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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第2章】金にならない仕事 ―意味のない仕事は、本当に無意味か―
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第9話:辞める理由

その変化は、予告なく訪れたわけではなかった。

最近の望は、それを「変化」ではなく「日常の延長」だと誤認していただけだ。


月曜の進捗会議の際、上司が淡々とスライドをめくりながら言った。

「来月から、体制を少しスリム化します」


「スリム化」という綺麗な言葉だったが、翻訳すれば意味は一つだ。

担当者の削減と業務の集約。

そして、残った人間への皺寄せ。


「高井さんには、この領域も包括して見てもらいます」


画面に映し出されたタスクリストを見て、望の指がピクリと止まった。

領域が倍になっている。

かといって、リソースの欄は空白のままだ。


「……人員は、増えますか?」

誰かが、遠慮がちに聞いた。


上司は表情一つ変えずに答えた。

「今のところ、予定はありません」

「効率化でカバーできる範囲だと判断しています」


それで話は終わった。

いつだって非常に合理的なのだ、会社にとっては。


会議の後、上司が望の席まで来て肩を軽く叩いた。

「期待してるよ」


望は反射的に頷いた。

「はい、ありがとうございます」


自分が評価されているのは、事実だ。

しかし、上司からも会社からも守られてはいない。


この職場において「期待」とは、最もコストのかからない報酬であり、最も重い鎖だった。


その日から、望の仕事量は物理的な限界を超え始めた。

判断の回数が倍になる、責任の所在が曖昧になる。

部下や他部署からの調整メールが、止まることなく降り注ぐ。


ミスが出れば、責任は「管理不足」として自分に返ってくる。

完璧にこなしても、「想定通り」として処理される。


成果は誰のものでもなくなり、疲労だけが個人のものとして蓄積されていく。

残業時間が、じわじわと伸びていった。


日付が変わる頃にオフィスを出る。夜風が冷たいと感じる余裕すらない。

そんな帰り道、深夜の商店街の消えた街灯の下を通る。


ふと、黒田の顔が浮かんだ。

『今日は、ここまでや』


あの、ぶっきらぼうな終わりの合図。

それが今では、遥か遠い異国の言葉のように思えた。


数日後、人事部から全社員宛にメールが届いた。

『来期のキャリア希望調査について』


それは形式的なアンケートだった。

本心からの希望を書いたところで、それが通る確率は宝くじより低い。


分かっている。

分かってはいるが、無視はできない。


望は、キャリア希望調査の入力フォームを開いた。


『現在の業務への満足度』

『今後のキャリアプラン』

『異動の希望有無』


カーソルが、空白のボックスの中で点滅を続けている。


今の仕事を続けたいか。

嫌いではない、得意でもある。

与えられたタスクを効率的に回す自信もある。


でも……。

この先一年、三年、五年。

同じやり方で同じ判断を繰り返し、同じように「期待」という名の荷物を背負わされ続ける。


そう想像した瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。


――ここに居続ける理由は何だ?


給料か、安定か、世間体か。どれも間違いではない。

だが、そのどれもが今の自分を繋ぎ止める「決定打」にはなり得なかった。


点滅するカーソルが、まるで心電図の停止線のように見えた。

結局、望は何も書かずにブラウザをそっと閉じた。


その週末、黒田から連絡が来た。

『明日、来られるか?』


短いメッセージ。

望は、ベッドに横たわったまま天井を見上げた。


体は鉛のように重い、来週のプレゼン資料もまだ完成していない。


――休むべきだ

それが最も合理的な判断だ。


それでも、指先は拒否反応を示さなかった。

むしろ、黒田からの依頼に対して、不思議な渇望があった。


――断る理由が必要なのか?


会社の仕事、与えられたタスクは規約の上では断れるが、実際には断れない。

結局、「期待」という命令には服従するしかないのだ。


しかし、黒田の頼みは断れる。

いつでも無視できるし、行かなくても誰も責めない。


「断ることができる」という事実こそが今、望が持っている唯一の自由だった。

だからこそ、望は「行く」ことを選んだ。

自分の意思で選び取れる仕事が、そこにしかなかったからだ。


望は、ゆっくりと文字を打った。

『明日は行けます。午前中だけなら』


送信ボタンを押すと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった気がした。

会社を辞めると決めたわけではない、転職サイトに登録したわけでもない。


しかしゆっくりと、天秤が傾いているのを感じる。

「続ける理由」という重りが、音もなく削り落ちていく。


合理的に考えれば、辞める理由はまだ足りない。

生活があるし、仕事への社会的責任がある。


それに反して「ここにいたい」という感情の残高は、もうゼロに近かった。


望はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、オフィスの白い天井ではなく、埃っぽい商店街の青空だった。


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