第51話:傍を楽にする人たち
望が風邪で倒れたのは月曜日の朝だった。
目覚ましが鳴る。手を伸ばそうとしたが体が動かなかった。頭が重く、喉が痛い。熱っぽい。
携帯を取って会社に電話する。
「すみません、今日休みます」
声がかすれていた。上司は「無理するな」とだけ言った。
電話を切って、望はまた眠りに落ちた。
次に目が覚めたのは昼過ぎだった。
窓から差し込む光がカーテン越しに部屋を照らしている。体を起こそうとしたが立ち上がれなかった。熱がまだ下がっていないらしい。
薬を飲んで、また横になる。今日は商店街に行けそうもない。
その事が妙に不安だった。今夜は誰が見回るのだろう。ゴミは拾われるのだろうか。
心配で見に行きたい気持ちはあったが、体が言うことを聞かなかった。
火曜日も水曜日も、望は部屋から出られなかった。
ようやく熱が下がったのは、木曜日の夕方だった。
起き上がれるようになって初めて、望は部屋の窓を開けた。一人暮らしだと、こういう時に辛いとつくづく感じる。外の空気が部屋に流れ込んできた。春の匂いがした。
携帯を見る。商店街の誰からも連絡はない。
少し寂しかった。と同時に少し安心した。何も起きていないということだ。
金曜日、望は会社に出社した。
まだ本調子ではなかったが、これ以上休むわけにはいかなかった。同僚が「大丈夫?」と心配してくれた。久しぶりに普通の会話ができた気がした。
夕方、定時で退社し商店街に向かう。四日ぶりだ。
いつもの道を歩く。商店街のアーケードの入り口が見えてくる。
そこで望は足を止めた。何かが違う。
何が違うのか、すぐには分からなかった。だが確かに空気が変わっている。
ゆっくりと商店街に向かって歩く。
和菓子屋の前を通る。店は開いている。
店先に小さな黒板が置かれていた。「本日のおすすめ」と書かれている。手書きの丁寧な字だ。
これは以前にはなかった看板だ。
惣菜屋の前を通る。店の前にベンチが置かれていた。古い木のベンチだ。誰かが持ってきたのだろう。高齢者が買い物の途中で休めるように。
このベンチも以前にはなかった。
呉服屋の前を通る。シャッターが上がっている。店主が若い男性と話していた。その男性は見覚えがある。最近この町に引っ越してきた新しい住民だ。
二人は笑いながら何かを話している。望が通りかかると店主が気づいた。
「おお、高井さん。最近見なかったけど、風邪でも引いたんか?」
「はい、不養生で。でももう平気です」
「そうか。無理すんなよ」
店主は、隣の男性を紹介した。
「こちら田中さん。先月こっちに引っ越してきたんや」
田中と名乗った男性は、三十代前半くらいだった。人懐っこい笑顔で望に頭を下げた。
「高井さんのこと、聞いてます。商店街で色々やってるって」
「いえ、大したことは……」
「いや、すごいですよ。俺も何か手伝えることあったら声かけてください」
その言葉に、望は少し驚いた。
「ありがとうございます」
「じゃ、また」
田中は、そう言って去っていった。
店主が、その背中を見ながら言った。
「ええ奴やで、あいつ。最近よう手伝ってくれるんや」
「手伝う?」
「ああ。ゴミ拾いとか、掃除とか。誰に頼まれたわけでもないのに勝手にやっとる」
望の胸が、じわりと温かくなった。
「そうなんですか」
「高井さんがおらん間も、ちょこちょこ動いとったで」
店主は、笑った。
「物好きが増えてきたな」
望は公園に向かった。ベンチに座る。先週、黒田と会った自販機のある場所だ。
周囲を見渡す。公園の隅に花壇ができていた。小さな花壇だ。チューリップが植えられている。まだ芽が出たばかりだが、きれいに整えられていた。
望は立ち上がって、花壇に近づいた。土が新しい。最近作られたものだ。
その時、後ろから声がした。
「ああ、それ俺が作ったんです」
振り返ると、さっきの田中が立っていた。
「田中さんが?」
「はい。ちょっと土いじりが好きで。公園、殺風景だったんで」
田中は照れくさそうに笑った。
「勝手にやっちゃったんですけど、怒られますかね」
「いえ、全然」
望は首を横に振った。
「ありがとうございます」
「いやいや。俺この町好きなんですよ。静かで人も優しいし」
田中は、花壇を見た。
「だから少しでも良くしたいなって。おかしいですかね」
「おかしくないです」
望は何だか嬉しくなって声が震えた。そしてもう一度言い直した。
「全然、おかしくないです」
田中は笑って去っていった。
望は一人花壇の前に立っていた。胸がいっぱいだった。
自分がいなくても町は回っている。いや回り始めている。
新しい人が動いてくれた。名前も付けずに評価も求めずに。ただ、この町を良くしたいという思いだけで。
望は商店街を一周して自販機の前に戻ってきた。缶コーヒーを買い、プルタブを開けて一口飲む。一週間ぶりの、この場所。
風邪で寝込んでいた間、ここに来られなかった。黒田にも会えなかった。
でも町は変わらずに、いや少しずつ良い方向に変わっていた。
望は缶を握りしめた。もう自分一人で抱える必要はない。
仲間がいる。そう思えることが何より嬉しかった。
「よう」
背後から声がした。振り返ると黒田が歩いてくるのが見えた。
コンビニの袋を提げている。いつもの登場の仕方に、いつもの姿だ。
久しぶりだった。一週間以上、会っていなかった。
「……黒田さん」
「最近、見いひんかったけど何かあったんか?」
黒田は自販機の前まで来て望に尋ねた。
「はい、もう大丈夫です」
「そうか。無理すんなよ」
望は缶を傾けながら口を開いた。
「一週間、来られなくて……何かありましたか?」
「いや」
黒田は首を横に振った。
「何もなかったで。みんな、ようやっとった」
「そうですか」
「田中が動いとったし、店主たちも協力しとった。お前がおらんでも回っとったわ」
その言葉に、望は少し寂しさを感じた。同時に安堵もあった。
「……良かったです」
「ああ」
黒田は、夜空を見上げた。
「もう、ワシは要らんかもな」
その言葉に、望は息を呑んだ。
「え?」
「いや」
黒田は笑った。
「そういう意味やない。まだおるよワシは」
黒田は望を見た。
「せやけど、な。お前一人でも回るようになってきた。新しい奴も出てきた。ほなワシの出番は減る」
望は何も言えなかった。
「それでええんや」
黒田の声は優しかった。
「触媒いうのはな、反応を起こしたら後は消える。それが仕事や」
「消える……?」
「消えるいうか……」
黒田は少し言葉を考えた。
「次の場所に、行く」
望の胸が、ざわついた。
「黒田さん、どこかに行くんですか?」
「いや、まだや」
黒田は缶を傾けた。
「まだ、ここにおる。せやけど、いつかは行く」
二人は暫くの間、黙っていた。望がぼそりと言った。
「……寂しいです」
正直な気持ちだった。
「黒田さんが居なくなってしまったら、僕……」
「大丈夫や」
黒田は望の背中をポンっと叩いた。
「お前には、もう仲間がおる。新しい物好きもおる。一人やないやろ?」
望は何も言わなかった。
「それに……ワシ、完全に消えるわけやない。この町のどこかに、ずっとおる」
黒田は商店街を見渡した。
「ここの石畳も、シャッターも、看板も。全部ワシが見てきたもんや。ワシがおらんようになっても、それは残る」
望は黒田の横顔を見た。
「だから」
黒田は望を見た。
「お前が続けてくれ」
「……はい」
二人は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に缶を捨てた。
「帰るか」
「はい」
二人は、いつものように並んで歩き出したが、今夜はいつもと少し違った。
黒田の足取りが少し軽いのだ。まるで何かから解放されたような歩き方だった。
望はその背中を見ながら感じた。黒田はもう次の場所を見ているのだと。
そして、この町を望に託そうとしている。それは寂しいが、同時に誇らしいことでもあった。
信頼されている証。継承されているのだ。
望は黒田の隣を歩きながら、この町を守ると誓った。
仮に黒田がいなくなったとしても、新しい仲間と一緒に続けていこうと思った。
いつものように、夜の商店街は今日も静かだ。
しかし以前とは違い、温度がある。誰かが見守っている温かい静けさだ。
そして、その「誰か」はもう、一人ではなかった。




