第50話:僕のブラック企業
金曜日の夜、望は会社の近くの居酒屋にいた。
誘われたわけではない。同期の飲み会があることを知って自分から顔を出した。断られるかと思ったが、幹事は「まあ、来たいなら」と言っただけだった。
店内は騒がしかった。金曜の夜、どのテーブルも満席だ。笑い声、グラスのぶつかる音、注文を取る店員の声。その喧騒の中で望のいるテーブルだけが妙に静かだった。
七人いる。全員、同期入社だ。だが望とは最近ほとんど話していない。
「お疲れ」
誰かがグラスを掲げた。全員が続く。望もグラスを掲げたが誰も望のグラスに合わせなかった。
一口飲んでグラスを置く。会話が弾まない。
「最近どう?」
隣の席の同期が、義務的に聞いてきた。
「まあ、普通に」
「そう」
それだけだった。会話がそこで途切れる。
望は、つまみの枝豆を取った。口に入れるが味がしない。
「なあ、高井」
向かいの席から声がかかった。営業部の同期だ。少し酔っているようだった。
「お前、地域活動の話を断ったんだって?」
場の空気が一瞬で変わった。全員の視線が、望に集まる。
「……うん」
「マジで? 三千万の案件だったんだろ?」
「そうだけど」
「なんで?」
望はグラスを握りしめた。
「まだ、完成してなかったから」
「完成?」
営業の同期が、首を傾げた。
「完成してから提案が来るわけないだろ。むしろ未完成だからこそ投資したいって言ってんじゃん」
「……そうかもしれないけど」
「そうかもしれない、じゃねえよ」
同期の声が少し大きくなった。
「お前、分かってんのか? あれ、お前の評価を戻すチャンスだったんだぞ。会社も後押しするって言ってたのに」
望は何も言えなかった。
「もったいねえ」
別の同期が、ため息をついた。
「俺だったら絶対受けたけどな」
「だよな」
「高井、何考えてんの?」
責める口調ではない。本当に分からないという顔だ。
望は視線を落とした。テーブルの木目が、ぼやけて見える。
「……守りたいものがあった」
「守りたいもの?」
「その活動の本質というか……」
「本質ねえ」
営業の同期がグラスを傾けた。
「でもさ、高井。お前のやってること結局、ブラック企業そのものじゃん」
その言葉に望の手が止まった。
「え?」
「だってそうだろ。会社じゃ裏方で評価も上がらない。夜は商店街でボランティアみたいなことやってる。金にもならない、評価にもならない。ただ自分の時間を削ってるだけ」
同期は笑った。
「それって、ブラック企業で搾取されてる社畜と何が違うの?」
周りが静かになった。誰も笑わない。望の反応を待っている。
望はグラスから手を離した。テーブルに手を置いて、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうだね」
「え?」
「そうだと思う。ブラック企業だ」
同期たちが顔を見合わせる。
「いや、だからさ……」
営業の同期が戸惑ったように言った。
「俺は、お前がもったいないって言いたいわけで……」
「もったいなくない」
望は、はっきりと言った。
「僕の、ブラック企業だから」
場が凍りついた。
望は続けた。
「時間は長い。定時もない。楽でもない。誰も褒めない。福利厚生もない」
同期たちが黙って聞いている。
「でも……」
望の声が震えた。
「それでも、やる。誰かが困ってるから。誰かの傍を楽にできるから」
望はグラスを取った。中身を一気に飲み干す。
「金も要らない。評価も要らない。ただ……自分の時間を誰かのために使い切る。それが僕のブラック企業です」
静寂がテーブルを包んだ。
隣の席の同期が、小さく息を吐いた。
「……お前、変わったな」
「変わった?」
「昔のお前は、もっと……合理的だった。ってか、無駄を嫌ってた。最短距離で成果を出すことに、拘ってた」
望は笑った。
「そうだったかもね」
「今は?」
「今も、拘ってる」
望はグラスを置いた。
「ただ成果の意味が変わっただけ」
営業の同期が、腕を組んだ。
「じゃあさ、高井。お前その『ブラック企業』で何を得たわけ?金もない、評価もない。得たものって、何?」
望は少し考えた。得たもの。それは何だろう。
「……分からない」
正直に答えた。
「まだ何も得てないかもしれない」
「だろ?」
「でも」
望は同期たちの顔を見渡した。
「失わなかったものは、ある」
「失わなかったもの?」
「自分の納得」
その言葉が、所謂今時のビジネスパーソンである同期たちの胸に刺さる。
望は構わず続けた。
「金を選んでたら後悔したと思う。評価を選んでたら何かが死んでた。だから断った」
望は立ち上がった。
「悪い、先に帰る」
「おい、高井」
誰かが呼び止めたが、望は振り返らなかった。会計を済ませて店を出る。
外は冷たかった。金曜の夜、駅前は人で溢れている。
酔っ払いの笑い声、タクシーのクラクション、居酒屋の呼び込みの声。その喧騒の中を望は歩いた。
ブラック企業。その言葉が頭の中で反響している。
同期は否定的な意味で使った。搾取される場所。時間を奪われる場所。そう言いたかったのだろう。だが望は、その言葉を肯定した。自分の意志で自分の時間を使い切る場所。それが僕のブラック企業だ。
既に閉店したお店の窓に映る自分の顔を見た。疲れている。目の下にクマができている。でもその顔は死んではいなかった。
そのまま商店街に向かう。もう夜の十時を過ぎている。ほとんどの店が閉まっている。シャッターの並ぶ通りを望は一人で歩いた。
足音が石畳に響く。和菓子屋の前を通る。シャッターは下りていたが、店先の植木鉢の花が少し増えていた。誰かが新しい花を植えたらしい。
惣菜屋の前を通る。店の明かりは消えている。よく見ると入り口の段差のところに、小さな木の板が置かれていた。高齢者がつまずかないように誰かが作ったのだろう。
呉服屋の前を通る。店先に小さな看板が立っている。「営業中」と書かれた手書きの看板だ。字が少し震えている。店主が自分で書いたのだろう。
小さな変化。誰も気づかないような小さな変化。だが確かに誰かが動いている。
望は公園の前で立ち止まった。ベンチに誰かが座っている。
暗くてよく見えなかったが、近づくと呉服屋の主人だった。
「……あれ、高井さん?」
主人が顔を上げた。
「こんな時間に、どうしたんですか」
「ちょっと歩いてただけです」
望は隣に座った。主人は缶コーヒーを飲んでいた。
「俺も、ちょっとな」
主人は苦笑した。
「店、閉めてから……何となく、ここに来てもうた」
しばしの沈黙。主人が口を開いた。
「……高井さん、すまんかった」
「え?」
「この前、きつい言い方したやろ。あれは……悪かった」
望は首を横に振った。
「いえ、僕が勝手に決めたことですから」
「せやけど」
主人は缶を握りしめた。
「高井さんの言うことも分かるんや。金だけやないって」
主人は夜空を見上げた。
「俺も、ずっとこの町におるからな。金で解決できることと、できんことがあるんは……分かっとる」
望は主人の横顔を見た。
「でも焦ってたんや。このままやと店が潰れる。家族を養えん。そう思うと……」
主人の声が震えた。
「今も正直分からん。高井さんの選択が正しかったんか間違ってたんか」
望は何も言えなかった。
「せやけど」
主人は望を見た。
「高井さんが、まだここにおる。それだけで……まあ、ええかなって」
その言葉が望の胸に温かく沁みた。
「……ありがとうございます」
主人は缶を飲み干した。
「さて、帰るわ」
立ち上がってゴミ箱に缶を捨てる。
「高井さんも、無理すんなよ」
そう言って、主人は去っていった。
望は一人ベンチに座っていた。夜風が頬を撫でていく。冷たい風が心地よかった。
僕のブラック企業。その言葉が、もう一度頭の中で響いた。
これで良かったのかもしれない。まだ答えは出ていない。不安もまだある。
しかし少しずつ何かが動き始めている。小さな変化が確かに起きている。
望は立ち上がった。自販機で暖かい缶コーヒーを買い、プルタブを開けて一口飲んだ。
その時、背後から声がした。
「よう」
振り返ると黒田が立っていた。
「……黒田さん」
「遅いな、今日は」
「ちょっと飲み会があって」
「そうか」
黒田も自販機でコーヒーを買った。
「同期はなんか言うてたか?」
「同期に、ブラック企業だなって言われました」
黒田は、笑った。
「で、何て答えたんや?」
望は少し照れくさそうに言った。
「……僕の、ブラック企業ですって答えました」
黒田は一瞬驚いて、そして大きく笑った。
「ははは!ええやないか」
その笑い声が夜の商店街に響く。
「我こそはブラック企業、やな」
黒田は望の肩を何度も叩いた。
「やっと、お前も一人前や」
「まだまだ、ですよ」
「まだまだでええ」
黒田は、缶を傾けた。
「これから、やろ」
二人は並んで、コーヒーを飲んだ。
自販機の光が二人を照らし、シャッターの並ぶ通りが静かに呼吸している。
望は確信した。これで良かったのだと。
ブラック企業。それは誰かの傍を楽にするために、自分の時間を使い切る場所。
金も、評価も、感謝も要らない。ただ、そこにいる。それが僕の働き方だ。
「帰るか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。同じ方向へ。
お互いの見ている景色も少しずつ近づいている。
それに呼応するように、二人の足音が重なって夜の商店街に響いていた。




