相手が主に対して分不相応な無礼を働いた際……その時だけは、一言。いつものように、気高く、烈火のごとく一喝していただければと存じます」
(いつものように……か。よし、それなら任せろ。このお節介な自動翻訳フィルターなら、相手が泣き出すレベルの毒舌を吐いてくれるはずだ)
「承知いたしましたわ。ノックス。わたくしを、退屈させないでくださるかしら?」
「御意に」
外から、荒々しい馬の蹄音が近づいてくる。
土地の持ち主、ヴァルト子爵の再来だ。
※ ※ ※ ※
「開けろ! ヴァルト子爵家の者だ!」
静寂を切り裂く怒号に、ヨルンが不安げにこちらを見た。ノックスは既に、何事もないような所作で扉へと歩を進めている。
「応接間へどうぞ。主がお待ちです」
ノックスの案内で、ヴァルト子爵が土足に近い勢いで踏み込んできた。彼は自分の屋敷であるかのような不遜な態度で、最高級の革椅子にどっかりと腰を下ろす。室内を、まるで盗賊が獲物を物色するように見回し、鼻で笑った。
「ほう……平民の分際で、随分と大層な屋敷を拵えたものだな」
俺は正面の椅子に、音もなく腰を下ろした。背筋を真っ直ぐに伸ばし、指先を膝の上で優雅に重ねる。表情の一つも動かさず、ただ静かに相手を見据えた。
「昨夜は急なことゆえ金貨で煙に巻かれたが、よく考えれば我が一族の土地に無断で城を築いたのだ。相応の賠償を要求する権利がこちらにはある」
「建造物の所有権と占有権については、王都の現行法において――」
「黙れ、老いぼれ」
ノックスの言葉を、子爵は汚らわしい虫でも払うかのように手で遮った。
「お前の屁理屈など聞いていない。俺は、その小娘に話しかけているのだ」
ぎらついた視線が、俺に向けられる。
「どうだ、嬢ちゃん。人の土地に居座っておいて、随分と図々しい真似をしてくれたな。この件、穏便に済ませたければ……まず土下座から始めてもらおうか。それから賠償金として、そうだな、五千Gほど頂こうか」
嘲笑うように、彼は続けた。
「……まあ、お前にそれだけの金が払えるならの話だがな!」
部屋が、凍りついたような静寂に包まれた。
暖炉の薪がパチリとはぜる音さえ、今は爆音のように響く。
(この男。俺の屋敷に乗り込んできて、俺が配置した椅子に座って、俺に土下座しろと言ったのか?)
「……少々、よろしいかしら」
声は、自分でも驚くほど静かだった。だがその一言で、子爵の薄汚い笑いが、仮面のように固まった。
「わたくしの家令に黙れとおっしゃいましたの?」
「……なんだと?」
「ノックスはわたくしの誇り、わたくしの家令ですわ。彼への無礼は、わたくしへの宣戦布告と同義。……それをご理解の上で、その浅ましい口をお開きになりましたの?」
子爵の顔から、急速に血の気が引いていく。だが、彼はまだ引こうとしない。
「平民風情が生意気な――」
「それから」
俺は、彼の言葉を冷たく断ち切った。
「あなたが今、汚れた靴で踏みにじったその絨毯。一枚で八百Gいたしますの。そしてその椅子。あなたが座ったことで価値が損なわれましたわ。……土下座をお求めになる前に、まずご自身がどちらの慈悲によって資産の上に座らせていただいているのか、ご確認なさいませんこと?」
俺は腰のポーチを、無造作にテーブルへ置いた。
ドサリと、硬貨が詰まった重厚な音が、部屋の空気を物理的に押し潰した。
「五千G。……ええ、今すぐここでお支払いできますわ。賠償金としてでも、あなたの飲み代としてでも。ですが、その前に一つだけ確認させてくださいませんこと?」
俺は、ノックスから渡された「弱み」を、優雅に突きつけた。
「十二年間放置し、税の滞納で王都から度重なる督促を受け続けているその土地を。……わたくしが正式に買い取って差し上げると申し上げているのですわ。相場の二割増しの、金貨で」
ノックスが、完成された契約書を静かにテーブルへ滑らせた。
「……土下座? ええ、ご自由に。ただし、その場合はこのお話は白紙。あなたは王都の徴税官に全財産を没収され、路頭に迷うことになりますわ。……さあ、サインなさる? それとも、今すぐその汚い足ごと、わたくしの視界から消え失せる?」
子爵は、蛇に睨まれた蛙のように硬直していた。
暖炉の火が、最後の一振りを上げる。
「……一体、何者なんだ、貴様は」
その声から、傲慢さは消え失せ、底知れぬ恐怖だけが滲んでいた。
「ただの、放浪者ですわ」
俺は、最高に冷ややかな微笑を浮かべてみせた。
「……契約書に、サインしよう」
「賢明なご判断ですこと。感謝いたしますわ」
(内心は全力で膝がガクガクいってるけど……お嬢様フィルター⋯⋯神スキルですわ⋯⋯)
嵐のような子爵が去り、見送りを終えたノックスが戻ってくると、それまで息を潜めていたヨルンが弾かれたように飛びついた。
「ライラ様、すごかったです……! ヨルン、もう痺れてしまいましたわ……!」
「ただ、口が勝手に動いただけですわ。無作法な客人に、場所のわきまえを教えたまでです」
内心のガクガクを必死に抑え込み、冷めた紅茶を一口。ノックスは満足げに頷き、一連の取引を清算するために、俺のポーチを受け取り、机に広げた。
「さて、土地代の六百Gを差し引きまして……?」
羽根ペンを動かしていたノックスの手が、不自然に止まった。
「ノックス?」
「失礼……少々、計算の桁を見誤ったようです。主よ、もう一度だけ確認を」
彼は眼鏡をかけ直し、ポーチの中にある「資産」を改めて魔力で検分した。一秒、二秒。静寂が流れる中、ノックスの眉間がかつてないほど険しく寄った。
「二十二万、一千、九百二十七、G……?」
あの鉄の心臓を持つ老執事が、掠れた声を漏らした。彼はそのまま、信じられないものを見る目で俺を凝視し、それから震える手で羊皮紙を置き、深々と頭を垂れた。
「……おそれながら、ライラ様。私めは、主の資力について大きな誤解をしていたようでございます。これほどの……一国の王室が数十年かけて蓄えるような富を、単身で、しかもこのような軽装のポーチ一つに収めておられるとは……」
「あら。何か、おかしなことでもありましたかしら?」
「おかしいどころではございません。……六百Gで土地を買い叩いたのが、もはや『慈悲』というより、子供の砂遊びの交渉に見えてまいりました。ライラ様、この資産があれば……王都の半分を買い取ることも、あるいは私設の軍隊を編制することも容易でございます」
ノックスが、畏怖すら混じった眼差しで俺を見つめる。
「そんな物騒なことに使うつもりはありませんわ。わたくしが欲しいのは、この屋敷に相応しい『美』だけですの。……ノックス、これからも頼りにしておりますわよ?」
「御意に。このノックス、主の底知れぬ器に、改めて一生を捧げる覚悟をいたしました」
(重い。忠誠心が、急に重くなった!)
重厚な革鞄に、正式に「ライラ・クロエラ」の名が記された土地の権利書を仕舞い込む。カチリ、と金具が閉まる小さな音が、静かな応接間に響いた。
(これで、この世界での居場所が、少しだけ確かになった気がするな)
暖炉の火を見つめながら、俺は深いソファに体を預ける。
「ノックス。お手柄でしたわ。あの男の顔、見ものですこと」
「もったいないお言葉。さて、土地が手に入ったとなれば、次は『内装』の充実ですな、ライラ様?」
(わかってるじゃないか、ノックス。お洒落勢の戦いは、ここからが本番だ!)




