第十八話
「な……貴様、自分が誰に対してその不敬な真似を……っ!」
少年は喉元に添えられた扇の感触に、一瞬だけ呼吸を忘れたようだった。周囲の喧騒が嘘のように引き、静寂が講堂を支配する。
「不敬、ですか?」
俺は扇を喉元に添えたまま、わざとらしく、冷たく微笑んで見せた。至近距離で対峙するエドワードの瞳が、驚愕に揺れるのが手に取るように分かる。
「名も知らぬ方に敬意を払うほどの余裕は、あいにく持ち合わせておりませんの。ノックス、この方はどちらのどなた?」
あえて本人を視界に入れず、背後の執事に問いかける。
「アーノルド公爵家の嫡男、エドワード・テリア・アーノルド様でございます。ライラ様」
「存じ上げませんでしたわ。わたくしの記憶にある公爵という地位は、もう少し、立ち居振る舞いに品があったはずですけれど」
俺はゆっくりと扇を引き、今度はじろりとエドワードの全身を、値踏みするように見つめた。氷のような視線と、変色ドレスが放つ人知を超えた輝き。そして何より、お嬢様フィルターのかかった静かな威圧感。
「ひっ……」
エドワードが短く息を呑み、思わず半歩後退りした。怒りで顔を赤くするどころか、彼はあまりの美しさと底の見えなさに気圧され、言葉を失っている。腰の剣に手をかける勇気さえ、今の彼には残っていないようだった。
(よし、完全にこちらのペースだ。お嬢様フィルターは今日も絶好調)
「――そこまでだ」
低く、しかし逆らえない威圧感を持った声が講堂に響き渡った。壇上にいたアレクシア先生だ。彼女は腕を組んだまま、鋭い眼光で俺たちを見下ろしている。
「アーノルド。式典の場で立ち往生してどうする。公爵家の名が泣くぞ。……それと、クロエラ男爵」
アレクシアの視線が、俺のドレスを射抜く。
「ここは社交界ではない。剣術学部の生徒なら、口より先に身体を動かせ。……一時間後、第一訓練場だ。遅れた奴は、その場で不合格にする」
先生はそれだけ言い捨てると、背を向けて去っていった。エドワードはようやく呪縛が解けたように激しく呼吸を整え、震える指先で俺を指した。
「覚えておけよ、クロエラ。次の訓練、その無駄に派手な布切れがどれだけ実戦で役に立たないか……思い知らせてやる!」
負け惜しみのような台詞を吐き捨て、彼は逃げるように去っていった。
「楽しみにしておりますわ、エドワード様」
俺は背を向けた彼に、最後の一撃を放つ。
「……わたくしのドレスを汚すには、あなたのその剣、少しばかり覚悟が足りないようですわよ」
講堂を後にし、第一訓練場へと向かう静かな廊下。
背後でエドワードたちの騒がしい足音が遠のいたのを見計らったかのように、脇のテラスから一人の影が音もなく現れた。
「……見事な威圧感だったな、ライラ」
聞き覚えのある、余裕に満ちた低い声。振り返ると、そこには在校生代表の挨拶を終えたばかりの第一王子、アルベルト・ルイス・ローゼンが手すりに背を預けて立っていた。
取り巻きも騎士も連れず、ただ一人。
「アルベルト殿下。盗み見とは、悪趣味ですわね」
俺は立ち止まり、扇を閉じて冷淡な視線を送る。
「人聞きの悪い。私はただ、我が国の美しき宝石が、公爵家の御曹司に砕かれないか心配していただけだ。もっとも、案ずる必要はなかったようだが」
アルベルトは一歩、こちらへ歩み寄る。彼の視線は、俺の纏うドレスの複雑な輝きをなぞり、最後に腰の竜剣で止まった。
「君のその立ち居振る舞い、そして先ほど放った圧。死線を潜り抜けた剣客のそれだ。男爵領で一体、どんなお洒落な特訓をしていたんだ?」
「わたくし、美しさを維持するためには努力を惜しみませんの。殿下が仰るような野蛮な真似など、覚えがございませんわ」
俺は表情一つ変えず、氷のような微笑を返す。
アルベルトは楽しげに喉を鳴らして笑った。
「くくっ、あくまでシラを切り通すか。いいだろう。だが、これだけは警告しておく。エドワードは、議会派が王家に突きつけた矛だ。君が彼をあそこで完全に圧したことで、奴らは君を単なる成金ではなく、明確な脅威と見なすだろう」
アルベルトの瞳が、一瞬だけ鋭いの光を帯びる。
「……利用されるなよ、ライラ。君のその美しさと力は、あまりに目立ちすぎる。私の手の届かないところで、勝手に壊れるのは許さない」
「ご心配なく。わたくしを壊せるものなど、この世界には存在しませんわ」
俺は傲岸不遜な態度を崩さず、彼を追い越して歩き出す。すれ違いざま、アルベルトが耳元で小さく囁いた。
「……期待している。アレクシアの洗礼、ドレスを汚さずに生き残ってみせろ」
(俺はただ、快適に、美しく、お洒落なドレスを見せびらかしたいだけなのに……)
※ ※ ※ ※
一時間後。門前でノックスと別れ、第一訓練場へと向かう。訓練には既に、剣術学部の新入生たちが整列していた。
板張りの床に響く俺の靴音と、ドレスが擦れる微かな衣擦れの音。それだけで、先ほどの大講堂と同じような、刺すような静寂が場を支配する。
「遅いとは言わん。……が、その格好で剣を振る気満々なら、肩透かしを食らわせて悪いな。今日は実技演習は行わない」
アレクシア先生が腕を組んだまま、冷淡に告げた。
周囲の生徒たちから、安堵と落胆が入り混じった溜息が漏れる。
「今日は顔合わせと自己紹介。そして、この学部の『ルール』を叩き込むだけだ」
アレクシア先生が鋭い眼光で全員を見渡す。
「いいか。剣術学部は、王家の盾であり、民の剣となる者を育てる場所だ。……だが、それ以前にここは、己の『弱さ』と向き合う場所でもある。家柄も、魔力の有無も、ここでは二の次だ。動けるか、動けないか。それだけが価値基準だ」
「では、端から順に名乗れ。クロエラ、貴様からだ」
俺は一歩前へ出て、扇を口元で広げる。
「ライラ・ゼーレ・クロエラと申します。男爵家の身分を賜っておりますわ」
扇をパッと閉じ、冷淡な、しかし有無を言わせぬ美貌を周囲に向けた。
「……わたくしがここへ参りましたのは、美しさと強さが矛盾せぬことを証明するため。……泥に塗れるばかりが剣術ではありませんわ。わたくしのドレスを一ミリも汚すことのできぬ未熟な刃など、わたくしの前では無価値ですこと」
――「っ……!」
エドワードが顔を引き攣らせ、整列していた他の新入生たちが、一斉に息を呑んだ。藍色の変色ベルベットが月光を反射するように煌めき。傲岸不遜な、しかし圧倒的な格の差を感じさせる言葉に、反論する勇気など、誰にも残されていないようだった。
「一ミリも、か。大きく出たな」
アレクシア先生が、面白そうに口角を上げた。
「いいだろう。その言葉、明日からの鍛錬で嫌というほど試してやる。……次!」
※ ※ ※ ※
第一訓練場の隅。エドワード・テリア・アーノルドは、無意識に自分の右手を強く握りしめていた。
指先が微かに震えている。怒りのせいだと思いたいが、胸の奥で警鐘を鳴らす本能が、それが畏怖であることを告げていた。
(……馬鹿な。あんなふざけた娘に、この俺がおし黙らされるなど)
エドワードにとって、剣とは血筋と鍛錬の結晶だ。幼少期から王国最高の師範に学び、公爵家の名に恥じぬ正義の剣を叩き込まれてきた。
対して、目の前のライラ・クロエラはどうだ。戦場に似つかわしくない、夜会のようなドレス。宝石を散りばめた虚飾の象徴。
本来なら、一瞥して切り捨てるべき道端の小石に過ぎない存在のはず。
――だが。
(……あの目だ。氷よりも冷たく、こちらの動きのすべてを見透かしているような、あの瞳)
先ほど大講堂で、彼女が至近距離に踏み込んだ瞬間。エドワードは確かに感じたのだ。自分を包囲する圧倒的な「死」の気配を。
彼女のドレスが揺れるたび、そこには一切の隙がなく、逆にこちらの急所が晒されているような錯覚。名門アーノルド家の剣技をもってしても、一太刀たりとも届かないのではないかという、根源的な恐怖。
「エドワード様、大丈夫ですか? 顔色が優れませんが」
取り巻きの令息が案じるように声をかけるが、エドワードはそれを跳ね除けるように一歩前へ出た。
(認めぬ。あんなものは、魔導具による紛い物の威圧に過ぎん。あるいは、男爵家の成金が揃えた見栄えだけの虚勢だ)
彼は自分に言い聞かせるように、腰の訓練用剣の柄を強く握り直す。だが、その視線の先で。
「ライラ・ゼーレ・クロエラと申します」
冷淡な声が訓練場に響き渡った瞬間、エドワードはまたしても息を呑んだ。光を吸い込む藍色のベルベット。傲岸不遜な宣言。そして、それらを「正解」だと思わせてしまう、残酷なまでの美しさ。
「……一ミリも汚させない、だと?」
エドワードの唇が、悔しさと、そして抑えきれない高揚感に震える。
(ならば、俺が暴いてやろう。その化けの皮を剥ぎ、そのドレスが泥に塗れた時……貴様がどんな顔で這いつくばるのかをな)
エリートとしての自尊心が、ライラという未知の強敵を前に、歪な執着へと変質していく。
エドワードにとって、この学院生活は単なる学びの場ではなく、ライラ・クロエラという絶対的な美学を打ち破るための戦場へと変わった。




