第二十一話
俺がランウェイのような廊下の中央、最も天井が高い位置に差し掛かったその時だった。
「……今だッ! ぶちまけろ!」
物陰からエドワードの鋭い怒声が響く。それと同時に、天井の装飾に仕込まれた魔導仕掛けが作動した。大講堂の天井から、キラキラと輝く祝福の紙吹雪が豪雨のように降り注いだ。
観衆からは「おおっ!」と歓声が上がる。それは主役を称える華やかな演出に見えただろう。
だが、その紙片の一枚一枚には、一度触れれば黄金の生地を物理的に変色させ、二度と取れない汚れを吸着させる魔導粘着粉がたっぷりと塗り込まれている。
(来たな。エドワード、お前のその勝ち誇った顔……一瞬で、絶望に塗り替えてやる)
俺が指先をスッと動かした、その瞬間――。
会場の四隅、そして俺の前後。給仕や楽団員に化けて潜ませておいた特殊清掃ギルドの精鋭たちが、一斉に懐から超小型・高出力魔導式送風機を突き出した。
それは掃除機のように吸い取るのではない。逆に、特定の魔導波長を持った風を、俺の周囲数メートルへと向けて吹き付ける装置。
講堂の空気を震わせるほどの、凄まじい風切り音が周囲を支配した。
「な……何だ!? 何が起きているんだッ!」
エドワードが目を剥き、工作員たちが狼狽する。降り注いだ粘着粉は、黄金のドレスに触れる直前で、目に見えない巨大な空気の壁によって弾き飛ばされた。
紙吹雪は俺を避けるように左右へと吹き散らされ、俺の周囲数メートルには、物理的な完全無塵地帯が形成されていた。
弾かれた粘着粉を含んだ紙吹雪は、風に乗って会場の観客席へと向かって舞い戻り、一部の貴族たちのドレスやタキシードへと吸着していく。
「きゃあああっ!? なにこれ、取れないわ!」
「お、おのれ、誰だ! こんな不潔なものを!」
観客席が騒然となる。
「あら、素晴らしい演出ですこと。ですが、わたくしのドレスは少々潔癖でして……。不浄なものは、触れることさえ許されませんの」
俺は歩みを止めることなく、一点の曇りもない黄金の裾を翻した。背後では、清掃員たちが必死の形相で送風機を操り、俺が通った後の空気を完全浄化し続けている。
「ば、馬鹿な……。俺がどれだけの金をかけて、あの粉を特注したと思っているんだ!!」
吹き散らされた粘着粉の一部は、物陰から飛び出して叫んでいたエドワード自身のタキシードにも容赦なく吸着していた。
エドワードは、自慢の罠が「ただのゴミ」として無慈悲に吹き散らされ、逆に観客席の貴族たちを汚してしまう屈辱に、膝から崩れ落ちた。
(ふぅ、我ながら一回の演武に清掃ギルドを丸ごと雇うなんて、……だが、これがライラ流のやり方だ)
俺は、あまりの札束の暴力に戦意を喪失したエドワードを一瞥もせず、壇上のアレクシア教官の前へと辿り着いた。
黄金のドレスは、先程よりもさらに輝きを増しているように見える。会場全体が、その圧倒的な準備の格差と、それを当然のように使いこなす俺の傲岸さに、もはや恐怖に近い敬意を抱き、割れんばかりの拍手を送っていた。
「お待たせいたしましたわ、アレクシア先生。……では、奉納の舞を」
俺は腰の竜剣を静かに抜き放った。黄金の光が、抜剣の音とともに会場を支配する。
※ ※ ※ ※
剣を鞘に収め、最後の一礼を終えた瞬間。大講堂を支配していた静寂が、割れんばかりの喝采へと変わった。
だが、その熱狂を切り裂くように、一人の男が貴賓席から立ち上がり、壇上へと歩み寄ってきた。まばゆいばかりのプラチナブロンドを揺らし、軍服に身を包んだその姿に、会場の貴族たちが一斉に道を開ける。
第一王子、アルベルト・ルイス・ローゼン。
アルベルトは、俺に差し出した薔薇の花束を握り直すと、冷徹な視線を舞台袖へと向けた。そこには、自分の仕掛けた「粘着粉」を自ら浴びてしまい、膝をついて震えているエドワードがいる。
周囲の生徒たちがヒソヒソと
「……どうしたのかしら、あの汚れ」
「自分で転んだの?」
と囁き合っていた。
「エドワード。公爵家の嫡男ともあろう者が、このような晴れ舞台で身だしなみを崩すとは。……よほど体調が優れないと見えるな」
王子の言葉は、一見すると気遣いのようだが、その実「お前の無様な姿は、不愉快だ」という冷たい宣告だった。
「……ッ、い、いえ……これは、その……」
エドワードは顔を真っ赤に染め、弁明の言葉を探している。自分が仕掛けた粘着粉だと白状すれば、即座に退学。かと言ってただ転んだと言い張れば、公爵家の面目は丸潰れだ。彼は今、地獄のような二択を迫られている。
俺は、黄金のドレスの裾を優雅に揺らし、王子の横へ一歩踏み出した。
「……あら、アルベルト様。……エドワード様はきっと、わたくしの演武のあまりの華麗さに、少々驚かれてしまっただけではなくて? ……ねえ、エドワード様?」
俺は扇をパッと開き、極上の、しかし底冷えするような微笑をエドワードに向けた。
「……っ、そ、そうだ……。クロエラ殿の剣技に魅了されていたら、つい足元を疎かにしてしまい……失礼した」
エドワードは、屈辱に震えながらも、俺が差し出した不格好な助け舟に乗るしかなかった。これで彼は、俺に命を握られたも同然だ。
「ふむ。クロエラの剣が、それほどまでに凄まじかったということか。よかろう。エドワード、今日のところは下がれ。……その汚れ、目障りだ」
王子の冷淡な一言で、エドワードは逃げるように会場を後にした。
そしてアルベルトは、再び俺に向き直る。その瞳には、先程よりもさらに深い執着が宿っていた。
「さて、ライラ。あのような無骨な男は放っておいて、君の話を聞かせてもらおう。……後ほど、私の私邸へ来てもらえないか? 君のような底の知れない女性と、ゆっくり語り合いたい」
俺は、黄金のドレスの重みを微塵も感じさせない完璧な所作で、スッと扇を閉じた。大講堂の貴族たちは、王子からの直接の誘いに俺がどう答えるのか、固唾を呑んで見守っている。
「身に余る光栄ですわ、アルベルト様。ですが」
俺はあえて言葉を切り、王子の瞳を真っ向から見つめ返した。その不敬スレスレの沈黙が、逆に会場の緊張感を極限まで引き上げる。
「あいにくですが、本日のわたくしは、この黄金のドレスと共にあまりに多くの視線を浴びすぎてしまいましたの。……これ以上の輝きは、殿下の私邸の調度品をすべて色褪せさせてしまいますわ。それは、わたくしの美学に反しますの」
「……断る、と言うのか? この私を」
アルベルト様の目が、驚きと――それ以上の悦びに細められた。
「ええ。わたくしの時間は、わたくしのドレスが最も美しく見える瞬間にしか使いません。今夜は、この興奮を冷ますために、一人静かに絹のシーツに身を沈めたい気分ですの」
俺は優雅に一礼し、差し出された王子の手を、扇の先で軽く、だが明確に押し戻した。
会場にいた誰もが息を呑んだ。王子の誘いを正面から、それもドレスの気分などという理由で蹴り飛ばした女など、この国の歴史に一人もいないだろう。
「は……はははは! 面白い。ここまで私の興味を煽っておいて、最後の最後で突き放すとはな。……いいだろう、ライラ・ゼーレ・クロエラ。君のその傲慢、嫌いではない」
王子は愉快そうに喉を鳴らしたが、その瞳の奥にある執着の炎は、先程よりも確実に強まっていた。
俺は黄金の裾を翻し、呆然と立ち尽くす貴族たちの間を、王子のエスコートさえ拒んだまま一人で堂々と歩き始めた。
出口で、這うようにして会場を去ろうとしていたエドワードと、一瞬だけ視線が交差する。
「エドワード様。後ほど、お掃除のコツをまとめた書面でも送って差し上げましょうか? わたくしの雇ったギルド、なかなかの腕前でしたでしょう?」
俺が冷たく囁くと、エドワードは言葉にならない呻き声を漏らし、顔を屈辱で土色に変えた。
(悪いな、エドワード。格が違うんだよ)
俺は誰にも邪魔をさせることなく、黄金の軌跡を残しながら、喝采と戦慄が入り混じる大講堂を後にした。
※ ※ ※ ※
奉納演武の翌朝。
学園のサロンは、昨夜の余韻と異常な光景への動揺で持ちきりだったが、俺が足を踏み入れた瞬間、喧騒は一変して静まり返った。
「騒々しいですわね。朝から何の集会かしら?」
俺は扇をパッと開き、不機嫌さを隠そうともせず、冷徹な視線を周囲に投げた。今日のドレスは、変色ベルベット。
「あ、ライラ様! 昨夜は、その……大変なことに」
「わたくしのドレス、あの粘着粉のせいで台無しになってしまって、どうすれば……」
被害に遭った貴族の子弟たちが、救いを求めるように縋り寄ってくる。だが、俺は彼らと視線を合わせることなく、ただ鼻で笑った。
「……醜い。そんな無様な姿で、よくもまあ公衆の前に出られたものですわね。わたくしの視界が汚れますわ」
「そ、それは……申し訳ありません」
「……ノックス」
俺が冷たく名を呼ぶと、背後に控えていたノックスが無言で一歩前へ出た。彼は、事務的な手つきで書類の束をテーブルに叩きつける。
「わたくしが契約している衣類修復ギルドに、本日のみ枠を空けさせましたわ。修復費用は、すべてわたくしが『立て替えて』おきます。勘違いなさいませんよう。皆様を助けたいわけではありません。……ただ、わたくしの通う学園に、そんな汚れた布切れを纏った者が徘徊しているのが、耐え難いだけですの」
「あ……ありがとうございます、ライラ様……!」
「お黙りなさい感謝など不要ですわ。その代わり」
俺は扇を閉じ、その先端でテーブルの上の署名欄を指した。
「その粘着粉が、エドワード様の手によるものであるという証言。そして、わたくしへの債務承認。……これらをセットで引き受けていただきますわ。拒む方は、どうぞそのゴミのような服を一生着ていらっしゃれば?」
サロンの貴族たちは、俺のあまりに容赦のない態度に息を呑んだ。だが、背に腹は代えられない。彼らは震える手で、次々とエドワードへの告発状と俺への借用書にサインをしていった。
(……さて、これだけの弾があれば、公爵家の喉元を掻っ切るには十分すぎるな)
数時間後。
学園の理事長室。そこには、エドワードと、その父であるアーノルド公爵、そして――。
優雅に足を組み、冷徹なまでの静寂を纏った俺が、最高級の茶葉の香りを燻らせていた。
「閣下。お忙しい中、このような小事でお呼び立てして申し訳ありませんわ」
俺は、机の上に積み上げられた署名の山を、まるで不浄なものを見るような目で公爵へ押しやった。
「わたくし、昨夜の件で損害を受けた皆様の衣類、すべて肩代わりして修復・新調いたしましたの。計、三千八百G。……エドワード様の若気の過ちへの授業料としては、少々お高いかしら?」
俺は扇越しに、震えるエドワードを氷のような瞳で射抜いた。エドワードのプライドは、もはや塵も残っていない。今や彼は、自分の不始末で実家の財政と名誉を危機に晒した公爵家の汚点へと成り下がっていた。
静まり返る理事長室。アーノルド公爵は、積み上げられた署名の山と、そこに記された請求額を凝視したまま、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙していた。
「……クロエラ男爵令嬢。これほどの金額、一括で支払えと仰るのか? 公爵家の名誉にかけて、踏み倒すような真似はせぬが……少々、時期が悪すぎる」
公爵の声には、隠しきれない焦燥が混じっている。対して俺は、ゆったりとソファーの背もたれに身を預け、冷徹なまでの静寂を纏ったまま、ティーカップの縁を指でなぞった。
「お困りのようですわね、閣下。わたくしも、公爵家を破滅させたいわけではありませんの。ただ、エドワード様が散らしたゴミを片付けるのに、これほどの手間と私財を投じたこと……その誠意は示していただかなくては」
「……誠意、だと?」
「ええ。金銭での支払いが困難であれば、代わりのもので結構ですわ。例えば、閣下が独占的に管理されている、東方諸国との交易利権……。その中にある幻の魔導絹の独占販売権。それを、わたくしの個人商会へ譲渡していただくというのは、いかがかしら?」
公爵が、弾かれたように顔を上げた。
「な……! あの絹は、王族への献上品や、我が家の財政を支える最重要の戦略物資だぞ! それを、一介の令嬢が……!」
「……一介の令嬢、ですって?」
俺は扇をパッと閉じ、その先端をエドワードの喉元へ向けた。エドワードは「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちそうになる。
「……閣下。ここに並ぶ署名は、単なる借用書ではございません。公爵家の嫡男が、王都の貴族たちに魔導粘着粉による悪辣なテロ行為を働いたという、動かぬ証拠ですわ。これが王宮の耳に入れば、交易利権どころか、爵位そのものが危うくなるのではなくて?」
「…………ッ!!」
公爵の顔が、怒りと恐怖で土色に変わる。俺は追い打ちをかけるように、氷のような微笑を深めた。
「わたくしのドレスは、最高級の素材を求めておりますの。その利権さえいただければ、この署名の山は、今ここでわたくしの指先一つで灰にして差し上げてもよろしくてよ? エドワード様も、晴れてただの粗忽者として、学園に残れるというものですわ」
沈黙が室内の空気を重く押し潰す。エドワードは父親の足元で、ただガタガタと震えていた。
(さあ、選べよ公爵)
「…………分かった。魔導絹の独占販売権……貴殿の商会へ譲渡しよう。……その代わり、この書類はすべて破棄しろ。二度と、我が家の名を汚すような真似はさせん」
公爵は、魂を削り取られたような掠れ声で承諾した。
「賢明なご判断ですわ、閣下。ノックス。契約書の準備を」
俺は、震える手でサインをする公爵を冷淡に見下ろしながら、内面で勝利の咆哮を上げていた。
(よし! 新しい素材、ゲットだぜ! 夢が広がるな)
俺は、無価値なゴミのように投げ捨てられた署名の山を一瞥し、最高級の利権を手中に収めたまま、優雅に理事長室を後にした。




