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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第2章】金にならない仕事 ―意味のない仕事は、本当に無意味か―
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第7話:少しだけ手伝う

黒田と連絡先を交換したのは、あの夜から数日後のことだった。

きっかけは、些細な偶然だ。


アパートへの帰り道、缶コーヒーを買おうとした自販機の前で鉢合わせた。

ただそれだけだ。


「兄ちゃん、これ持っとき」


黒田は小銭を探しながら、自分のスマホを無造作に突き出してきた。

画面にはQRコードが表示されている。


「何かあったら、連絡するわ」

「何か、とは?」

「さあな。人手が必要な時とか、飲みたなった時とかや」


断る理由はいくらでもあったが、望は無言で自分のスマホを取り出してカメラを起動した。

QRコードを読み取り、黒田の連絡先を登録する。

仕事相手以外のアドレスが増えるのは、数年ぶりだった。


でもただそれだけ、連絡先を交換しただけの希薄な関係だ。

だから平日の夜に届いた短いメッセージにも、すぐに返事をする義務感など感じる必要はなかった。


黒田と連絡先を交換して数日後の金曜の夜。

突然、普段は鳴らない望のスマートフォンからメッセージの通知が来た。

ポップアップした通知内容を確認する。


『今週末、少しだけ手ぇ空いとるか?』


無音の自室で、望はその文字列を見つめていた。

「少しだけ」という曖昧な表現だったが、どうせ何かの作業を手伝う羽目になるのだろう。

それとも言っていたように、飲みに誘うつもりか?いや、そんなはずはない。


――どれくらいの時間だ?

――具体的な作業内容は?

――報酬の条件は?


合理的に考えれば、確認すべき内容やリスクは山ほどある。

実際、既読スルーで済ませても誰にも咎められないだろう。


それでも望の指先は、返信画面を開いていた。

今週はずっとモニター越しの数字と、人の顔色ばかりを見ていたからかもしれない。

人手を伴う「確かなもの」に、触れたかったのかも。

そう考えながら返信した。


『空いています。時間はどれくらいですか』


すぐに返事が来た。


『半日もあれば終わる』


半日……、望は頭の中で週末の空白を埋めるシミュレーションをした。

かといって、特別な用事などは元々入っていない。

体を休めるだけの休日に、生産性はないと望は判断した。


『分かりました、場所は?』

『来たら分かる』


黒田からの返事は速攻で帰ってきた。

結局、内容は解らずじまいだった。


土曜の朝、望は指定された場所に向かった。

商店街の裏手、表通りの喧騒が嘘のように静まり返った、路地裏の一角だ。


望が到着すると、黒田はすでにそこに居た。

ツタの絡まる古い木造アパートの前で、腕を組んで立っている。


「早いな」

「約束の時間なので」

「真面目やなあ」


黒田はニヤリと笑い、アパートの錆びた鉄扉を指差した。


「今日はな、ここの掃除と片付けや」

「……掃除?」

「せや、人が住めるようにする」


アパートの中に入ると、湿ったカビと埃の匂いが鼻をついた。

長年放置されていたのだろう。

床は見えず、崩れた段ボールや古雑誌が山脈のように積み上がっている。


「業者を呼ばないんですか?」

望がハンカチで口元を覆いながら言うと、黒田は肩をすくめた。


「呼んだら金かかるやろ。それに、急ぎや」


「……誰が住むんです?」

「困っとるやつや」


それ以上の説明はなかった。

望は小さく息を吐き、上着を脱いだ。


――金にならない

――キャリアにもならない

――誰の評価にも繋がらない


頭の中で、いつもの「やらない理由」が整列する。

でも結局、望は黙って軍手を受け取った。

ここに来てしまった以上、手を動かす以外の選択肢はないのだ。


「半日、ですよね」

「せや、終わるまでが半日や」


黒田は悪びれもせずそう言い、一番重そうな家具を持ち上げた。


作業は単調だが、過酷だった。

雑誌の束を縛り、運び出す。腐りかけた畳を剥がし、板の間を雑巾で拭く。


全身から汗が噴き出し、喉が渇く。

普段使わない筋肉が悲鳴を上げ、埃が目に入る。


身体は確かに辛いが、不思議と心は不快ではなかった。

自分が動いた分だけ、ゴミが減る。

拭いた分だけ、床が光る。

成果が、目に見える。


昼前には、部屋の輪郭がはっきりと分かるようになっていた。

とはいえ、今日中に全てを片付けるのは自分が居ても居なくても無理がある。

望は黒田に聞いてみた。


「……これ、終わりはあるんですか?」

「今日はここまでや」


黒田の返事は即答だった。

そう言いながら黒田が窓を開けると、新鮮な空気が部屋の中に入ってくる。


「え?」

「全部は無理やろ。人間が住めるレベルになれば、とりあえずええ」


その言い方は適当だったが、どこか満足げだった。

吹き込んだ風が、舞い上がった埃を外へと運び出していく。


「今日は助かったわ」

黒田が缶コーヒーを投げてきた。


「報酬や」

それだけだった。


礼金も、契約書もない。

あるのは微温いコーヒーが一本だけ。


望は軍手を外し、自分の手を見た。

爪の間まで黒く汚れ、指先は微かに震えている。

望は腕時計の時間を見た。


――確かに半日で終わった

――約束は守られている


しかし、合理的に見れば労働力の搾取、仕事としては大赤字だ。

それでも心のどこかに、妙な「軽さ」があった。

何かを成し遂げたような、あるいは何かを削ぎ落としたような感覚。

望は思わず黒田に聞いてみた。


「……これ、仕事なんですか?」

「さあな」


黒田は煙草に火をつけ、紫煙を吐き出しながら答えた。

曖昧な返事だった。


「金にならんことは仕事やない、って言うやつもおるしな」


黒田は煙草の煙を吹かしながら、意地悪そうな顔をしている。

望は、それ以上聞かなかった。

聞いたところで、自分を納得させる言葉など、どこにもない気がしたからだ。


その帰り道、商店街を歩きながら望は汚れた手を見つめ考えた。

金にならない、評価もされない。

それなのに、なぜか「無駄な時間だった」と言い切れない自分がいる。


オフィスのデスクでは、どれだけ働いても、こんな風に手が汚れることはない。

そして、こんな風にコーヒーが美味いこともない。


――少しだけ


そう言い訳をしながら、望はアドレス帳の「黒田」の名前を指先でなぞっていた。

自分がまた来る可能性を、もう否定できなくなっていた。


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