最終話:それでも、働く
朝の光が、不動産屋の軒先を照らしている。
黒田は古い木の椅子に座り、煙草をくゆらせている。店の看板は相変わらず少し傾いていた。脱落しかけた文字が、朝日を浴びて影を落とす。
直そうと思えば直せる。だが、もう何年もこのままだ。
通りを、人が歩いていく。
出勤する人。店を開ける人。ゴミを出す人。それぞれの朝が、それぞれのリズムで流れている。
黒田は、その流れを眺めていた。
何も考えていないようで、すべてを見ている。誰がいつもより早いか。誰の足取りが重いか。どの店のシャッターがまだ開いていないか。それらの情報は、頭の中で自然と整理されていく。
最近、黒田は気づいていた。
自分が動かなくても、町が回っている。
誰かがゴミを拾っている。誰かが見回っている。誰かが困っている人に声をかけている。
自分の出番が減っている。
それは寂しいことではなく、むしろ誇らしい気持ちさえあった。
種を蒔いて、芽が出た。もう水をやらなくても育つだろう。
そのとき、向こうから望が歩いてくるのが見えた。
スーツ姿。カバンを肩にかけている。会社に向かう姿だ。いつもと同じ時間。いつもと同じ道。
出会ったころと比べて、歩き方が少し変わった気がする。
以前は、肩に力が入りすぎていた。前のめりで焦っているような歩き方だった。
しかし今は、違う。
地に足がついている。一歩一歩が、確かだ。
黒田は煙草の灰を落とした。
あいつ、またバカみたいに燃費の悪い歩き方しとるな。心の中で笑った。
相変わらず、カバンは片方の肩にばかりかけている。荷物も多い。会社の資料と商店街の書類が、ぐちゃぐちゃに混ざっているのだろう。
効率が悪い。無駄が多い。
でも、その無駄を抱えながら望は歩き続けている。
会社と商店街。二つの場所を行ったり来たりしながら。
どちらも中途半端に見える。でも、どちらも本気だ。
黒田は、その背中を見送った。
望は、黒田に気づいて頭を下げた。黒田も軽く手を上げる。
それだけの挨拶。言葉は交わさない。でも、それで十分だった。
望の背中が、角を曲がって見えなくなる。
黒田は、煙草を吸い終えた。吸い殻を携帯灰皿に入れる。
椅子から立ち上がり、店の看板を見上げた。
傾いて脱落しかけている。でも、まだ落ちていない。
もう少し、このままでいい。黒田は店の中に入った。
望の一日は、いつもと同じだった。
朝、一駅だけ電車に乗る。窓の外を流れる景色を見ながら今日の予定を頭の中で整理する。
会社に着く。デスクに座る。パソコンを立ち上げる。
保守業務のチケットが、今日も溜まっている。
地味で目立たない誰もやりたがらない仕事。成果も数字にならない。でも誰かがやらなければシステムが止まる。
望は、一つ一つ処理していく。エラーログを読み、原因を特定する。修正してはテストする。そしてクローズするといった淡々とした作業。でも嫌いではなかった。
誰かの見えないところで誰かを支えている。その実感が、ここにはある。
昼休み。望は一人で外に出た。近くの公園でベンチに座る。
コンビニで買ったおにぎりを食べる。
空を見上げる。雲がゆっくりと流れている。
会社と商店街。二つの場所で、望は同じことをしている。
名前のない仕事。数字にならない仕事。でも、それが誰かを救っている。
二つのレイヤーが、望の中で干渉し合っている。
会社で学んだシステム思考が、商店街で役立つ。商店街で学んだ人との接し方が、会社で役立つ。二つは別々ではない。一つのリズムなのだ。
午後も淡々と仕事をこなす。定時になると、パソコンをシャットダウンする。カバンを持つ。
「お疲れ様です」
同僚に声をかける。同僚も「お疲れ」と返してくれる。
エレベーターに乗り、一階に降りる。ビルを出ると夕暮れだった。
駅には向かわず、商店街の方面に歩いていく。そして商店街のアーケードをくぐる。
和菓子屋の前を通る。女将が店先を掃いている。
「こんばんは」
「あら、高井さん。お疲れ様」
短い会話。でも温かい。
惣菜屋の前を通る。店の中から、いい匂いがする。
呉服屋の前を通る。田中が店主と何か話している。
「こんばんは、高井さん」
田中が、手を上げた。
「今夜も、見回りですか?」
「ええ、まあ」
「俺も後で行きます」
それだけの会話。でも、それで十分だった。
望は、いつものルートを歩く。路地裏。公園の周り。駐車場の隅。
ゴミは、ほとんどない。誰かが既に拾っている。
望は、それでも歩く。異常がないか確認する。壊れたものはないか、困っている人はいないか。ただ見て回る。それが望の仕事だ。
いつものルートを一周して、自販機の前に辿り着く。
そしていつものように缶コーヒーを買う。
「よう」
いつものように、このタイミングで背後から声がする。
振り返ると黒田が立ってる。いつもの場所、いつもの時間。
「今日もブラックやな」
黒田が笑って声をかける。
望も笑って返す。
「はい、真っ黒です」
黒田も自販機でコーヒーを買った。
二人は並んで缶を開けた。プシュッという音が二回響く。
「最近、お前一人でも回っとるな」
「……そうですかね」
「あぁ」
黒田は缶を傾けた。
「田中も、ようやっとる。他の奴らも動き始めた」
望は何も言わなかった。
「そろそろやな」
その言葉に、望は顔を上げた。
「な、なにがですか?」
「いや」
黒田は、足元を見ながら笑った。
「ええことや。継承、できたいうことやからな」
黒田は望を見た。
「お前、もうワシを追い越しとる」
「そんな……」
「いや、ほんまや」
黒田は、缶を飲み干した。
「お前は、ワシができんかったことをやっとる」
「できなかったこと?」
「あぁ」
黒田は、ゴミ箱に缶を入れた。
「仲間を、作った」
望は積極的に仲間を作った覚えなどない。何か言おうとしたが、黒田の言葉を待った。
黒田が続けた。
「ワシは、一人でやっとった。誰も巻き込まんと、一人で抱えとった」
黒田は、商店街を見渡しながら続ける。
「せやけど、お前は違う。田中も、店主たちも、巻き込んだ。みんなで、やっとる」
黒田の声が、少し震えた。
「それが、正しい」
望は、何も言えなかった。
「だからな」
黒田は、望の肩を叩いた。
「もう、安心や」
その手は、温かかった。
「帰るか」
「はい」
黒田が歩き出すと同時に、望も歩く。そして息が合うように二人は並んで歩く。
同じ方向へ向けて、今日も足音が重なる。
「明日も、来るんか?」
「はい」
「ほな、また」
「また」
それだけの会話。黒田は角を曲がって消えていった。
望はもう、孤独ではなかった。この町には仲間がいる。
見えないところで、誰かが動いている。
そして黒田もまだここにいる。明日もまた会える。
望は商店街を後にし、アパートに帰る。
狭い部屋に天井の染み。
シャワーを浴びて夕食を食べる。ベッドに横になり、天井の染みを見つめる。
明日も同じ日がやって来る。会社に行って、仕事をして、夜は商店街に行く。
誰も褒めない。誰も評価しない。でも、それでいい。
これが、望の働き方だ。お金も要らない。評価も要らない。
ただ、誰かの傍を楽にする。それが、望のブラック企業だ。
我こそはブラック企業。
その言葉が胸の中で静かに響く。望は目を閉じた。
黒田の笑顔が、瞼の裏に浮かんだ。
「今日もブラックやな」
「はい、真っ黒です」
その会話が、また明日も続く。明後日も、その先も。終わらない日常。
その日常を望は愛していた。
目覚ましが鳴り、いつも通りの朝が来る。
望は起き上がり、朝のルーティンをこなす。顔を洗い、歯を磨き、スーツを着る。
カバンを持って部屋を出る。いつもの道を、いつものように駅に向かう。
商店街の入り口を通りかかる。
ふと、視線が不動産屋の軒先に向いた。……看板がない。
「黒田 産」と書かれた、古い看板。
傾いたまま何年もそこにあった看板が、消えていた。
シャッターが下りている。窓には何も映っていない。ただ朝の光が反射しているだけだった。
望は看板があった場所を見上げた。痕だけが壁に残っている。
長い間そこにあったものの、影だけが。
望は深く息を吸った。今日も会社で裏方の仕事が待っている。
誰も見ていない場所で誰かを支える仕事。そして夜には、また商店街に行くのだ。
その繰り返し。決して華やかではないし、誰も注目はしない。
でも、それでいい。誰がいなくても望は続ける。
黒田が守ってきた、そして望が継承した名前のない仕事とこの町がある限り。
それを淡々と続ける。お金も、評価も、感謝も要らない。
ただ、誰かの傍を楽にする。それが今の望の働き方だ。
そう、僕は今日もブラック企業で働いている。
【終】
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「我こそはブラック企業」——この物語は、効率と成果ばかりを求める現代社会へのアンチテーゼとして書きました。
金にならない。評価されない。数字にもならない。
でも、誰かの傍を楽にする。
そんな「名前のない仕事」が、この世界にはたくさんあります。
会社の裏方業務も、家事も、介護も、地域の見守りも。
それらは「ブラック」と呼ばれるかもしれません。
でも、それでも誰かがやらなければ、社会は回りません。
この物語が、あなたの働き方を考えるキッカケになれば幸いです。
「正しさ」とは何か。
「豊かさ」とは何か。
そして「働く」とは、本当は何のためにあるのか。
答えは、一つではありません。
でも、問い続けることには、意味があると信じています。
望と黒田の物語が、あなたの心に少しでも残れば、これ以上の喜びはありません。
本当に、ありがとうございました。




