第二話
鳥達の穏やかな囀りで目を覚ました。
土の匂いがする。ここはどこだ。
不思議に思いながら身体を起こす。ふと、自分の手が視界に入った。
「……?」
細い。色が白くて、指が長い。爪まで綺麗だ。俺の手はこんなんじゃない。そもそもこれは――
恐る恐る自分の身体を見下ろす。
細い。全体的に、細い。というか、形が違う。肩幅が狭くて、腰のくびれがあって、胸が――
(……女?)
首筋に何かが当たる。
「ひっ!……虫!?」
反射的に手を首の後ろに回し、異物を掴んで放り投げる準備をする。しかし、後頭部に痛みが走った。
握ったものを前まで持ってきて確認する。
(……俺の髪?)
長い。薄く紫がかった白い髪が肩どころか背中の中ほどまである。引っ張ってみると、ちゃんと痛い。
顔を上げた。見渡す限りの青々とした木々が立ち並んでいる。巨大な樹木が頭上を覆い、地面は草と土で、川なんてどこにもない。
川に落ちたはずだ。真冬の川に、橋の上から。なのになぜ、森にいる。俺は死んだんじゃないのか。
立ち上がろうとした瞬間、風が吹いた。背中を、腹を、太ももを、盛大に撫でる。
「ッ――!」
出てる。色々と、盛大に、出てる。
自分の服装を改めて確認する。黒い革鎧。胸元はV字に開いていて、へそが丸見えで、下はベルトの集合体みたいなミニスカートで、膝上までのブーツ。
「……待って、この服って」
この時、声すらも自分のものじゃない事に気付いた。鈴を転がすような、透き通った女の声。この身体は俺じゃない。つまりこれは――
(夢だな。うん……高性能なVRゲームにでも入り込んだ夢だ)
そう結論づけて、とりあえず立ち上がった。
軽い。身体が、恐ろしいほどに軽い。現実の、慢性的な運動不足だった自分とは比べ物にならない。一歩踏み出すだけで、バネが弾けるようにふわっと身体が宙に浮く感覚がある。これが『敏捷ボーナス+18』の実力か。
でもそれより――
(……寒い。殺人的に寒い!)
風が吹くたび、剥き出しの腹と太ももを冷気が容赦なく撫でていく。夢の中だとわかっていても、この「全方位露出狂スタイル」は精神衛生上よろしくない。ゲーム画面で見ていた時は「最高にかっこいい」と思っていたはずの竜鎧が、今はただの「心許ない革の端切れ」にしか思えなかった。
気を取り直して周囲を見回す。どこを見ても木しかない。方角もわからない。このまま歩いても迷うだけだ。
近くの大きな木を見上げた。枝が低い位置から生えていて、頑張れば登れそうだ。
(よし)
登り始めて、すぐに後悔した。俺は今スカートを履いている。というかスカートと呼んでいいのかも怪しいベルトの集合体が、登るたびにひらひらする。見ている人間は誰もいないとわかっていても、本能的に片手で押さえてしまう。
片手で木に登るのは、思ったより大変だった。
それでも何とか高い枝まで辿り着くと、木々の隙間から遠くに街が見えた。
「あちらに行けばよろしいのですね」
方角を頭に刻んで、慎重に降り始める。
片手でスカートを押さえながら、慎重に枝から枝へと移っていく。風が吹くたびに気が散る。これは夢だ。夢だけど、落ちたら痛い気がする。
あと数メートルというところで、下から声がした。
「……何をしているんだ」
木にしがみつきながら声のした方を向くと、そこには絵画から飛び出してきたかのような美男子がいた。
金色の髪をなびかせ、刺繍の入った上等そうな外套を羽織った青年。その瞳は冷徹なまでに澄んでいて、必死に木にしがみつく俺を、ゴミを見るような目で見つめている。
(なんだあの超絶イケメン。NPCにはいなかったし、プレイヤーか? いや、それにしては存在感が……)
地面に降り、顎に手を当てながら考えていると、青年がまた口を開いた。
「木に登っていたのか。……その、奇怪な装いで」
「ええ、そうですわ。見晴らしを楽しみたくなりましたの」
(……は!?)
自分の口から出た言葉に、脳が凍りついた。
「いや、道に迷って」と、普通に答えるはずだった。なのに、喉の奥から勝手に「お嬢様フィルター」を通過した優雅な声が飛び出してきたのだ。
「この辺りは魔獣が出る。危険だぞ」
「存じておりますわ。ご忠告、痛み入りますこと」
(やめろ! 止まれ俺の口! なんだその完璧なカーテシーは!)
脳内の叫びを無視して、身体は勝手に「育ちの良い令嬢」を演じ続ける。システムによる強制イベントにでも巻き込まれている気分だ。
「それと」
青年は一拍置いて、ゴミを見るような目はそのままに、吐き捨てるように言った。
「その……布面積を忘れてきたような服装はなんだ。変質者か? それとも、誘っているのか」
「破廉恥なことをおっしゃらないで! これは最新の、その……機能美を追求した正装ですわ!」
(……違います、って言いたかっただけなのに! 逆に怪しさ倍増させてどうするんだ!)
やはり口が勝手に動く。しかも俺じゃない声と言葉で。どういうことだ。夢にしても、おかしすぎる。
「名を聞いても構わないか」
青年が馬上から静かに問うた。
(名前か。ゲームの名前はちょっとな……)
焦って頭を巡らせる。女性の名前なんてとっさに出てこない。そういえば姉がよくやっていた乙女ゲームに、ライラ・なんとか・クロエラとかいう主人公がいた気がする。今はそれしかない。
「ライラと申しますわ」
「家名は」
「クロエラですわ」
青年の眉がわずかに動いた。
「クロエラ……聞いたことがない家名だ。どの地方の出身だ?」
(まずい)
「遠い地方ですわ。ご存知ないかと」
「遠い地方」
「ええ、非常に遠い地方ですわ」
「どのくらい遠い」
「……馬では辿り着けないくらいですわ」
質問攻め。この流れはマズイ。状況を打破するためには――そうだ!
「こちらが名乗ったのだから、そちらも教えてくださいませんこと?」
青年はわずかに間を置いた。
「……アルベルト・ルイス・ローゼンだ」
「アルベルト……様」
(ローゼン……当然だけど知らない名前。覚えられるかも怪しい。でもあの外套といい、馬といい、相当身分が高そうだな)
「……お前、平民か?」
「え、あ……そうですわ」
(平民? まあそうなんだろうな)
アルベルトはそれきり黙った。しかしすぐに馬を進めるでもなく、こちらをじっと見据えている。
「……なんですの?」
「いや」
短く言って、視線を前に戻した。
(何だ。俺、何か変なことでも言ったか)
アルベルトが再び口を開く。
「平民にしては、言葉遣いが妙だな」
「……そうですの?」
「それと所作も。育ちが良いように見える」
「……遠い地方では普通ですわ」
「そうか」
信じていないような間があった。それでもアルベルトからそれ以上の追求は無い。
「街まで送ろう」
「……なぜですの?」
「いいから来い」
俺は自分の服装を見回した。この男はこの格好で馬に乗れとでも言うのだろうか。あまりにも配慮にかける。いや、この装備を着させた俺が悪いけど。
「この装いで騎乗など、淑女として許されるものではありませんわ」
(なんでそうなる!俺の口調)
アルベルトが差し出してきたマントを、俺は半ばひったくるようにして受け取った。
その瞬間、指先に伝わる感触に息を呑む。
(……っ、なにこれ)
滑らかだ。安物のポリエステルとは次元が違う、重厚でいてしなやかな手触り。裏地は産毛のように柔らかく、肩に羽織った瞬間、凍えていた肌が極上の温もりに包まれた。そして、ふわりと香る。
洗剤の匂いじゃない。焚き火の煙と、それから、何か高価な香油が混ざったような……「男」の匂い。
(現実感が、強すぎる……)
これは夢だ。クリスマスに独り寂しく死にかけた俺が見ている、都合のいい白昼夢なんだ。
「掴まれ。落ちるぞ」
「……失礼いたしますわ」
外套の背を掴んだ瞬間、馬が動き出した。思ったより揺れる。思ったより速い。木々が左右に流れ、地面が遠い。振り落とされないよう、気づけば外套をしっかり握っていた。
やがて森が開けてきた。木々の間隔が広がり、遠くに建物の輪郭が見え始める。石造りの壁、尖った屋根、夕暮れに染まり始めた空。見覚えのない街並みが、少しずつ近づいてくる。
(本当に、夢にしてはリアルだな)
風が頬を撫でた。冷たい。痛いくらい冷たい。
そういえば、川に落ちたときも冷たかった。橋の上で足が滑って、手が届かなくて、そのまま落ちて。
――あのとき、スマホに通知が来ていた。
(……綾香、なんて送ってきたんだろう)
最悪のタイミングでそれを思い出した。夢でも現実でも、気になるものは気になる。どうしようもない。
街の門をくぐると、一気に喧騒が押し寄せてきた。石畳の道に、露店が並び、行き交う人々の声が重なり合っている。馬が歩みを緩めた。
(今だ)
「少々失礼いたしますわ」
一応声をかけてから飛び降りた。身体が軽いおかげか、着地は完璧。マントがひらりとめくれて、包まれていた肌が一瞬顕になる。でも気にしてる場合じゃない。
「おい」
アルベルトの声が背後から飛んでくる。でも振り返らなかった。人の流れに乗り込んで、露店と露店の隙間を縫うように走る。
(知らない男についていったら駄目だ。基本だろ)
長年ストーカー被害に悩まされる姉を見てきた。今は女の体、自分の経験からも男に対する警戒心はいくらあっても良いと思っている。
マントの裾を押さえながら走り続け路地に滑り込む。角を曲がり、また曲がる。追ってくる足音はない。
適当な建物の陰で立ち止まり、息を整えた。
静かだ。路地の奥まった場所で、喧騒が遠くなっている。
やわらかな布の感触が手に残っている。
(……マント盗んじゃったな)
気を取り直して路地を出た。
アルベルトから借りた(パクった)マントのおかげで、見た目はなんとか普通の旅人に見えるはずだ。裾を少し長めに引き、前合わせをきつく締めて、腹とへそが露出しないよう細心の注意を払う。ニーハイブーツの絶対領域は隠しようがないが、まあ、異国のファッションだと言い張れば許容範囲だろう。
(これで変質者扱いはされないはず。……たぶん)
王都は、想像を絶する巨大さだった。
石畳の大通りには、極彩色の中身が詰まった露店がどこまでも連なっている。重厚な荷馬車が行き交い、商人の野太い呼び声と、香辛料の混じった美味そうな匂いが鼻を突く。建物は三階建て以上の石造りが並び、窓辺には溢れんばかりの花々。
(グラフィックが、神がかってる……)
思わず感動してしまった。現実の新宿や渋谷の喧騒は吐き気がするほど嫌いなのに、この世界の賑やかさには、どこか絵本の中に迷い込んだような高揚感がある。だが、見惚れている場合ではない。まずは軍資金の確認だ。
手元の「234,600G」。このゲーム内通貨が、この世界で「紙クズ」なのか「お宝」なのかで、今後の生存戦略が決まる。
通りがかりの親切そうな女性に声をかけようとして、一歩引いた。
(……あ、無理。知らない人に話しかけるの)
染み付いた対人恐怖症が顔を出す。仕方なく、一番暇そうで、かつ怖くなさそうな店主の露店を選んだ。干し肉と萎びた野菜を並べた、場末の小さな店だ。
「あの、少々よろしいですこと?」
(また勝手にお嬢様フィルターが……!)
店主の中年男性が、弾かれたように顔を上げた。泥に汚れたマントを羽織りつつも、隠しきれない気品と謎の露出度を漂わせた女が、鈴を転がすような声で話しかけてきたのだ。店主の目が、あからさまに泳いでいる。
「この国の通貨について、無知なわたくしにご教示いただけますの? 旅の途中で……その、迷子になりまして」
「あ、ああ……お嬢さん、そりゃ災難だったな。この辺じゃ銀貨と金貨が基本だよ」
「金貨一枚で、どの程度のものが買えますの?」
「宿なら、一等良い部屋に三泊はできる。平民の食卓なら一ヶ月は遊んで暮らせる価値だ」
(……待て)
計算が止まる。俺の所持金は、23万『ゴールド』。
もし1Gが金貨1枚だとしたら。俺は今、宿に70万泊できる……つまり、一国の国家予算並みの現金を抱えて歩いていることになる。
(えっ、俺、富豪? 宝くじどころの騒ぎじゃないんだけど!?)
あまりの衝撃に立ち眩みがした瞬間、遠くから鋭い声が響いた。
「いたぞ! あの紋章のマントだ! 間違いない、あの女だ!」
振り向くと、白銀の甲冑に身を包んだ近衛騎士らしき男たちが、こちらを指さして突進してくるのが見えた。
(……紋章!? あいつ、ただのイケメンじゃなくて、指名手配されるレベルの超重要人物だったのかよ!)
「少々失礼いたしますわ! お釣りは結構ですことよ!(※何も買ってない)」
混乱して口走った言葉を置き去りに、俺は猛然と走り出した。敏捷ボーナスのおかげで足は驚くほど速い。だが、アルベルトのデカすぎるマントが足に絡まり、自慢の生足をもたつかせる。
(まずい、このままじゃ捕まる……! 23万Gを使い切る前に、監獄行きなんて冗談じゃない!)
俺は必死にマントの裾を捲り上げ、石畳を蹴った。
路地を三本抜け、迷路のような市場の裏手まで回り込んだところで、ようやく追跡の金属音が遠ざかった。煤けたレンガの壁に背を預け、ずるずると膝をつく。肺が焼けるように熱い。
(……ハァ、ハァ……死ぬかと思った……!)
『敏捷ボーナス+18』のおかげで、脚だけはプロのアスリート並みに回る。だが、肺活量や精神力までは補正されていないらしい。身体だけが先行して、意識が置いていかれるような奇妙な感覚。ゆっくりと顔を上げる。
そこは、喧騒から切り離された、妙に静かな一角だった。目の前には、対照的な二軒の店が並んでいる。
左側は、煤けた看板に大剣が描かれた防具屋。
開け放たれた扉からは、オイルと鉄の匂いが漂ってくる。
あそこなら、この「布面積の概念を無視した竜鎧」の使い道を知る者がいるかもしれない。冒険者として、この世界で生き抜く術を学ぶなら、間違いなく左だ。
だが、右側のウィンドウを見た瞬間――俺の思考は、フリーズした。
(……っ、うそだろ)
そこに飾られていたのは、一着のドレスだった。
深い深夜の海を思わせる紺色の生地。そこに、銀糸の刺繍が流星群のように繊細に走り、裾のシフォン素材は歩くたびに、あるいは光が差すたびに、紫から青へと幻想的に色を変える。
胸元のカッティングは、芸術的なまでに完璧だ。上品でありながら、鎖骨のラインを最も美しく見せるための計算が尽くされている。
(すごい。なんだこれ。……綺麗)
ゲームの画面越しに見ていた「高レア装備」とは、次元が違う。繊維の一本一本が呼吸しているような、圧倒的な「本物」の気圧。
(ちょっとだけ。ちょっと見るだけ)
気づけば、逃走中だという自覚も、23万Gの重みも、アルベルトの顔も、すべてが意識の彼方へ消え去っていた。
吸い寄せられるように扉に手をかける。カラン、と。場違いなほどに可愛らしい鈴の音が、俺をドレスの海へと招き入れた。
店内は、外の喧騒が嘘のように静かだった。
客は今のところ俺一人。ガラス張りの棚にドレスが何十着も吊り下げられ、試着室の薄いカーテンが空調でゆらゆらと揺れている。
俺は一着目のドレスの前から、五分間動けていなかった。ウィンドウで見たあの紺色のドレスだ。間近で見ると、さらにやばい。刺繍の一針一針に迷いがない。染色の深みが、角度によって全然違う表情を見せる。これを作った職人は、間違いなく本物だ。
(……触れていいか)
恐る恐る裾に指先を当てた瞬間――
「お目が高いですね! そのドレス、うちで一番の逸品なんですよ!」
「――ッ!」
心臓が止まるかと思った。振り向くと、エプロン姿の少女がニコニコと立っている。年は俺より少し下くらいだろうか。茶色い巻き毛に、そばかすだらけの丸い顔。目が爛々と輝いていた。
「お客さん、さっきからずっとそのドレスの前で固まってたから、もしかしてって思って! 気に入りました?」
(うわっ、アパレル店員のコミュ力……だから服屋って苦手なんだよ)
だが、そんな胸中とは裏腹に俺の口からはお嬢様言葉に翻訳された台詞が飛び出す。
「ええ、素晴らしい出来栄えですわね。この銀糸の走らせ方、職人の腕が伝わってくるようですわ」
「わかります!? そうなんですよ、この刺繍、王都でも三人しかできない職人に頼んだんですって! お父さんが奮発して!」
(……この子、話すの速いな)
圧倒されながら、俺はドレスに視線を戻した。
「……おいくらですの?」
「300Gです! 高いですけど、絶対似合いますよ、お客さんに! その髪の色、すごく珍しくて綺麗だし!」
(300G……23万あるし、余裕で買える。でも待て。俺は今逃走中だ。宿も取ってない。着替えも要る。冷静になれ、俺)
「……少し、考えさせてくださいませんこと」
「もちろんです! あ、でもせっかくだから試着だけでもどうですか? 試着は無料ですよ!」
(試着……)
「……お願いしますわ」
(駄目だ。俺の優先順位が完全に崩壊してる)




