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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第1章】正しさは役に立つか -ブラックの合理性-
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第6話:使う側

その週、望は明確な役割を与えられた。

「判断する側」だ。


肩書きが変わったわけでも、権限委譲の辞令が出たわけでもない。

ただ会議の中で、「意見を求められる回数」が増えただけだった。


だが、その意味合いは明確に変わった。

「この工程、どこにまとめるのが一番早いと思います?」

上司は、答えを決めていない口調でそう言った。


だが、判断を委ねる相手は最初から決まっている。

望は、手元の資料に視線を落とす。


タスクの総量。納期までのリソース。現在の稼働率。

数字は、嘘をつかない。感情も挟まない。


「……Aさんに集約した方が、全体工数は削減できます」

自分の声は、驚くほど平坦で、落ち着いていた。


上司はすぐに頷いた。

「そうだね。合理的だ」

その一言で、決まった。


Aさんは、ほんの一瞬だけ視線を上げ、望の方を見た気がした。

だが、すぐにモニターへと向き直る。反論はない。

会議は、予定より十分も早く終わった。


プロジェクトの進捗は改善し、上司からの評価も上がった。

「助かりました」その言葉を、望は素直に受け取った。


――正しい判断だった。

そう結論づける理由は、いくらでもあった。


だが、夕方になってAさんの席を見るたびに、視界の端に映るものがあった。

背中だ。

少し丸まり、強張った背中。キーボードを叩く音が、以前よりも重く、荒くなっている。


仕事は回っている。誰も困っていない。

それでも、歪みが消えていないことだけは、はっきり分かった。


望は、それを「想定内のコスト」だと処理した。

――誰かがやらなければならない。

――全体のためだ。


自分に言い聞かせる言葉は、どれも論理的で、正しかった。

定時を過ぎても、オフィスの空気は変わらない。


望は、自分が「使う側」に回ったことを、はっきりと自覚していた。

そしてそれが、嫌ではなかった。

むしろ、車輪のパーツが綺麗に噛み合ったような、冷たい安定感があった。


帰り道、望はいつものように商店街を通った。

今日は、誰の声も耳に入らなかった。

ノイズキャンセリングをしたように、意識が閉じていた。


店先で、重そうな荷物を動かしている人がいた。

一人で抱え、少し手間取っている。


望の足が一瞬、止まりかけた。時計を見る。

五分。いや、十分かもしれない。


――今日は、無理だ。

そう判断した。理由は明確だ。疲れている。

明日も早い。余計なことをする必要はない。


生産性のないことに、リソースを割く余裕はない。

望は、視線を正面に戻し、足早にその横を通り過ぎた。


正しい判断だった。

歩きながら、胸の奥に、鈍い感覚が広がっていく。

罪悪感ではない。後悔でもない。


ただ、何かを「切った」感触だった。

仕事では、人の負荷を考慮から切り捨てた。

商店街では、関わる可能性を切り捨てた。


どちらも、合理的だ。どちらも、正しく説明できる。

望は、そのことをはっきりと理解していた。


そして、理解した上で、それを選んでいる自分を肯定した。

迷いがないこと。それが、今の自分にとって一番の「正解」だった。


家に着き、暗い部屋のスイッチを入れる前に、ふと思う。

もし、あのとき手伝っていたら、何が変わっていたのだろうか。


答えは、すぐに出た。

――何も変わらない。


少なくとも、世界全体の数字には、何の影響もない。

その答えに、望は深く納得していた。


それでいい。

そういう世界で、自分は生きている。


そう考えながら、望はネクタイを緩め、部屋の明かりをつけることなくソファに沈み込んだ。



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