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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第50話:僕のブラック企業

金曜日の夜、望は会社の近くの居酒屋にいた。

誘われたわけではない。同期の飲み会があることを知って自分から顔を出した。断られるかと思ったが、幹事は「まあ、来たいなら」と言っただけだった。

店内は騒がしかった。金曜の夜、どのテーブルも満席だ。笑い声、グラスのぶつかる音、注文を取る店員の声。その喧騒の中で望のいるテーブルだけが妙に静かだった。

七人いる。全員、同期入社だ。だが望とは最近ほとんど話していない。


「お疲れ」

誰かがグラスを掲げた。全員が続く。望もグラスを掲げたが誰も望のグラスに合わせなかった。

一口飲んでグラスを置く。会話が弾まない。

「最近どう?」

隣の席の同期が、義務的に聞いてきた。

「まあ、普通に」

「そう」

それだけだった。会話がそこで途切れる。

望は、つまみの枝豆を取った。口に入れるが味がしない。

「なあ、高井」

向かいの席から声がかかった。営業部の同期だ。少し酔っているようだった。

「お前、地域活動の話を断ったんだって?」

場の空気が一瞬で変わった。全員の視線が、望に集まる。

「……うん」

「マジで? 三千万の案件だったんだろ?」

「そうだけど」

「なんで?」

望はグラスを握りしめた。

「まだ、完成してなかったから」

「完成?」

営業の同期が、首を傾げた。

「完成してから提案が来るわけないだろ。むしろ未完成だからこそ投資したいって言ってんじゃん」

「……そうかもしれないけど」

「そうかもしれない、じゃねえよ」

同期の声が少し大きくなった。

「お前、分かってんのか? あれ、お前の評価を戻すチャンスだったんだぞ。会社も後押しするって言ってたのに」

望は何も言えなかった。

「もったいねえ」

別の同期が、ため息をついた。

「俺だったら絶対受けたけどな」

「だよな」

「高井、何考えてんの?」

責める口調ではない。本当に分からないという顔だ。


望は視線を落とした。テーブルの木目が、ぼやけて見える。

「……守りたいものがあった」

「守りたいもの?」

「その活動の本質というか……」

「本質ねえ」

営業の同期がグラスを傾けた。

「でもさ、高井。お前のやってること結局、ブラック企業そのものじゃん」

その言葉に望の手が止まった。

「え?」

「だってそうだろ。会社じゃ裏方で評価も上がらない。夜は商店街でボランティアみたいなことやってる。金にもならない、評価にもならない。ただ自分の時間を削ってるだけ」

同期は笑った。

「それって、ブラック企業で搾取されてる社畜と何が違うの?」

周りが静かになった。誰も笑わない。望の反応を待っている。

望はグラスから手を離した。テーブルに手を置いて、ゆっくりと顔を上げた。

「……そうだね」

「え?」

「そうだと思う。ブラック企業だ」

同期たちが顔を見合わせる。

「いや、だからさ……」

営業の同期が戸惑ったように言った。

「俺は、お前がもったいないって言いたいわけで……」

「もったいなくない」

望は、はっきりと言った。

「僕の、ブラック企業だから」

場が凍りついた。


望は続けた。

「時間は長い。定時もない。楽でもない。誰も褒めない。福利厚生もない」

同期たちが黙って聞いている。

「でも……」

望の声が震えた。

「それでも、やる。誰かが困ってるから。誰かの傍を楽にできるから」

望はグラスを取った。中身を一気に飲み干す。

「金も要らない。評価も要らない。ただ……自分の時間を誰かのために使い切る。それが僕のブラック企業です」


静寂がテーブルを包んだ。

隣の席の同期が、小さく息を吐いた。

「……お前、変わったな」

「変わった?」

「昔のお前は、もっと……合理的だった。ってか、無駄を嫌ってた。最短距離で成果を出すことに、拘ってた」

望は笑った。

「そうだったかもね」

「今は?」

「今も、拘ってる」

望はグラスを置いた。

「ただ成果の意味が変わっただけ」

営業の同期が、腕を組んだ。

「じゃあさ、高井。お前その『ブラック企業』で何を得たわけ?金もない、評価もない。得たものって、何?」

望は少し考えた。得たもの。それは何だろう。

「……分からない」

正直に答えた。

「まだ何も得てないかもしれない」

「だろ?」

「でも」

望は同期たちの顔を見渡した。

「失わなかったものは、ある」

「失わなかったもの?」

「自分の納得」

その言葉が、所謂今時のビジネスパーソンである同期たちの胸に刺さる。

望は構わず続けた。

「金を選んでたら後悔したと思う。評価を選んでたら何かが死んでた。だから断った」

望は立ち上がった。

「悪い、先に帰る」

「おい、高井」

誰かが呼び止めたが、望は振り返らなかった。会計を済ませて店を出る。


外は冷たかった。金曜の夜、駅前は人で溢れている。

酔っ払いの笑い声、タクシーのクラクション、居酒屋の呼び込みの声。その喧騒の中を望は歩いた。

ブラック企業。その言葉が頭の中で反響している。

同期は否定的な意味で使った。搾取される場所。時間を奪われる場所。そう言いたかったのだろう。だが望は、その言葉を肯定した。自分の意志で自分の時間を使い切る場所。それが僕のブラック企業だ。

既に閉店したお店の窓に映る自分の顔を見た。疲れている。目の下にクマができている。でもその顔は死んではいなかった。


そのまま商店街に向かう。もう夜の十時を過ぎている。ほとんどの店が閉まっている。シャッターの並ぶ通りを望は一人で歩いた。

足音が石畳に響く。和菓子屋の前を通る。シャッターは下りていたが、店先の植木鉢の花が少し増えていた。誰かが新しい花を植えたらしい。

惣菜屋の前を通る。店の明かりは消えている。よく見ると入り口の段差のところに、小さな木の板が置かれていた。高齢者がつまずかないように誰かが作ったのだろう。

呉服屋の前を通る。店先に小さな看板が立っている。「営業中」と書かれた手書きの看板だ。字が少し震えている。店主が自分で書いたのだろう。


小さな変化。誰も気づかないような小さな変化。だが確かに誰かが動いている。

望は公園の前で立ち止まった。ベンチに誰かが座っている。

暗くてよく見えなかったが、近づくと呉服屋の主人だった。

「……あれ、高井さん?」

主人が顔を上げた。

「こんな時間に、どうしたんですか」

「ちょっと歩いてただけです」

望は隣に座った。主人は缶コーヒーを飲んでいた。

「俺も、ちょっとな」

主人は苦笑した。

「店、閉めてから……何となく、ここに来てもうた」

しばしの沈黙。主人が口を開いた。

「……高井さん、すまんかった」

「え?」

「この前、きつい言い方したやろ。あれは……悪かった」

望は首を横に振った。

「いえ、僕が勝手に決めたことですから」

「せやけど」

主人は缶を握りしめた。

「高井さんの言うことも分かるんや。金だけやないって」

主人は夜空を見上げた。

「俺も、ずっとこの町におるからな。金で解決できることと、できんことがあるんは……分かっとる」

望は主人の横顔を見た。

「でも焦ってたんや。このままやと店が潰れる。家族を養えん。そう思うと……」

主人の声が震えた。

「今も正直分からん。高井さんの選択が正しかったんか間違ってたんか」

望は何も言えなかった。

「せやけど」

主人は望を見た。

「高井さんが、まだここにおる。それだけで……まあ、ええかなって」

その言葉が望の胸に温かく沁みた。

「……ありがとうございます」

主人は缶を飲み干した。

「さて、帰るわ」

立ち上がってゴミ箱に缶を捨てる。

「高井さんも、無理すんなよ」

そう言って、主人は去っていった。


望は一人ベンチに座っていた。夜風が頬を撫でていく。冷たい風が心地よかった。

僕のブラック企業。その言葉が、もう一度頭の中で響いた。

これで良かったのかもしれない。まだ答えは出ていない。不安もまだある。

しかし少しずつ何かが動き始めている。小さな変化が確かに起きている。

望は立ち上がった。自販機で暖かい缶コーヒーを買い、プルタブを開けて一口飲んだ。

その時、背後から声がした。

「よう」

振り返ると黒田が立っていた。

「……黒田さん」

「遅いな、今日は」

「ちょっと飲み会があって」

「そうか」

黒田も自販機でコーヒーを買った。

「同期はなんか言うてたか?」

「同期に、ブラック企業だなって言われました」

黒田は、笑った。

「で、何て答えたんや?」

望は少し照れくさそうに言った。

「……僕の、ブラック企業ですって答えました」

黒田は一瞬驚いて、そして大きく笑った。

「ははは!ええやないか」

その笑い声が夜の商店街に響く。

「我こそはブラック企業、やな」

黒田は望の肩を何度も叩いた。

「やっと、お前も一人前や」

「まだまだ、ですよ」

「まだまだでええ」

黒田は、缶を傾けた。

「これから、やろ」

二人は並んで、コーヒーを飲んだ。


自販機の光が二人を照らし、シャッターの並ぶ通りが静かに呼吸している。

望は確信した。これで良かったのだと。

ブラック企業。それは誰かの傍を楽にするために、自分の時間を使い切る場所。

金も、評価も、感謝も要らない。ただ、そこにいる。それが僕の働き方だ。

「帰るか」

「はい」

二人は並んで歩き出した。同じ方向へ。

お互いの見ている景色も少しずつ近づいている。

それに呼応するように、二人の足音が重なって夜の商店街に響いていた。


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