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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第2章】金にならない仕事 ―意味のない仕事は、本当に無意味か―
8/12

第8話:二足のわらじ

それからの数週間、望の生活ルーティンは表面上何も変わらなかった。


朝、コンビニで弁当を買い、会社へ行く。

昼、無機質なデスクで仕事をこなす。

夜、残業を終えてコンビニに寄って帰る。


変わったのは、週末の風景だけだった。


黒田からの連絡は、いつも唐突で不躾だ。


『明日、少しええか』

『夕方、手ぇ貸してほしい』


いずれも長くても半日、短いときは二時間ほど。

内容は雑多を極めた。


シャッターの錆落とし、放置自転車の撤去、雨樋の掃除。

どれも、履歴書には書けない金にもならない労働だ。


望は通知を見るたび、脳内で素早く計算する。

――今週の残タスクは?

――睡眠時間は確保できるか?

――移動コストに見合うか?


判断基準は、平日の仕事と同じ「合理性」のはずだった。


「行けます」

そう返信ボタンを押す指に、迷いはなかった。


黒田の現場は汚くて重労働だが、驚くほどストレスが少なかった。

説明は最小限、道具は手入れされている。

それでいて判断は即決だった。


――効率は、悪くない


そう感じてしまう自分に、望は微かな違和感を覚えた。

会社で求められる効率とは、質が違うのだ。


平日の職場では、効率は「数字」で測られる。

時間短縮、コスト削減、利益率。


対して、週末の作業には数値目標がない。

あるのは「綺麗になった」「動くようになった」という、単純な物理現象だけだ。


月曜の朝、望は鉛のように重い体を引きずって出社した。

筋肉痛ではない、もっと芯に近い部分の疲労だ。


モニターに向かいメールを処理して、会議に出る。

いつも通りの景色、いつも通りのスピード。

しかし何となくだが、自分の中の歯車がわずかに噛み合わない音がする。


「高井さん、この件どうします?」

同僚に判断を求められた瞬間だった。


普段なら、コンマ一秒で「正解」を出せる。

しかしその時は、思考が一瞬だけ空白になった。


――どっちだ?

――優先順位は?


尋ねられた質問とは裏腹に、脳裏には昨日のペンキの匂いがよぎる。

キーボードを叩く指先に、軍手のザラついた感触が残っている気がした。


「……高井さん?」

「ああ、すみません。A案で進めてください」


何んとか反射的に答えたが、背筋に冷たいものが走った。

これはラグだ、思考の処理速度が落ちている。

ほんの一瞬だが、脳の切り替えが追いついていない。


その日の昼休み、望は冷めた弁当を口に運びながら、ぼんやりと資料を眺めていた。

効率的な人員配置、合理的なスケジュール。

それらは完璧だ、何も間違っていない。


それなのに昨日の黒田の言葉が、いつまで経っても耳に残って離れない。


『今日はここまでや』


日が暮れたから、あるいは疲れたから。

そんな単純な理由で、作業は唐突に終わった。

中途半端でも、まだやる事が残っていても、今日はそこで終わり。


一般常識として、会社の仕事では許されない区切り方だ。

すべては「納期」と「成果」が支配する。

終わるまで、終わりではない。


――今日は、ここまで


その言葉の響きが毒のように甘く、望の中で澱のように溜まっていく。


そんな感覚を抱えながら仕事をこなした週の金曜の夜。

黒田からメッセージ通知が震えた。


『明日、少し頼めるか?』


望はスマートフォンの光る画面を、暗い部屋で見つめ続けた。

実は、明日は泥のように眠るつもりだった。

平日の判断力にも、ノイズが混じり始めている。

実際、二足のわらじでの日々を過ごし、疲労は限界に近い。


――断るべきだ

――リスク管理が必要だ


そう考えながらも、指は勝手に動いていた。

返事を打つ。


『何時からですか?』

『午前中だけや』


黒田からの返信は速い。


――午前中か、それなら午後は休めるな

――で、あれば合理的だ


そう結論づけて、望は“了解”のスタンプを送った。

送信完了の文字を見ながら、自分自身に問いかける。


――なぜ断らない?

――必要とされているからか?

――恩を売りたいからか?


どれも違う。

一番近い感覚は「断るほどの理由が見当たらない」という惰性だった。

いや、気が付いていないだけで、もっと根深い感覚なのかもしれない。


「成果」を求められない数時間が、今の自分には必要不可欠な薬になっている。

望は、その依存性にまだ気づいていなかった。


二足のわらじ。

それはまだ、歩けないほどの重さではない。

だからと言って、軽くもない。

まるで、靴底の厚さが違う二つの靴を履いて歩くように感じた。

バランスを取ろうとするだけで、無意識のうちに体幹が削られていく。


――どちらも、まだ回っている

望はそう呟き、画面を消した。


部屋の暗闇の中で、来週の会議のことよりも明日の天気のことを先に考えている。

望は、そんな自分に気づかないふりをした。


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