第三話
試着室の厚手のカーテンを閉め、忌々しくも愛らしかった竜鎧を脱ぎ捨てた。
(……寒い。でも、この呪いのような露出狂装備から解放された開放感は異常だ)
少女から手渡されたドレスを、壊れ物を扱うように頭から被る。深夜の海のような紺色の絹が、冷え切った肌に吸い付くように滑り落ちた。背中の無数のボタンは、今の俺の指先では到底太刀打ちできず、カーテン越しに「……少し、お手をお借りしてもよろしくて?」と、震える声で頼んだ。「まかせてください! とびっきり綺麗にしますから!」という威勢のいい返事。
背後に回った彼女の温かい指先が、ひとつ、またひとつとボタンを埋めていくたびに、ドレスが俺の身体のラインを、残酷なまでに正確に象る。
「さあ……どうぞ。鏡の前に立ってみてください!」
促されるまま、俺は試着室の外へ踏み出した。
正面に据えられた、金縁の大きな姿見。
「…………」
そこに映る人物を、脳が自分だと認識するまでに、数秒の沈黙を要した。
肩から背中へと流れる、月光を透かしたような銀白の髪。切れ長の瞳は、サファイアを凍らせたような冷徹な光を湛え、伏し目がちにするだけで、見る者全てを拒絶し、平伏させるような高慢な美しさを放っている。
(……あ)
思い出した。ゲームのキャラクリ画面で、俺は確かにこの設定を選んだ。 「冷淡で、誰にも媚びない、孤高の悪役令嬢風」。
画面の中では、もっと記号的で、ドットの集合体でしかなかったはずだ。なのに、目の前にいるのは、磁器のように滑らかな肌と、紺色のドレスに縁取られた華奢な鎖骨を持つ、完成された一人の女だった。
(……俺が、これを作ったのか)
「似合ってます……! 似合ってるなんて言葉じゃ足りない。お嬢様、まるで夜の女神様みたいです!」
店の娘の興奮した声が、霧の向こうから聞こえる。
ドレスが、あまりにも完璧だった。銀糸の刺繍が、俺が息をつくたびに星の瞬きのように瞳の色と呼応する。
逃げていること。追われていること。元の世界のこと。そんな泥臭い現実は、この圧倒的な美しさの前では、もはやノイズでしかなかった。
「……これ、いただきますわ」
気づけば、淀みのないお嬢様言葉で宣告していた。
(……安いものだ。この『自分』を手に入れる代償としては、あまりにも)
サバイバル本能を物欲が食い破り、俺は快楽に近い現実逃避へと、深く沈み込んでいった。
レジカウンターに向かいながら、腰のポーチから数枚の硬貨を取り出す。
画面上の数字でしかなかった「G」が、今は手のひらで嫌なほど重い。磨き抜かれた純金の輝き。表面には見慣れない――『ルインライト』の運営がデザインしたはずの紋章が、鈍く光っている。
「あの……こちらでお支払いをしてもよろしくて?」
硬貨を差し出すと、ミラの表情がぴたりと凍りついた。
「……え、これ。どこの国の硬貨ですか?」
(しまっ――。通貨の統一なんて、ネトゲの常識が通じるわけないだろ!)
冷や汗が背中を流れる。だが、口は優雅に嘘を紡いだ。
「……非常に遠い地方のものですわ。通用いたしませんの?」
ミラは硬貨を太陽にかざし、あろうことか端を軽く噛んで確かめ始めた。
「……金の純度は、異常に高い。見たことない意匠だけど、これ、混じり気なしの本物の金ですよ」
奥から出てきた父親――店主の老人が、眼鏡をずらして硬貨を検分し、深く溜息をついた。
「……お嬢さん。これは通貨というより、もはや『美術品』に近い。今回だけは受け取ろう。だが、次からは街の換金所へ行きなさい。その辺のパン屋に出せば、偽造硬貨を疑われて衛兵を呼ばれるのがオチだ」
「……肝に銘じますわ。ご配慮、感謝いたします」
支払いを終えたところで、ミラが不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「あの、お客さん。失礼ですけど……どこのお姫様なんです? その髪の色も、喋り方も、今まで見た誰よりも浮世離れしてて」
(……う、グイグイくるな。人見知りには眩しすぎる……)
「……ただの放浪者ですわ。ライラ・クロエラと申します。そちらは?」
「私はミラ! ミラ・テイラーです! ライラさん、そのドレス、絶対に汚さないでくださいね! また遊びに来て!」
「ええ、またお邪魔しますわ。……ところで、ミラさん。一つお願いがあるのですけれど」
俺は脱ぎ捨てた竜鎧と、あの盗んだマントを指差した。
「このドレス、このまま着ていきたいのです。それと、これらを収められる鞄が……もしあれば」
「まかせてください! ぴったりなのが一軒隣の革細工屋にあります!」
ミラが走って取ってきたのは、深い青みがかったグレーの革鞄だった。銀の金具が、ドレスの刺繍とまるでセットのように呼応している。あの物騒な竜鎧と、例の紋章入りマントを丁寧に畳んで押し込むと、驚くほど綺麗に収まった。だが、腰の剣だけは、どうしても隠せない。
「……最高級のドレスの裾から、抜き身に近い剣が見えてるの、すごい組み合わせですね」
ミラが堪えきれずに吹き出した。
俺は、姿見に映る可憐な令嬢(物理攻撃特化)の姿を直視し、真顔で言い放った。
「……これこそが、機能美というものですわ」
店を出て、王都の風に吹かれた。
(……悪い子じゃなかったな。ミラ)
不思議な感覚だ。この世界に来て初めて、強制翻訳された言葉ではなく、心の一部が通じ合ったような気がした。
王都の大通りに、再び踏み出した。さっきと同じ石畳。さっきと同じ喧騒。だが、何かが違った。人が、止まる。露店の店主が、手を動かしたまま視線だけをこちらに向ける。荷物を抱えた女性が、通り過ぎてから足を止めて振り返る。話し込んでいた男たちが、会話を忘れて黙り込む。子供が母親の袖を引いて、こちらを指差しかけて、母親に手を下ろさせられる。
(……気のせいじゃない。モーセの十戒みたいに、人が割れていく)
わかってはいる。この浮世離れした銀髪も、深夜の海を写し取ったようなドレスも、そして鏡の中で見た、まだ自分のものとは思えない顔も、この街ではあまりに異質なのだ。
(だが、怖くはない。今の俺は、自作キャラの中でも最高傑作の装備を纏っているんだ)
人見知り特有の自意識過剰を、お洒落勢としてのプライドがねじ伏せる。肩には重厚な革鞄。腰には剥き出しの剣。ドレスの裾が石畳を掠める微かな音さえ、今は心地よい。歩幅を抑え、背筋を真っ直ぐに。お嬢様言葉の魔力に身を任せれば、立ち居振る舞いまでが自然と「完成」されていった。
大通りの角を曲がったとき、行く手に白銀の甲冑が光った。さっきの近衛とは別の、門の警備にあたっている二人組だ。彼らと目が合った瞬間、俺の背筋に冷たい緊張が走った。
(……来るか!?)
しかし、彼らは動かなかった。
槍を握る手に力が入り、直立不動のまま、ただ圧倒されたように俺を凝視している。その目は不審者を見るものではなく、王族か何かがお忍びで通りかかったのを幸運にも目撃してしまった、平騎士のそれだった。
(……そうか。マントを被ってコソコソ逃げていた時とは、見え方が全く別人なんだ)
最高級のドレスに身を包み、堂々と正面から歩いてくる女を、泥棒や逃亡者だと疑う者はいない。
(着替えは、最強のステルススキルだな)
人見知りのくせに、今日一番実用的な結論に辿り着きながら、俺は次の目的値――この謎の金貨を「価値ある資産」に変えるための、両替所を探して歩き続けた。
※ ※ ※ ※
両替所を探して石畳を歩いていると、人混みの向こうから、この場に似つかわしくないほど切実な叫びが響いた。
「ぬしぽん様――っ! ぬしぽん様はどちらにいらっしゃるのですか――!」
(…………っ!)
鼓膜を突き抜けたその声に、心臓が口から飛び出そうになった。聞き覚えがあるどころじゃない。その声は、俺がゲームの設定画面で選択し、マイルームに配置したあの声そのものだ。
(落ち着け、俺。ここで挙動不審になったら、この300Gのドレスが台無しだ……!)
沸き立つ動揺を無理やり押し殺し、俺は静かに、優雅に視線を巡らせた。波打つ群衆の隙間から、必死に背伸びをして周囲を見渡す小柄な少女の姿が見えた。栗色のツインテールに、汚れ一つない純白のエプロンドレス。その隣には、乱れた呼吸を微塵も表に出さず、石畳を滑るような足取りで追従する白髪の老紳士。
(ヨルン……と、ノックス!?……マジかよ。なんでここにいるんだ!?)
ログインするたびに「おかえりなさいませ」と定型文を吐き出すだけの、便利な、動かない、意思を持たないはずのシステムデータ。
だが今、ヨルンがこちらを向いた瞬間、その瞳に輝きが灯った。
「あっ……! ぬしぽん様――!!」
彼女は猛然と地を蹴った。スカートを翻し、通行人を避け、俺の元へと一直線に。
「ぬしぽん様、よかった……! 急にお姿が消えてしまって、ヨルン、本当に……生きた心地がしませんでしたっ!」
縋り付いてきた小さな手の、確かな温かさと、必死な震え。その後ろで、ノックスが静かに、だが深い安堵を湛えた眼差しで一礼した。
「ご無事で何よりです、ぬしぽん様。……して、ここは一体。我が主がなぜ、このような俗世の街角に立っておられるのですか」
「……それは、わたくしが一番伺いたいことですわ」
喉の奥から滑り出したのは、自分でも引くほど冷徹で、かつ慈愛に満ちた完璧なお嬢様言葉だった。
「なぜ……あなたたちが、ここに。本来、その……」
言いかけて、止まった。意思を持たぬ人形という言葉が、目の前で必死に震えているヨルンに向けるには、あまりにも残酷な気がした。
「……いえ、なんでもありませんわ」
「 ぬしぽん様?」
ヨルンが涙目で見上げてくる。ノックスは眉一つ動かさず、俺の全身を――特にその300Gのドレスと腰の剣を、プロの鑑定士のような鋭い眼差しで観察していた。
(……そうか。こいつらにとっては、これが「現実」なんだな。最初から生きて、呼吸して、俺を主として仰いできた「記憶」が、こいつらの血肉になってるんだ)
頭を抱えたくなるようなカオスな状況を優雅な沈黙で塗りつぶし、俺はまず、最優先の社会的抹殺を防ぐための命令を下した。
「……二人とも。まず一つ目。今後、私を『ぬしぽん』と呼ぶことは厳禁ですわ。この地においては、ライラと名乗っております」
「ライラ……様?」
「ええ。ライラ様、ですわ。聞き間違えまして?」
「……承知いたしました、ライラ様」
ノックスが、氷のように滑らかな所作で石畳に跪いた。
「では改めて。我が主よ。この奇妙な状況と、その……あまりに目を引く素晴らしいお召し物について。我らにお聞かせいただけますでしょうか」
(説明か……。まさか、元カノの通知で橋から滑り落ちたなんて、口が裂けても言えるかよ……!)
「そんなことより、マイルームは何処ですの?」
※ ※ ※ ※
ノックスの淀みない先導で、喧騒の大通りを外れた。石畳の道が徐々に細くなり、やがて王都の外縁部へと続く、見晴らしの良い緩やかな坂道に出る。
「ノックス。マイルームというのは、この街のどこにあるのかしら?」
「はい。左様でございますな。……あちらに見えてまいりました」
坂を登りきったところで、ヨルンが弾んだ声で振り返った。
「あそこです、ライラ様! 私たちの家ですわ!」
ヨルンの指差す先に、それはあった。
美しく切り拓かれた高台の土地に、周囲の景観を無視して堂々とそびえ立つ、黒石造りの中規模屋敷。細部まで執拗に施されたゴシック調の彫刻、夕暮れの残光を反射する尖塔の群れ。
(……デカい。スマホの画面で見ていた時より、五倍はデカく見えるんだけど!?)
俺がお洒落装備を集めるのと同等程度のプレイ時間を注ぎ込み、家具の配置一つまでこだわったマイルームが、今、物理的な実在感を持ってそこに鎮座していた。
「お、おい! そこで何をしている不届き者が!」
突如、背後から突き刺さるような怒号が飛んできた。振り返ると、立派な毛並みの馬に跨った中年の男が、顔を真っ赤にしてこちらを凝視している。仕立ての良い外套、腰には大粒の宝石が嵌め込まれた紋章入りの剣。恐らく、この辺りを領有する貴族だ。
「その屋敷は何だ! ここは我が一族の土地だぞ! 一体いつの間に、このような不気味な建物を――」
「これはこれは。突然の不調法、失礼極まりなきことと存じます」
ノックスが、影が伸びるような滑らかさで俺の前に出た。
「私めはライラ・クロエラ様が家令、ノックスと申します。此度の屋敷の件、地主様にご不便をおかけしたことは重々承知しております」
男の剣幕が、老執事の放つ圧倒的な「格」に押されてわずかに揺らいだ。
「ご家令……だと? クロエラ……聞いたこともない名だ」
「左様でございますか。……主より、土地の不法な使用に対する相応の『誠意』を申し上げたいと存じます」
(誠意? ……あ、金か!)
俺は反射的にポーチへ手をかけた。だが、その瞬間。ノックスの白手袋の指先が、そっと俺の手首を制する。
「……ライラ様。数枚、お借りしてもよろしいですか?」
耳元で囁かれた、有無を言わせぬ静謐な声。俺は無言で金貨を三枚、ノックスの掌に落とした。ノックスは金貨を一瞥した。一秒にも満たない刹那。老執事の鋭い眼光に、計算機のような冷徹な光が宿る。
「こちらを。今宵の非礼への、まずは挨拶代わりでございます」
差し出された金貨を見た瞬間、貴族の男の目が、卑俗な欲望でぎらりと濁った。
「……。……フン、今すぐ退去してもらうのが筋だが」
「もちろんでございます。ただ、急な移転ゆえ、今宵一夜のご猶予をいただければ。正式な手続きにつきましては、改めてご当家にご連絡差し上げます」
男はしばらく無言で金貨を握りしめ、それから鼻を鳴らして馬の首を巡らせた。
「……一夜だけだ。明朝、必ず話し合いの席を設けろ。……行くぞ!」
蹄音が遠ざかる。ノックスはその背を、冷ややかな微笑を湛えたまま見送り、静かに振り返った。
「ライラ様。今宵の寝所はご安心ください。すぐにヨルンに準備をさせましょう」
「……ノックス。今の金貨、相場はわかりましたの?」
「はい。王都近郊の土地一夜の使用料としては、度を越して高価ではございましたが……。無知な貴族の口を封じ、主の『格』を示すには、妥当な投資かと。残り二枚は後ほどお返しいたします」
(一瞬でそこまで計算したのかよ。……有能すぎて怖いんだけど)
「……ふふ、ご苦労でしたわ。さすがは私のノックスですこと」
「もったいないお言葉。……さあ、主よ。お帰りなさいませ。我が家へ」




