第十九話
翌朝、日の出前。
訓練場に集まった生徒たちは、眠気と寒さに身を震わせながら、霧の向こうから現れたその光景に、再び言葉を失った。
薄明の中、静かに、しかし確かな存在感を放ちながら歩み寄る一つの影。昨日までの藍色とは打って変わり、朝露を反射して自ら発光するかのような、白銀のドレス。
歩くたびに水面が揺れるような輝きを放ち、まるで彼女自身が冷たい清流を纏っているかのような錯覚を抱かせる。
この俺、ライラは扇を優雅に閉じ、氷のように冷ややかな視線を周囲へ投げた。
隣では、泥の跳ね返りを気にして制服の裾を弄るエドワードが、彼女の姿を認めると、苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「……ふん。その格好で、今から始まる基礎練に耐えられると思っているのか。ここは学び舎であって、君の衣装部屋ではないのだぞ」
「あら。わたくしの装いに、場所など関係ありませんわ。……それよりエドワード様、その制服、少し皺が寄っておりますことよ?」
「――全員、並べ!」
アレクシア教官の怒号が、冷たい空気を切り裂いた。
「今日はまず、学院の外周を十周だ。騎士の基本は足腰。脱落した奴は朝食抜き、一分遅れるごとに腕立て百回を追加する!」
悲鳴に近いざわめきが広がる。外周は、起伏の激しい石畳と深い砂利道が続く過酷なコースだ。重厚なドレス、それも白銀の繊細な生地を纏った令嬢が走れるはずがない――誰もがそう確信していた。
「クロエラ、貴様もだ。……ハンデはやらんぞ」
「必要ありませんわ。わたくしの所作に、淀みなど存在しませんもの」
(外周十周か。ドレスを着たまま動くために、体力訓練は念入りにやった。問題ないはず)
走り始めて数分。生徒たちの嘲笑は、戦慄へと変わった。重い裾を翻し、砂利を蹴立てて走るライラの姿は、あまりに異質だった。
走っているのではない。まるで、滑らかな氷の上を滑走しているかのような流れる動き。上半身は微動だにせず、背筋は真っ直ぐ。
ドレスの重みを利用した独特の重心移動により、彼女の歩幅は他の騎士候補生を遥かに凌駕していた。
「な……なんだ、あの速さは……!?」
「ドレスを持ち上げてもいないのに、なぜあんなに速く……っ!」
(よし、三周目。……心肺機能も完璧だ。……おっと、エドワード君、もう脱落か? ……お洒落を維持するには、何よりスタミナが必要なんですわよ)
三十分後。
アレクシア教官の前に、最初に戻ってきたのは俺だった。乱れ一つない呼吸。一粒の汗も、白銀の裾に一点の汚れもない。
(皆意外と遅かったな。というより、このライラの身体、思ったより凄いのかも)
「十周、完了いたしましたわ。アレクシア先生」
俺は優雅に一礼し、自前のシルクのハンカチで、微かに湿った指先を軽く拭った。
アレクシアは、手元の時計と俺の足元を交互に見比べ、呆れたように、だが満足げに口角を上げた。
「……歴代最高記録。……そして、泥汚れはゼロ。貴様、本当に人間か?」
「最高の装いをしているのですもの。当然の結果ですわ」
遅れて次々と戻ってくる生徒たちは、地面に這いつくばり、激しく喘いでいる。最後に戻ってきたエドワードは、泥まみれの制服で膝をつき、俺を見上げた。
その圧倒的な美しき実力の前に、もはや反論の言葉さえ見つからないようだ。
朝練を終え、少し乱れた毛先を整えながら訓練場を後にしようとした時だった。
「……あの、失礼いたします」
遠慮がちな、だがどこか芯の通った透き通る声が響く。振り返ると、そこには剣術学部の無骨な空気とは対極にある、純白のローブを纏った一人の少女が立っていた。
光を帯びた柔らかな金髪。慈愛に満ちた大きな瞳。ノックスが車中で言っていた、魔術学部の特待生にして「聖女候補」――エリナ・フォン・テレアールだろう。彼女の背後には、既に彼女を守護する騎士気取りの男子生徒たちが数人、牽制するようにこちらを睨んでいた。
(まさしくヒロインみたいな子だな)
「わたくし、魔術学部のエリナと申します。……先ほどの御方の走られるお姿、あまりに神々しくて、ついお声をかけてしまいました」
エリナは頬を微かに染め、羨望の眼差しで俺の白銀のドレスを見つめている。
「……クロエラ男爵家のライラですわ。お褒めに預かり光栄ですこと、エリナ様」
俺は扇を閉じ、至極冷淡に、完璧な礼節をもって応じる。
「ライラ様のその……お召し物。激しい動きをなさった後だというのに、一筋の乱れも、一粒の汚れもないなんて。……まるで、奇跡を見ているようですわ!」
(……っ! ! 完璧にこのドレスの価値と俺の努力を理解してくれてる!これだよこれ!俺が学校に求めてたのは)
内面では、ガッツポーズを決めたいほどの歓喜が爆発していた。一着百二十G、さらに二ヶ月の血の滲むような修練。その結晶である機能美を、奇跡とまで。これほど報われる瞬間はない。
「エリナ様、あまり近寄らない方がよろしいかと。この女、アーノルド公爵令息を公然と辱めた、血も涙もない悪女だという噂です」
背後で聖女の取り巻きの男たちが、ヒソヒソと、だが俺の耳にははっきりと届く声で毒づく。俺は扇をパッと開き、口元を隠しながら、彼らには氷のような、だがエリナには極上の悦びを込めた微笑を向けた。
「ふふ。エリナ様、貴女はお目が高いですわね。……ええ、その通りですわ。このドレスは、空気の抵抗さえも計算し尽くされた、わたくしの誇り。それを『奇跡』と呼んでいただけるなんて。貴女、なかなか分かっておいでではありませんか」
声に、隠しきれない熱がこもる。冷淡な令嬢の仮面の下で、俺のテンションは最高潮に達していた。
「ライラ様……! はい、わたくし、あんなに美しい身のこなし、今まで一度も拝見したことがありませんわ!」
エリナの瞳が、キラキラとした尊敬の光で満たされる。一方で、取り巻きの男たちの「何だあの女、エリナ様をたぶらかして……」という嫉妬混じりの囁きも絶え間なく鼓膜を叩くが、今の俺にはそれすらも最高のBGMに聞こえる。
「エリナ様。貴女のような方に理解していただけて、このドレスも、そしてわたくしの努力も、今ようやく報われましたわ。……礼を言います。貴女のその言葉、大切に預かっておきますわ」
俺は優雅に、だが今までで一番、心からの一礼を捧げた。エリナは顔を上気させ、「は、はいっ! またお話しさせてくださいませ!」と嬉しそうに手を振って去っていく。
上機嫌で訓練場へ戻る俺。白銀のドレスを靡かせ、背後でブツブツ言っている男たちを気にもせず、俺は再び訓練場へと足を踏み入れた。
(エリナ、いい子だったな。是非お友達になりたい)
訓練場へと戻る俺の足取りは、羽が生えたように軽い。あのヒロイン属性最大のエリナに、このドレスを認められた。その事実だけで、財産を溶かした甲斐があったというもの。
「……ふふ」
思わず零れた笑みを扇で隠し、俺は再び整列の列に加わる。周囲の騎士候補生たちは、泥にまみれ、肩で息をしながら、涼しい顔で戻ってきた俺を怪物を見るような目で見つめていた。
(おっと、いけない。今は冷徹なライラ様だったな。……でも、あの子に褒められたのは本当に嬉しい。次は他のドレスを見せてやりたいな)
そんな俺の浮き立った心を見透かすように、教官のアレクシアが木剣の束を地面に放り出した。ガラガラと無機質な音が響き、訓練場の空気が一瞬で引き締まる。
「――休憩は終わりだ。基礎体力が歴代最高だろうと、実戦で使えなければただの飾りだ」
アレクシアの鋭い視線が、上機嫌な俺の方へと向けられた。
「クロエラ。貴様、よほど良いことがあったようだな。その浮ついた足捌き、実戦でも維持できるか試してやろう」
訓練場の中央に、数体の古びた木人形が並べられた。アレクシア教官は手にした木剣でそれらを指し示し、新入生たちを冷徹な目で見渡す。
「戦場では、止まっている敵などいない。だが、止まっている標的すら正確に貫けない者に、動く敵を斬る資格はない。一人ずつ前へ出ろ。三撃だ。急所を正確に叩け」
まずは、騎士を志す男子生徒たちが次々と名乗りを上げた。「はぁっ!」という威勢のいい掛け声とともに木剣が振るわれるが、重い防具や制服が仇となり、三撃目を放つ頃には重心がブレ、人形の肩や腕に当たるのが精一杯だ。
次に進み出たのは、エドワードだった。
彼は泥に汚れた制服をものともせず、鋭い踏み込みから三連撃を叩き込む。
「悪くない。だが、三撃目の引きが甘いな。実戦なら腕を掴まれているぞ」
アレクシアの厳しい評価に、エドワードは悔しげに唇を噛んで列に戻った。それでも、今のところ彼が最高得点であることは間違いない。
「次、クロエラ。行け」
(俺の番か、ノックスと二ヶ月訓練したんだ。きっと上手くいくはず)
俺は一歩前へ出ると、予備の木剣を一本、吸い付くような動作で拾い上げた。白銀のドレスが、俺の動きに合わせてサラサラと清流のような音を立てる。
「その格好で、まともに腰が入るのか?」
「ドレスを汚すのが怖くて、腰が引けるのが落ちだろ」
周囲から飛ぶ冷ややかな嘲笑。だが、俺が木人形の前に立ち、スッと目を細めた瞬間――。訓練場の空気が、物理的に凍り付いたかのような錯覚を全員に抱かせた。
「参りますわ」
一撃。木人形の喉元を、最短距離の突きが音もなく貫く。
二撃。突きから流れるような反転。ドレスの裾が円を描いて鮮やかに広がり、その遠心力を全て乗せた横一閃が、人形の胴を叩き折らんばかりの勢いで直撃した。
三撃。翻ったドレスが元に戻る力を利用し、下からの切り上げ。木剣が空気を裂く鋭い風切り音だけが残る。
三撃目が終わった瞬間、俺は元の姿勢に寸分狂わず戻っていた。白銀の裾は、まるで何事もなかったかのように静かに足元へ収まり、汚れはおろか、シワ一つ寄っていない。
「…………ッ!?」
訓練場に、重苦しいほどの沈黙が流れる。あまりの速さに、生徒たちの多くは何が起きたのかさえ理解できていない。ただ、木人形の喉、脇、こめかみに深く刻まれた、精密機械のような三つの打撃痕だけが、その異常な技術を物語っていた。
「な……んだ、今の。ドレスが邪魔になるどころか、あの裾の広がりを利用して回転速度を上げたのか……?」
エドワードが呆然と呟く。彼のような手練れには見えたのだ。ライラが剣を振る際、ドレスの重さを計算に入れ、それを錘として利用することで、常人では不可能な転回速度を実現していたことを。
「……歴代、いや、私が知る限り最高の精度だ」
アレクシア教官が、初めて驚きを隠さずに声を漏らした。
「わたくし、お洒落のためなら、死ぬこと以外は何でもいたしますわ。この程度、当然の結果ですこと」
(あのアレクシア先生が驚いてる!?俺の、いや、ライラの身体って本当に凄いのかも……)
訓練場に漂う戦慄と沈黙。それを打ち消すように、アレクシア教官が重厚な足音を鳴らして歩み出た。
「――訓練終了! 各自、泥を落としてから教室へ戻れ。明日からは屋外演習場での対人実技に入る。覚悟しておけ」
低く、地響きのように響くその宣告を合図に、生徒たちが蜘蛛の子を散らすように動き始める。
俺は白銀の裾を優雅に捌き、一人出口へと向かった。背後では、数人の取り巻きを引き連れたエドワードが、木剣を握りしめたまま、石像のように固まっているのが見えた。
だが、エドワードの瞳に宿ったのは、潔い敗北感ではなかった。それは、プライドをズタズタにされたエリート特有の、どろりとした粘りつくような執念。
「……認めん。あんなものは、剣術ではない」
エドワードは、取り巻きたちにしか聞こえない微かな掠れ声で吐き捨てた。
「あいつは、魔道具か何かでドレスを操作しているに違いない。アーノルド公爵家の名にかけて、あのまやかしを暴いてやる」
「エドワード様、いかがなさいますか?」
取り巻きの一人が、顔色を伺うように耳打ちする。エドワードは、俺の背中を、まるで呪いでもかけるかのような暗い眼差しで見つめながら、口角を歪に吊り上げた。
「今日は雲行きが怪しい。明日の演習場は、雨で泥だらけになるだろうな。……クロエラ。貴様がどれだけ速かろうと、その自慢のドレスが真っ黒な泥に染まった時、それでも同じ口が叩けるか試してやろう」
「なるほど……。あのプライドの高い女から、拠り所を奪うというわけですな」
(おっと、背中が少しムズムズするな。……)
俺は角を曲がる直前、チラリと後ろを振り返った。
そこには、陰湿な算段を立てているであろうエドワードたちの影。
(ふふ、受けて立とうじゃないか)
翌朝、屋外演習場。
エドワードたちは、昨夜の雨で無残にぬかるんだ地面を眺め、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「……ふふ、これならどれほど素早く動こうと、一歩踏み込むたびに泥が跳ね、その白銀の布切れを汚濁に染め上げるだろう。汚れたドレスで狼狽えるクロエラ……実に楽しみだ」
取り巻きたちと陰湿な高笑いを上げながら演習場に足を踏み入れた彼らは、しかし、その直後に目を剥いて硬直した。
「な……んだ、これは……!?」
そこにあったのは、ぬかるんだ土の地面ではなかった。演習場の中央、対人スパーリングが行われるであろう広大な範囲が、一夜にして見事な石畳へと変貌を遂げていた。




