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鏡向こうの月

作者: 羽埜 和沙
掲載日:2026/02/09

病気や怪我の描写を含みます。苦手な方はご遠慮ください。

 

凪月(なつき)咲月(さつき)


 もしもあの時、オレがもっと必死になって引き止めていたら。

 同じ想いが、何度も頭の中を巡っては消える。そしてまたそれは、いつの間にか同じ場所を漂い始める。

 オレと同じ顔をしたお前は、随分と長い間、底のない深い眠りに沈んだままだ。

 

 いくら後悔をしても、取り返しはつかなくて、もう遅い。忘れられない、忘れていいはずがない後悔は、オレの心に複雑に絡みついている。

 そうしてオレは、オレたちの一日を始める。



「いいなぁ、凪月。オレもそっちが良かった」

「どうして?」

「いつも言ってるだろ。凪月の方が、男らしくてかっこいい」

「そんなことない。咲月だって、かっこいいよ」

  咲月はテーブルに頬杖をついて膨れている。ボクたちの目の前には、二枚の卒業証書が並んでいた。


「オレより少しだけ早く産まれたからって、ずるいよな」

 ボクの否定など聞き流して、咲月はボクの名前を指でなぞった。

「そんなに変わらないって、ボクもいつも言ってるよね」

「全然違うよ。凪月は女子と間違えられたこと、ないだろ」

 咲月はいつもそう言い張る。実際のところ、ボクも何度か同じ経験をしている。けれど、今それを言い返したところで、咲月は余計に燃えるだけなので止めておく。


「咲月の方が、かっこいいよ」

 これは、本心だ。

 顔も、声も、同じだけれど、双子のボクたちの性格はまるで違う。

 咲月は、さっぱりしていて、思い切りが良くて、男らしい。ボクの前ではいつまでも弟だけれど、外では案外しっかりしているらしい。これは、咲月のクラスメイトから聞いた話だ。

 ボクの方は、何かと慎重で臆病で、立ち止まることが多いし、考え込むことも多い。咲月の前でだけは、兄らしくゆったり構えてみる。でもそれは、ほんの少しだ。


 凪月と咲月。ボクからすれば、どちらも似たような名前だと思う。何故か咲月は幼い頃から、自分の名前に強い劣等感を抱いているようだった。

 けれどもしかするとその感情は、名前だけが理由ではないことを、ボクは知っている。それは、小学生の頃の記憶だ。



「今日学校で、さっちゃんって呼ばれた。ボク、嫌だよ」

 ある日の小学校からの帰り道、咲月は頬を膨らませた。

「ボクだって、なっちゃんって呼ばれるよ」

「ボクも、凪月が良かったなぁ」

「二人で同じ名前?」

「うん。いいじゃん、それでも」

「良くないと思うけど」

「だめかなぁ」

 ボクが呆れて笑えば、咲月も諦めたように笑った。


「はは……、けほっ」

 咲月の笑い声が、咳込みで途切れる。

「大丈夫?」

「ん、平気」

「やっぱり、今日もお休みした方が良かったんだよ」

「少し咳が出るだけ。もう元気だって。ほら、早く帰ろうよ」

 そう言って、咲月は駆け出した。

「ちょっと咲月、走ったらだめ……!」

 ボクが慌てて後を追っても、咲月のランドセルはどんどん小さくなっていった。



「咲月、強くなったよね」

 ボクも、咲月の名前を指でなぞりながら呟いた。きっと咲月は、生まれながらのハンデにも引け目があるのだと思う。あの頃も、今も変わらずに。

 哀愁を含んだボクの声に違和感を覚えたのか、隣で咲月は不思議な顔をする。

「なに、急に」

「昔はよく、体調崩して、学校も中々行けなくてさ」

「子どもの頃の話だろ」

 咲月はボクよりも身体が小さくて、よく風邪も引いた。少し無理をすればすぐに息が苦しくなって、学校を休みがちなことも、病院に連れて行かれることも当たり前だった。

 心臓に抱える持病はなくなった訳ではないけれど、薬のおかげで症状はある程度コントロール出来ている。もうしばらく、発作を起こす姿も見ていない。


「凪月と別々になるなんて、変な感じだな」

「そうだね」

 ボクたちは揃って、口を噤んだ。今日、高校を卒業して、来月からは別の大学に通うことになる。何をするにも一緒だったボクたちは、人生で初めて違う道を歩み始める。

 そうは言っても、別に住む場所が変わる訳ではない。ボクと咲月の生活は、学び舎が別になること以外、今と何も変わらない。       

「楽しいといいね、大学」

「オレがいないと、すっきりしていいんじゃない」

 咲月は、軽く笑った。どこに真意があるのか、ボクには分からない。

「咲月。それ、本気で言ってる?」

 思ったよりも自分の声は冷たくて、すぐに後悔をする。

「ごめん。でも、冗談でもそんなこと──」

「うん。分かってる。ごめん」

 言葉にしなくても、お互いが考えていることはすぐに分かる。顔を見なくても、声を聞かなくても、例え隣にいなくても、それは子どもの頃から、不思議といつもそうだった。


 ボクたちは、これからも同じ時間を一緒に進んでいく。

 このときは本当に、そう思っていた。



賢太朗(けんたろう)と咲月】


 大学に入学してすぐの頃、俺は咲月と出逢った。


「賢太朗っていうの?名前」

「うん。そうだけど」

 これが、俺たちの最初の会話だ。たまたま隣の席に座っていた咲月は、俺のプリント用紙に書かれた名前に視線を向けながら、そう声をかけてきた。


 初手にしてはだいぶ砕けた口振りで、俺はしっかり戸惑ったことを思い出す。普段なら無視をしていたと思う。けれどそうしなかったのは、咲月の纏う雰囲気に、俺が単純に惹かれたからだ。

 同じクラスにいれば先頭を行くような、咲月はそんなタイプに思えた。

 素直で明るい振る舞いは、男女問わず周囲を巻き込む。それでいて、普段はあまり誰とも群れない。周りに気を遣われがちな俺には、そんな咲月がかっこよく思えて、声をかけられたことが素直に嬉しかった。


 このやり取りをきっかけに、咲月と俺は、顔を合わせれば決まって言葉を交わす程度の仲になった。付かず離れず、その距離感が心地良い。



「先週休んでたろ。どうした?」

 俺たちは、互いの連絡先も知らない。限られた講義の教室で会うことも、決まったことではなくて気まぐれだ。それでも、一週間も続けて咲月の姿を見なかったことは珍しくて、俺は挨拶もそこそこに尋ねてしまった。

「おはよう、賢太朗」

「あ、おはよう」

「先週はちょっと家の用事で。講義、どんな感じ?」

 話題はすぐに逸らされて、それ以上踏み込むことが躊躇われた。俺たちの仲は所詮、顔見知り程度だ。


「ノート、見る?」

「うん。そうしてもらえたら、助かる」 

 ありがとう、と言いながら、咲月は俺が差し出したノートを受け取った。そして俺はそのまま、咲月の顔をじっと見つめる。期待していた瞬間は、すぐに訪れた。

「ふふっ、お前これ、なに?」

 吹き出すように崩れた表情は、俺の狙い通りだ。

「それ、咲月」

「これがオレ?どういうこと」

 笑った咲月は、俺のノートの端っこを指差した。丸い円の中に顔を描いて、その周りにはいくつかの花を咲かせた。円の傍には吹き出しを付け足して、『咲月、久しぶり。元気?』と言わせておいた。全部、俺が講義中に描いたらくがきだ。


「丸が月、満月。周りのは花。だから、咲月」

「オレが、オレに、元気?って聞いてるのか」

「まあ、いいだろ。細かいことは。咲月がいなくて、暇だったんだよ」

「聞いてもよく分かんないや。へんなの」

 そう言って、咲月は呆れたようにまた笑ってくれた。咲月と俺の距離が、少しだけ近くなった気がした。俺が用意した仕掛けは、間違いなく成功だった。そうして俺は、気が置けない友人を手に入れた。


 咲月が知人から友人に変わって、閉鎖的だった俺の大学生活は色付いた。

「今日お昼は?学食行く?」

「このあと予定ないから、どこか寄ろうよ」

 どちらからともなく、毎日自然とそんな会話が生まれる。俺の傍には、いつも咲月がいた。

 もちろん連絡先も交換した。そういえば俺たち、連絡先知らないな、なんて、そのときは笑い合ったことを思い出す。


 お互いのことは、正直なところよく知らないままだ。俺は詮索されることがあまり得意ではないし、そこに関しては咲月も同じように思えた。自分から話したくないことは、不必要に深掘りしないに限る。


 だから咲月は、俺が常に車椅子の上にいる理由を知らない。



 小学校高学年の頃、俺は事故に遭って足が動かなくなった。誰も悪くない、どうしようもない事故だった。

 それでも、父さんも母さんも自分たちを責めた。俺も、自分自身を今だって責め続けている。

 あのとき俺がもう少し子どもだったら、きっと事故の記憶は朧げで済んだのだろうと思う。後悔をする気持ちも同じだ。けれど残念なことに、あの衝撃も痛みも、全てが鮮明に悲しい記憶として残り続けている。


 流行病で高熱に浮かされていた俺は、家に一人で寝込んでいた。父さんは仕事で、母さんは近所のスーパーに出かけたところだった。

「すぐに戻るから」

 そう言った母さんに、布団を直された。玄関のドアが閉まる音を遠くに聞いて、俺はそのまま眠りに落ちたはずだった。そうなっていれば良かったのに、と思う。


 目を閉じようとして窓の外に、きっと同じ小学生くらいの男の子たちが名前を呼び合う声が響いた。外を走り回れることが羨ましくて、俺はぼうっとしたまま、ふらふらと窓の傍に近付いた──ところから、次に病院のベッドの上で目が覚めたところに、俺の記憶は飛ぶ。

 だから、この先の話は俺が母さんから聞いた記憶だ。


 俺はパジャマ姿で道端に倒れていたらしい。家はマンションの四階で、落ちて来た俺に気が付いた通行人たちが、俺を助けてくれたらしい。もちろん意識はない。呼吸は止まってしまいそうなほどに弱くて、身体からは血が流れていた。両足は複雑な格好に曲がってしまっていた。


 買い物から戻った母さんは、ちょうど救急車に乗せられる俺を見つけた。変わり果てた俺を前にして、母さんも血の気が引いて、頭が真っ白になった。

 これが事故当時の俺。でも、そう話して聞かせてくれた母さん自身も、正直そのときのことはあまり覚えていないらしい。


 病院で意識を取り戻した俺が、事の重大さを感じるまでには、そう時間がかからなかった。

 全身の至るところが痛んで、見たこともない機械が横たわる俺の周りを囲んでいた。身に覚えのない、もちろん経験したことのない状況に、俺は得体の知れない恐怖に支配された。

 当たり前のように身体は動かせない。下半身の感覚がない違和感は気持ちが悪くて、俺は泣いた。



 入院生活は長くなった。特に、毎日のリハビリが辛かった。

「賢太朗くん。今日は車椅子からベッドに戻る練習をしようね」

「今日からは、車椅子を操作する練習も始めてみようか」

 リハビリの時間になると病室を訪ねてくるスタッフの言葉が、俺はいまいち理解出来ずにいた。


「歩く練習は、いつ始まるの?」

 何の疑いもなくそう知りたがった俺に、スタッフは悲しい顔をした。何故そんな反応をされるのか、不思議だった。結局、答えは曖昧にはぐらかされて、俺は同じ質問を母さんに投げかけた。その日の夜、それはちょうど、面会時間が終わる頃だった。


「ねえ母さん。リハビリの人が、車椅子の練習しかしてくれないんだ。歩けるのはいつだろう。まだ、怪我が良くならないからかなぁ」

 そう言って俺は、自分の足に触れた。冷たいとか熱いとか、痛いとかくすぐったいとか、俺の足は何も感じてくれない。

「触ってみても、まだ分からないんだ。いつ治るのかな」

 いつかの回復を信じていた俺は、母さんの目に、とんでもなく傷ましく見えたのだろうと思う。

「……ごめんね。ごめんね、賢太朗……母さんのせいで……」

 母さんはいつまでも、いつまでも、泣いていた。もう二度と歩けるようにならない悲しさは、母さんを泣かせてしまった後悔で上書きされた。


 足が不自由なこと、排泄行動に障がいが残ったこと。転落の衝撃で、下半身に繋がる神経が傷付いてしまった代償は大きかった。けれど、ほかに目立った後遺症は残らなくて、命が助かったこと自体、奇跡だ。

 普通に生活することが難しくなった身体に絶望するたび、俺は自分にそう言い聞かせた。



「手伝う?」

「ううん。自分で行ける」

 車椅子生活も十年近くとなれば、日常生活に困ることはほぼない。少しの坂道や小さな段差も、俺には全く気にならない。

それでも咲月は、何かと気にかけてくれることが多い。

「すごいな。なんでも出来るんだ」

「こいつが俺の足になって、もう長いからね」

 俺は自分が座る電動車椅子を撫でながら、そう言った。

「そっか」

 咲月はただそれだけ呟いて、微笑んだ。同情も憐れみも向けられなかったのは、初めてだった。咲月と友達になれて良かったと、素直に思う。


「今日はなに食べる?」

「オレはハンバーグセット。お前は?」

「生姜焼き定食」

「好きだな、それ」

「咲月もだろ。いつもそれ。飽きないの」

「安くて、美味い。それにオレは洋食派だから」

 よく通うようになった学食は、咲月が言う通り、メニューが豊富なうえに安い。それでも俺たちは、いつも同じメニューを選ぶ。

「運ぶの手伝う?」

「ううん。平気」

 俺は自分の分のトレイを膝の上に乗せた。片手で支えていれば、空いている方の手で車椅子の操作は難なく出来る。

 食事のときも、咲月は必ずこうして俺の様子を伺った。毎日、俺は同じ反応を返す。それでもこのやり取りは、きっと明日も繰り返される。


 咲月は必ず、食後にいくつかの薬を飲む。

「体調悪いの?」

 初めてそれを目の当たりにしたときは、どこか痛むのかと訝しんで、そう尋ねてしまったことを思い出す。

「違うよ。いつものやつ」

 一粒ではないそれを水で流し込んでから、咲月は笑った。この会話は、これで終わりだという合図に受け取れた。

 話したくない、触れられたくない事情なんて、誰にだってきっと山ほどある。俺もそうだ。友人というだけで、それを侵して良いことにはならない。

 だからこれ以来、俺は咲月の習慣に目隠しをしている。



 咲月がまた、学校を休んでいる。今日でもう一週間になる。

 連絡先を交換したからといって、特に何かを話す訳でもなくて、俺たちは普段から全く連絡を取り合うことがない。

 だから今さら、「明日は学校来れる?」なんて、聞いてはいけない気がした。踏み込まれてしまって、お互いに生じる後悔や嫌悪を、俺は嫌というくらいに経験してきたから。


 俺は毎日、自分のノートの端っこに満月と花を描いた。咲月と会わない日にちの分だけ、同じらくがきが連なっていく。

 もしかしたら、もう咲月とは会えないのかもしれない。このまま卒業する日まで、俺は咲月の影を探しながら、この日課を繰り返していくのかもしれない。友人を持てたことも、学生生活が楽しくなったことも、全部は自分だけの幻想だったのかもしれない。

 そう思い始めた頃、咲月との再会は唐突に訪れた。


「おはよう。咲月」

「うん、おはよう」

 隣の席に落ち着いた咲月の挨拶は、少し緊張しているように感じた。

「どうして休んでた?平気?」

 咲月の様子がいつもと変わりなければ、これは聞かないつもりだった。でも、何となく硬い雰囲気を和らげたくて、俺はわざと軽い口調でそう尋ねた。

「……ちょっと、家の用事。平気だよ。元気」

 咲月の笑顔は、力がないように見えた。

「ノート、見る?講義進んでるよ」

「あ、うん。借りてもいい?助かる」

 ありがとう、と言いながら、咲月は俺が差し出したノートを受け取った。そして俺はそのまま、咲月の顔をじっと見つめる。期待していた瞬間は、いくら待っても訪れなかった。


「なぁ、咲月」

「うん?」

「なにか、気が付かない?」

「え?なんだろ。えっと……」

「それ、」

 考え込む咲月の視界に入るように、俺はノートの端っこを指差した。

「懐かしいだろ」

「これ?」

「うん。そのらくがき、俺が描いたお前。咲月の絵。忘れちゃった?」

「……あぁ、忘れる訳ないだろ。懐かしい」

 やっと思い出したような表情で、咲月は微笑んだ。俺たちが友人になったあの日、二人で笑い合った温度とは少し違う気がした。


「焼き魚定食?めずらしいな」

 講義が終わって、当たり前のように自然な流れで学食に向かった。普段は頼まないメニューを選んだ咲月に、俺は驚いた。

「いつも、洋食派だって」

「たまには違う気分の日もあるんだよ。いいだろ」

 気にするな、とでも言うように、咲月は手を振る。静かな違和感を抱きながら、俺は生姜焼き定食が揃ったいつものトレイを、自分の膝の上に一人で乗せた。


 食事の間は、和やかな時間が流れた。一週間振りに誰かと食べる食事は、一人のときの何倍も美味しい味がする。賑やかな周りの雰囲気に溶け込んで、咲月の緊張もすっかり解けたように思えた。


「ごちそうさま。次の講義、何時だっけ」

 手を合わせて挨拶をしたあと、時計を確認した咲月はすぐに席を立とうとした。

 瞬間、小さな違和感が次々に俺の中で弾けた。あり得ない仮説に、鼓動が早まる。立ち上がった咲月を凝視しながら、それを否定したい気持ちと、全てが繋がる決定的な事実が、交互に主張をする。

「どうした、賢太朗」

 咲月の瞳は、俺の方を真っ直ぐに見つめていた。けれどそれは、俺の知らないものだった。


「なぁ、お前、誰?咲月じゃないだろ」



【凪月と賢太朗】


 聞き慣れた名前の賢太朗という彼は、オレのことを真っ直ぐに見つめていた。もうこれ以上、隠し通せない。オレの思惑はいとも簡単に破られてしまった。


「……よく分かったね。賢太朗くん」

「俺は咲月の友達ですよ。気が付かないと思ったんですか」

「正直ね。いけると思った」

 咲月の友達。その言葉を聞いて、ボクの気持ちは嬉しく萎んだ。


「それで、お前は誰なんですか?」

 丁寧なようで不躾な言葉遣いに、ふっと笑ってしまう。きっと咲月は、彼のこういうところに惹かれたのだろう。

「笑ってないで、教えてくださいよ」

「うん。キミにはちゃんと話さないといけないね。それがボクの──オレの責任だ」

 ボクはその場に腰を下ろして、もう一度彼と向き合った。


「聞かない方が良かったと、思うかもしれない。本当に、覚悟は出来ている?」

 ボクがそうであるように、きっと彼も苦しむことになる。彼は、何も知らなくていい側の人間だ。それでも返される答えなど決まっているのに、ボクは敢えて確認をした。

「キミは咲月のこと、忘れた方が楽だと思うんだ」

 自分で言っておきながら、悲しくなった。これは全く、本心ではない。


「それ、本気で言ってますか」

 そう言い返す彼の声には、怒りまで含まれているように思えた。いつかの日のボクは、咲月に同じような顔を向けた。

「ごめん」

 あのときの咲月は、そうして俯いた気がする。成りきれなかった咲月の姿を、ボクは精一杯に投影した。顔を上げれば、真剣な眼差しがボクを見据えていた。


「咲月、もういないんですか」

 ボクを見つめる瞳は、薄い膜を張っていた。彼の想像が当たっていれば、もしかしたら咲月は楽だったのかもしれない。

 だめだ。そんなことを考えてはいけない。咲月の声が聞きたくて、咲月の笑った顔が見たくて、ボクは天を仰いだ。成り代わるなど、初めから無理だったのだ。

「話すよ。オレのこと。ボクのこと」

 彼は相槌を頷きで返して、ボクが話し始めるのを待った。

「咲月は、生きているよ。ボクは凪月。咲月はボクの、双子の弟だ」



「隣の席に座った奴がさ、かっこいい名前だった」

 大学に入学して間もない頃、咲月はそう言った。ボクたちが一緒にいる時間は格段に少なくなって、お互いに知らないことも増えた。すれ違いを怖がっているのは、ボクも咲月も同じだったのだと思う。

 些細な出来事も、話し始めれば会話に花が咲く。空いた二人の時間を埋めるように。お互いの存在を確かめるように。


「友達、出来たんだ」

「まだそういう訳じゃないよ」

「でも、名前聞いたんだろ」

「うん。賢太朗だって。いいよな、すごくかっこいい」

 いつだって変わらない咲月の口振りに、呆れながらも安心する。

「そいつ、車椅子なんだ」

 咲月は、思いに耽るようにそう言った。

「へえ……大変だね。怪我か何か?」

「知らない。聞いてない」

 咲月のことだ。きっと放っておけなくて、ずっと気にかかっているのだろう。テーブルに頬杖をついたまま、咲月は重たい溜息をついた。


「気になるなら、聞けば良いのに」

「聞いたらダメな気がした。オレだって、話したくないこととか、あるから」

「ボクのこと?」

「それは別に、隠してないよ。成り行きで話す流れになれば、秘密にしたいことじゃない」

 何となく、自分に双子の弟がいることを、ボクはまだ大学で出逢った誰にも明かしていない。鎌をかけたつもりで尋ねれば、それは咲月も同じようで、ボクはまた安心した。


「……病気のこととか、そういうことって気分良く話せないだろ。あいつも、そんな気がした」

「そっか」

 さっぱりしていて、思い切りが良い咲月は、側から見れば何にも執着しない無頓着なタイプだと思われるだろう。でも、実際は違う。誰よりも繊細で、人の心の機微に敏感だ。

 病気を持って生まれてしまった、ボクとは違うただその一点が、咲月の人柄を形成している。

「仲良くなれるといいね、賢太朗くんと」

「うん」

 考え込んでしまった咲月に笑いかけてやれば、小さな笑顔が返ってきた。



 咲月が数年振りに発作を起こした。苦しむ姿を目にしたのは、かなり久々だった。

「……凪月、まずいやつかも、」

 部屋の灯りを落とそうとしていた頃、ボクの元を訪れてそう言った咲月は、既に脂汗に濡れた顔を苦痛に歪めていた。胸を押さえる咲月の手は震える。

「ちょっと、発作?」

「ん……、胸、痛い……」

「薬取ってくる。待っていて」

 万が一のため、発作を抑える緊急薬は、咲月の棚の引き出しに置いてある。傍を離れるたったの数秒も惜しくて、不安と恐怖にボクの足は早まった。


 薬を口に入れてしばらく、咲月は荒い呼吸を繰り返していた。    

 子どもの頃、発作のときは胸の下で心臓が暴れているのだと、咲月が話すのを聞いたことがある。比喩ではなく、本当にそうなのだ。運動をして息を切らすこととは、訳が違う。ボクには想像もつかない苦しさなのだろう。

「落ち着いてきた?」

「うん……焦った」

 ようやく深く呼吸が出来るようになった咲月は、横たえられたベッドに沈み込んでいた。まだ顔色は良くない。

「薬使うの、久々だったね。病院は?」

「そこまでじゃない、」

「通院まだ先だし、明日診てもらおう」

「大袈裟だって。このくらい、珍しくないだろ」

「ダメ。緊急薬を使ったときは、受診する。先生に言われてるだろ、忘れた?」

 引かないボクを煩がるように、咲月は寝返りを打って背を向けた。

「ね、咲月」

「分かったよ。もう寝る」


 拒絶をされても、咲月の身体に関することは譲らないと決めている。いくら嫌われても、それが兄の責任だ。

「もしまた苦しくなったら、絶対にすぐ起こして。分かった?」

「分かってる」

 反応を待ってから、ボクは咲月の布団を整えた。



「待って。まさか大学行くつもり?」

 身支度を整え始めた咲月と鉢合わせて、ボクは呆れた。

「当たり前だろ。もう何ともないし」

「退院したばっかりだろ。あんまり無理するなって、」

「無理なんてしてない」

 あの日、翌朝病院に行ってそのまま、咲月は一週間入院をした。久々の酷い発作は、慣れない環境で身体に負担がかかっていたのだろうと担当医は言った。


「薬、増やしてもらったし、平気だよ。それに、あいつが一人で大変だろ」

「あいつって?」

「賢太朗だよ」

「人の心配している場合じゃないだろ。それにまだ、友達じゃないって」

 ボクが何を言っても無駄なのは、肌で感じた。咲月はもう、鞄を手にしている。

「これから友達になるんだよ。行ってくる」

 後ろ髪を引かれる素振りもなく、咲月は颯爽とボクを置いて出て行った。

 もっと必死になって、引き止めていれば。自分のことだけ考えろ、と、もっとボクが懇願していれば。果たすと決めていたはずの兄の責任は、脆く散ってしまった。いくら後悔をしても、もう遅い。


 しばらくは、穏やかな日が続いた。咲月の様子も変わりはなくて、帰宅すればお互いのことを話し合う。咲月と賢太朗くんは、本当に友達になれたようだった。

 そうして凪のような毎日は、忘れた頃に呆気なく崩れる。



 いつもなら起きて来る時間になっても、咲月が姿を見せない。寝坊なんて珍しいと部屋を覗いて、ボクの時は一瞬止まった。

 既に普段着姿の咲月は、部屋の隅に倒れていた。傍に置かれた棚の引き出しは幾つも開けられたまま、中身が無造作に散らばっていた。


「おい!咲月……!」

 身体をいくら揺すっても、咲月は反応を示さない。反射的に触れた咲月の胸の下で、狂ったように暴れる心臓の鼓動を感じた。それは、こちらの血の気が引くほど早くて、ボクも息が苦しくなった。

「待ってろ、薬……」

 もう薬を飲める状態ではないことなど、混乱した頭では思い至らなくて、ボクは散乱した引き出しの中身に目を向けた。本来ある場所にない小さな薬を見つけるのは困難で、そこでようやく救急の番号が思い浮かぶ。


「……ん、……」

「咲月、分かる?今、救急車呼んだから。ボクの方を見て」

 表情は苦悶に歪んだまま、咲月の瞼が薄く開いた隙に、ボクは必死に呼びかけた。

「ダメだ。目を開けろ」

 揺れる意識を繋ぎ止めるように、抱きかかえた咲月の肩を揺らす。束の間覗いた瞳はすぐに隠れて、蒼白な咲月の顔から力が抜けた。

「咲月!」

 名前を呼ぶことしか出来ない時間は、永遠に思えた。



 いくら日が経っても、咲月は目を覚ます気配を見せない。暴れ疲れた心臓が、動きを止めてしまっていた時間が長過ぎた。傷付いた脳が、咲月の意識を奪っているのだという。機械に生かされる咲月の姿は現実感がない。

 心がどこかに消えてしまって、抜け殻のようなボクの身体は、ただ毎日、眠り続ける咲月の傍に添えられていた。


『凪月の方が、男らしくてかっこいい』


 生気を失ってしまった色のない顔を見つめたまま、ボクの中でいつかの咲月の声が聞こえた。

 咲月のことを守りきれなかった。咲月が守りたかったものを、見放すことになってしまった。頼りないボクのことを羨んでくれた弟は、もう、自分の力で生きることが出来ないでいる。どうしてボクだけが、普通に生きているのだろう。子どもの頃から、考えることはずっと変わっていない。


 ボクよりも優しくて、人懐こくて、かっこいい咲月。顔も声も同じなのに、どうして咲月だけが、苦しい思いをしないといけないのだろう。

 いっそのこと、もう二人で一緒に楽になってしまおうかと、ボクの思考はほんの一瞬だけ、危険に歪んだ。

 

「咲月」

 いくら待っても返事がないことは分かりきっていて、ただ名前を呼ぶだけでボクの声は震えた。静かな病室に、心電図の機械から鳴る咲月の心拍の音が響く。悲しいけれど今はそれだけが、咲月の命が確かにここに在ることの証だ。

「咲月は、生きなくちゃいけないよ……いなくなったっていいのは、ボクの方だ」

 触れた咲月の手は冷たくて、ボクの視界は余計に滲んだ。

「早く、戻っておいで。咲月の居場所は、ボクが──オレが、守っておくから」


 そうしてオレは、凪月を捨てた。



「でも、もう少し上手くやれると思ったんだけど。まさかこんなにすぐ、見抜かれるなんてね」

 全てを話し終えて、ボクはあっさり咲月で居ることを諦めた。結局捨てきれないでいた凪月は、呆気なく帰って来た。


「全然違いますよ。まあ、見た目は確かに、同じですね」

「双子だからね、」

 自分でそう言って、悲しくなった。咲月を自分に宿した一時、ボクたちは共に居る感覚になれた。生まれたときから今まで、ずっとそうしてきたように。


「結局ボクは、情けない兄のままだ。キミもこんな話、聞いてしまって後悔をしているだろう?」

「後悔ですか?どうして」

 賢太朗は、ボクの言葉の意味が分からないとでもいうように、不思議な顔をした。

「知れて良かったです。咲月のこと。凪月さんのことも」

「どうして……」

「友達だからです。苦しいことも、悲しいことも、分け合えたらいいなって」

 そう言って微笑む彼は、どこか切なげに見えた。


「後悔は一生残るけれど、一人で抱えなくても良いと思うんです」

 彼はきっと、ボクには想像に足らないほどのことを経験しているのだと直感した。その上で、ボクに手を広げてくれている。

 自分のために、自分のせいで。その後悔で潰れてしまうのではないか。ボクのそんな心配は、全く必要なかった。お互いを想い合う、ただそれだけで良いのだ。こんなにも単純なことに、何故気が付かなかったのだろう。


「俺も自分のこと、咲月に話します」

「そうしてあげて。きっと喜ぶ」

「大丈夫ですよ、咲月は。すぐに起きてくれると思います」

「……そう、だね」

 確信が持てなくて、ボクは曖昧に返事をした。


「咲月に会わせてもらえますか」

 痛々しい姿で眠り続ける病室の咲月を想像して、ボクは反応に迷った。

「覚悟はあります。それに、俺は咲月を信じてる」

 そう言う彼は、ボクなんかよりもずっと頼もしく見えた。咲月の友達。彼から聞いた言葉を反芻して、ボクの心は素直に安堵した。


「良い友達を持ったね。咲月は」

「俺の台詞です。良いお兄さんがいて、羨ましい」

「そうだと良いけど」

 ボクとして初めて笑顔を見せれば、彼も頬を緩めた。


「車椅子、押すの手伝おうか?」

「いえ。自分で行けます」

「今日ずっと思ってたけど、すごいな。なんでも出来るんだ」

 そう感心するボクに、彼は目を丸くした。

「凪月さんと咲月、本当に双子ですね」

「え、どういう意味?」

「なんでもないです。行きましょう、咲月が待ってますよ」


 先を行ってしまった車椅子は、どんどん小さくなっていく。咲月のランドセルを追いかけたあの日のように、ボクは駆け出した。



とある小説コンテストに応募した作品です。

人目に触れず消えてしまうことが悲しく、投稿させていただきました。

最後まで読んでくださった方が、もしもいらっしゃったら本当に嬉しいです。

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