第十話
五万Gの追加投資を二つ返事で決めた夜。俺はクロエラ邸のテラスで、一瓶十Gもする最高級のヴィンテージ・ワインを片手に、夜光に当たっていた。
(……冷静になれ俺。126,797 G。まだ余裕はある。だが、このペースで王立魔導院と『共同開発』なんてブーストをかけ続けたら、あっという間に底をつく。……お洒落勢として、常に財布の厚みは維持しないとな)
クリスタルグラスの中で揺れる液体は、月光を透かして吸い込まれるような深紅を呈している。一口含めば、完熟した果実の濃厚な甘みが舌の上でほどけ、追って湿った森の土や、古い書物を思わせる複雑な芳香が鼻腔を突き抜けていく。喉を通る際の滑らかな質感が、十Gという「高貴な重み」を改めて実感させた。
「ライラ様。……お楽しみのところ失礼いたしますが、お客様です。いえ、影がようやく実体を結びました」
ノックスの声と同時に、テラスの欄干に音もなく一人の男が降り立った。全身を夜に溶けるような黒装束で包んだ、細身の男。その瞳だけが、仮面の隙間から不気味な光を放っている。
「失礼。王家直属の『ゼーレ』を冠する男爵閣下にご挨拶を、と思いましてね」
男の声は、湿った土のような低さだった。闇市でライラに執着を見せた不気味な男の放った刺客だろう。
「あら。わたくしの夜の安らぎを乱す不作法なネズミ。ノックス、掃除をなさい」
俺はお嬢様フィルター全開で、冷たく言い放つ。ノックスが銀糸を指先に走らせた瞬間、刺客はクスクスと笑った。
「おっと、手出しは無用だ。主からの伝言ですよ。『そのドレスが完成した暁には、私が貴女をこの国から掠い、世界で最も贅沢な牢獄へ招待しよう』と」
(誘拐宣言か⋯⋯こっちは夜会でお披露目するのが目的なんだよ!)
「掠う? ……ふふ、笑わせないで。わたくしを飾る権利すら持たぬ者に、わたくしを閉じ込める場所などこの世にはございませんわ。……消えなさい」
俺はワインの最後の一滴を飲み干し、空になったグラスを机に置いた。ノックスの銀糸が弾け、刺客の肩口を掠める。男は驚いたように目を見開き、一瞬で夜の闇へと消えていった。
「……追いますか、ライラ様?」
「いいえ、捨て置きなさい。……それよりもノックス。わたくしの資産をさらに『増殖』させる計画の進捗はどうかしら? 贅沢を続けるには、絶えず湧き出る泉が必要よ」
「心得ております。ライラ様の命により、商業ギルドの競合他社へ期間限定で『魔導銀のライセンス供与』を行う件。男爵位の威光もあり、ギルド長が契約書を持ってまいりました。契約金として、四万Gが即金で振り込まれます」
(よっしゃ! ライセンスビジネス最強!)
さらに、ノックスは別の明細を差し出した。
「それと、オーレルの工房で魔導銀を精錬した際に出た銀の残滓。これをミラさんのお店に卸したところ、魔力の伝導率が極めて高い化粧品の基材として、美容ギルドが高値で買い取りました。こちらの売却益、一万五千Gでございます」
(捨てるはずの精錬カスが、高級コスメの材料として一万五千Gに化けた!?)
「一万五千……? ……ふん、端した金ですわね。ですが、わたくしのドレスの『おこぼれ』を民草が喜ぶ対価としては、妥当かもしれませんわ。……受理なさい」
これで所持金は181,797 Gまで回復
「ふふ。少しはマシな数字になってきましたわね。さあ、ノックス。この増えた金で、王立宝物庫へ『予約』を入れなさい。……アルベルト殿下に、わたくしの真の贅沢を叩き込んで差し上げなくては」
※ ※ ※ ※
王宮の地下深く。幾重もの結界と、魔導騎士たちの冷徹な視線をくぐり抜けた先に、その扉はあった。重厚なミスリル合金の扉が、地響きを立ててゆっくりと左右に開かれる。
「……約束通り、案内しよう。ライラ・ゼーレ・クロエラ男爵」
前を歩くアルベルト・ルイス・ローゼンが、振り返りもせずに告げた。彼の背中越しに広がる光景に、俺は思わずお嬢様フィルターを忘れて絶句しそうになる。
そこは、光の洪水だった。棚には、数千年前の聖遺物が無造作に並べられ、天井からは伝説上の魔獣の皮が、まるでただの防寒具のように吊り下げられている。床に積まれた金貨の山など、ここでは単なる足場に過ぎない。
「ここにあるものは、ローゼン王家が建国以来、数多の戦と外交で積み上げてきた歴史そのものだ。……さあ、選ぶがいい。お前のその強欲な目を満足させる『素材』が、この中にあるのならな」
アルベルトが皮肉げな笑みを浮かべ、俺に道を開ける。俺は、三百Gのドレスの裾を優雅に捌き、ゆっくりと宝物庫の深部へと歩みを進めた。
(落ち着け。ここでただ高いものを選んでも、お洒落勢としては二流だ。俺が今求めているのは、オーレルのドレスを『完成』させるための、最後の一片!)
棚に並ぶ竜の逆鱗や不死鳥の羽を、俺は一瞥して通り過ぎた。
「あら。殿下、随分と……埃を被ったものばかりですのね。わたくしのクローゼットに入れるには、少しばかり時代遅れが過ぎるようですわ」
「……何だと?」
アルベルトの眉が不快そうに跳ねる。だが、俺の目は、部屋の最奥、厳重なガラスケースの中に鎮座する「一つの石」に釘付けになっていた。
それは、石というよりは、凝縮された「夜」そのものに見える。
「これですわ。殿下」
「正気か? それは『虚空の涙』。かつて伝説の魔導師が、星の死に際を結晶化させたと言われる触媒だ。あまりに魔力が強すぎて、触れる者すべての精神を汚染する。素材として使うなど、狂気の沙汰だぞ」
アルベルトの声に、本気の警告が混じる。だが、俺には見えていた。この石の放つ、吸い込まれるような漆黒の輝きが、魔導銀の銀色と月光の糸の白を、一気に芸術へと昇華させる未来が。
「狂気? ……ふふ、殿下。お洒落とは、いつだって正気の側にあるものではございませんわ。この漆黒の雫をドレスの胸元に据えれば……わたくしが歩くたび、この世界の光はすべて、わたくしという深淵に呑み込まれることでしょう」
俺はガラスケースに指を這わせ、アルベルトを挑発するように微笑んだ。
「これこそ、クロエラ男爵の称号に相応しい遊び。頂戴いたしますわ。殿下との約束……高くつきましたわね?」
アルベルトの顔から、余裕が消える。
「……約束、か。いいだろう。持っていくがいい。ただしライラ、これは王家からの恩赦だと思え。その石に呑み込まれ、夜会で無様な姿を見せることだけは許さんぞ」
なるほど。アルベルトは、王家の貸しを作ることで、俺をコントロール下に置こうという腹積もりらしい。
(……恩赦? 冗談じゃない。ここでタダで貰ったら、一生王子の言いなり?そんなの、俺の自由な散財ライフの邪魔でしかないよ!)
俺は扇をパッと閉じ、アルベルトの視線を真っ向から跳ね返した。
「あら。……勘違いなさらないで、殿下。わたくし、施しを受けるほど落ちぶれてはおりませんの。……ノックス」
「御意」
ノックスが懐から、商業ギルド発行の最高額面・無記名小切手を取り出し、アルベルトの目の前にある台座へと置いた。
「……これは何だ?」
「三万G。……この『虚空の涙』の、わたくしなりの鑑定額ですわ」
( これで所持金は151,797 Gに逆戻りだ。だが、これでこの石は完全に俺の所有物になる!)
「三万Gだと……!? 貴様、王家の秘宝に値をつけるというのか!?」
アルベルトの声が怒りと驚愕で震える。周囲の魔導騎士たちも、殺気立って剣の柄に手をかけた。
「ええ。わたくしにとって、対価を払わぬ美など、ただの借り物に過ぎませんの。……殿下。これは『寄付金』として、王立騎士団の維持費にでもお使いなさい。わたくしは、この石を『買った』。……それだけのことですわ」
俺は、凍りついた空気の中、平然とガラスケースから『虚空の涙』を手に取った。触れた瞬間、意識を削り取るような冷気が指先から伝わってくるが、お嬢様フィルターがそれを「心地よい刺激」へと変換する。
「三万Gを叩きつけ、国宝を買い叩くか。……ライラ・ゼーレ・クロエラ。お前は、どこまで私を驚かせれば気が済むのだ」
アルベルトは、呆れたように、しかし隠しきれない賞賛を瞳に宿して息を吐いた。
「いいだろう。その金、確かに受け取った。……これでお前は、王家に対しても『対等な取引相手』というわけだ。……だが、忘れるな。三万Gの対価は、その石を使いこなして初めて成立する。夜会で石に呑まれれば、その金ごと笑い草だぞ」
「ふふ。笑わせるのは、わたくしのドレスに魅了された皆様の方ですわ。……それでは、ごめん遊ばせ」
俺は、王子の鼻を明かした満足感と共に、悠々と宝物庫を後にした。




