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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第1章】正しさは役に立つか -ブラックの合理性-
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第5話:半歩だけ

その日は、予定よりも早くタスクが完了した。

正確には、終わらせたのだ。

新人が席を空けてから一週間、業務フローは極限まで単純化された。


確認の手間は消え、説明の時間は省かれ、判断のスピードだけが加速する。

効率とは裏腹に、望自身の作業量は増えているが、それを望自身は負担とは感じていない。

感じていないというよりも、感情を挟む余地がないのだ。


――効率がいい


PCモニターの電源を落とし、カバンを持つ。

誰とも言葉を交わさず、セキュリティゲートを抜ける。

完璧な一日だった。そう、納得できるはずだった。


オフィスの外に出ると、生温かい夕風が頬を撫でた。

駅へ向かう大通りと、商店街へ続く路地。


望の足は、迷うことなく路地の方へと向かっていた。

――近道だからだ

いつもの言い訳を、頭の中で繰り返す。


でも、本当は気づいていた。

空調で管理された無臭のオフィスにずっといると、妙に息苦しくなることに。

特に黒田と出会った時刻が近づくにつれ、それは顕著になる。


古いアーケードの下に入ると、夕飯の支度をする匂いがした。

揚げ物の油の匂い、焼き魚の煙、どこかの家のテレビの音。

雑多で、非効率で、でも生きている音。


その生活を感じる雑音の中に、異質な静けさを見つけた。

狭い歩道の真ん中で、巨大な木製の棚が揺れている。

運んでいるのは二人。

一人は年配の男性で、もう一人は見慣れた作業着の背中、黒田だった。


棚を持つバランスが、明らかに悪い。

どちらかと言うと年配の男性の方が、足元がおぼつかない様子だ。


望は反射的に足を止めかけたが、すぐに視線を戻した。

関わる理由はないし、手伝う義務もない。


――つまり、時間の無駄だ


そう判断して、通り過ぎようとした瞬間だった。

ガタン、と棚が大きく傾いた。とはいえ物理法則は待ってくれない。

思考するよりも早く、重力が棚を引き倒そうとする。


「……っ、危ない!」


自分の声だと認識するより先に、望の身体は動いていた。

革靴がアスファルトを蹴り、傾きかけた棚の角を両手で支える。


「――!」

ずしりとした木の重みが、腕に食い込む。


黒田が驚いたように振り返った。

「ああ?」


「右側、持ち上げます!」


望が叫ぶと、黒田は瞬時に状況を理解し、ニヤリと笑った。

「せやな。せーの、や!」


三人で力を合わせ、体勢を立て直す。

棚は一度宙に浮き、そのまま店の入り口へとスムーズに吸い込まれていった。


「ふう……助かったわ」

年配の店主が、額の汗を拭った。


「腰、もうあかんでな」

黒田が笑い、店主も「全くだ」と苦笑いする。


棚が収まるべき場所に収まるまで、五分とかからなかった。


「……これで終わりですか」

息を整えながら望が尋ねると、黒田は不思議そうな顔をした。


「他に何がある思うてたんや?」

「いえ……」


望は言葉を濁した。

もっと大掛かりで、手際の悪い作業を想像していたが、今の連携には無駄がなかった。


「なあ?」

黒田がポケットから煙草の箱を取り出し、手の中で弄ぶ。


「今の、どう思う?」

「どう、とは?」

「効率」


望は、まだ少し痺れている自分の手のひらを見た。

「……時間は、短かったと思います」


「せやろ」

黒田は短く言った。


「業者呼んだら、電話して、見積もり取って、日程合わせて……今日中には終わらへん」

「目の前の困りごとは、目の前の手で片付けるんが一番早い」


望は頷いた。それは事実だ。


「でも、金にはならへん」

黒田は、いつもの台詞を付け加えた。


望はスマホを取り出し、時刻を確認した。

帰宅時間が大幅に遅れるわけではない。明日の業務に支障が出るわけでもない。


「……五分なら」

ぽつりと、自分でも驚くほど自然に言葉が出た。


「たまになら非効率でも、許容範囲です」


黒田は、一瞬だけ目を丸くした。

それから、子供が悪戯を思いついたような顔で笑った。


「ほな、今日は合格や!」

「何の、ですか?」


「ブラック企業適性」


冗談めかした口調だったが、その目は笑っていなかった。

望は、曖昧に口元を緩めるしかなかった。


自分が何か大きな決断をしたとは思っていない。

目の前のものが倒れそうだったから、手を出した。

ほんの五分、半歩、踏み出しただけ、それだけだ。


「では、失礼します」

望は軽く頭を下げ、その場を離れた。


駅へと向かう足取りは、来る時よりも少しだけ軽い気がした。

疲れたわけではない、達成感とも違う。


だが不思議と「時間を浪費した」という不快感は、抜け落ちていた。

それが少しだけ、変な感じだった。


オフィスでは、五分で終わらない仕事が山ほどある。

しかも、終わったあとに残るのは疲労と、乾いたデータのログだけだ。

棚の重みも、木の手触りも、誰かの感謝も残らない。


望は歩きながら、湧き上がる思考を打ち消した。


――意味づけをするな

――ただの気まぐれだ


今日のことは、ただの偶然で反射的な行動に過ぎない。

そう結論づけながらも、望は右手のひらを、ぎゅっと握りしめた。

そこにはまだ、確かな木の感触が残っていた。


自分はもう、黒田の言う「効率」を完全には否定できなくなっているかもしれない。

それが、ほんの半歩だったとしても。


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