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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第49話:余白の中の不安

断ってから、一週間が経った。

会社では何も変わらなかった。いや、正確には何も変わっていないように見えた。朝、出社する、デスクに座る、パソコンを立ち上げる。保守業務のチケットを処理する。昼休みは一人で外に出る。夕方、定時で退社する。


ただ同僚との会話は減った。

「おはよう」と言っても返事が素っ気ない。休憩室でコーヒーを淹れていると誰かが入ってきて、望の顔を見てそのまま出て行く。悪意はないが、何を話していいか分からないのだろう。

「地域貢献の話、断ったんだって?」

廊下で別部署の同期に声をかけられた。

「うん」

「もったいないな。チャンスだったのに」

それだけ言って同期は去っていった。

もったいない。その言葉が一日中頭の中で反響していた。


夜、商店街に向かう。

いつもの時間、いつもの道。でも空気が違った。

和菓子屋の前を通る。店主の女将がシャッターを下ろしているところだった。望と目が合う。女将は視線を逸らした。そして何も言わずにシャッターを閉めた。

ガラガラという音が、やけに大きく響いた。

惣菜屋の前を通る。店の明かりは消えている。いつもならまだ開いている時間なのに。

呉服屋の前を通る。店主が店先を掃いていた。望が「こんばんは」と声をかけると、店主は軽く会釈しただけで何も言わなかった。


誰も話しかけてこない。

挨拶は返してくれる。それだけだ。雑談はなく笑顔もない。まるで透明人間になったような感覚だった。

望は集会所の前を通り過ぎた。

中から声が聞こえる。会合をしているようだ。新しい体制で。

窓から漏れる光が石畳を照らしている。

望は足を止めずに通り過ぎた。


自販機の前まで来た。いつもの場所。黒田がいるかもしれないと思ったが、誰もいなかった。

望は温かい缶コーヒーを買った。プルタブを開ける音が静寂に響く。

一口飲んで望は歩き出した。

どこに向かうでもなく、ただ商店街を歩く。見回りをするつもりではなかった。だが気づけば路地裏に入り、シャッターの状態を確認し、ゴミが落ちていないかを見ている。

体が勝手に動いていた。ゴミは無かった。いつもなら一つや二つは落ちている。吸い殻や、空き缶や、コンビニの袋。だが今夜は綺麗だった。


望は少し不思議に思った。公園の前を通りかかった。ベンチに座ろうとして気づいた。ベンチの端が直されている。先週まで、ここは少し壊れていた。木材が一部朽ちて座ると軋む音がしていた。黒田が「そのうち直す」と言っていたが、まだ直していなかったはずだ。

だが今、そこは真新しい木材で補修されていた。

誰が直したのだろう?

望はベンチに手を触れた。木の表面がまだ新しい。ささくれもない。丁寧に磨かれている。


缶コーヒーを飲みながら、また商店街を歩き続ける。

薬局の前を通る。店はもう閉まっていたが、店先の植木鉢に水がやられていた。土が湿っている。先週までは枯れかけていたはずの花が、少し元気になっている。

誰が水をやったのだろう?

望は立ち止まって、その花を見つめた。小さな名前も知らない花だ。でも誰かが世話をしている。

路地裏の壁に落書きがあった場所に来てみた。

先週まで、そこには乱雑なスプレーの跡があった。意味のない文字列。だが今、その上から白いペンキが塗られている。完全には消えていない。うっすらと下の落書きが透けている。でも誰かが消そうとした痕跡は、はっきりと残っていた。

望はその壁に手を触れた。ペンキはまだ完全に乾いていなかった。

誰がやったのだろう?


商店街を一周して自販機の前に戻ってきた。

残っていた缶コーヒーは、もう冷めていた。それを飲み干してゴミ箱に捨てる。

その時、ゴミ箱の中を見て望は気づいた。きれいに分別されているのだ。

缶は缶、ペットボトルはペットボトル。先週まで、ここはぐちゃぐちゃだった。誰も気にせず適当に捨てていた。でも誰かが整理している。


望の胸が高鳴った。

これで良かったのか、という問いが毎日頭の中で繰り返されていた。断ったことで、すべてを失った。予算も、評価も、信頼も。でも何かは残っている。

誰が、やっているのだろう?

黒田だろうか。それとも誰か別の人だろうか。

望には分からなかったが、確かに誰かが動いている。名前も付けられず、評価もされず、ただ黙って誰かの傍を楽にしようとしている。


望は自販機の前に座り込んだ。石畳が冷たい。それが心地よかった。

不安はまだある。商店街の人々は、まだ望を許していない。

会社での評価は下がったままだ。黒田も最近姿を見せない。本当にこれで良かったのか、という問いにまだ答えは出ていない。

だが小さな希望もある。

誰かが見ていないところで動いている。制度がなくても、予算がなくても、名前がなくても。ただ、誰かの傍を楽にするために。


それは望が守りたかったものだ。

望は立ち上がった。膝についた埃を払う。もう少し続けてみよう。

誰も見ていなくても誰も認めてくれなくても、この場所にいよう。黙って動こう。

答えはまだ出ない。でも答えが出るまで待つ覚悟はできていた。


その時、背後で足音がした。

振り返ると黒田が歩いてくるのが見えた。コンビニの袋を提げている。いつもの姿だ。

「よう」

黒田が、軽く手を上げた。

「……黒田さん」

望の声が少し震えた。

黒田は自販機の前まで来て缶コーヒーを買った。そして一本を望に渡す。

「飲め」

望は缶を受け取った。まだ温かい。

二人は並んで缶を開けた。プシュッという音が二回響く。

「最近、見なかったですね」

「ちょっとな」

黒田は、それだけ言った。どこに行っていたのか何をしていたのか、何も語らない。

「……気づきました?」

望は聞いてみた。

「何がや?」

「ゴミが、きれいになってました。ベンチも直ってました。花にも水がやられてました」

黒田は缶を傾けて一口飲んだ。

「そうか」

それだけだった。

「黒田さんが、やったんですか?」

「さぁな」

黒田は夜空を見上げた。

「ワシかもしれんし、誰か別の奴かもしれん。分からん」

望は黒田の横顔を見た。

「でも」

黒田は続けた。

「誰がやったかは、どうでもええやろ?」

「大事なんは、やられとるいうことや。誰かが見とらんとこで動いとる。それだけで十分やないか!?」

望の胸が、じわりと温かくなった。

「……はい」

黒田は、缶を飲み干した。

「焦るな」

そして潰した缶をゴミ箱に入れた。

「お前が断ってから、まだ一週間や。一週間で全部が変わるわけないやろ」

「でも……」

「でも、何や?」

黒田は望を見た。

「もう動きは出とる。お前が気づいたんやろ、さっき。ほな、それでええやないか」

望は缶を握りしめた。

「不安なんは、当たり前や」

黒田の声が優しくなった。

「誰かに認められたい。評価されたい。正しかったと証明したい。そう思うんは人間やから当然や」

黒田は望の肩に手を置いた。

「せやけど、それを我慢するんが……お前の仕事や」

望は目を閉じた。

「我慢、できますかね?」

「できる」

黒田は即答した。

「お前、もう一週間我慢したやないか。ほな、あと一週間もいける。そしたら、また一週間」

黒田は手を離した。

「そうやって、続けるんや」

黒田の背中が、夜の通りに消えていく。

「また明日な」


望は一人になった。もう孤独ではなかった。

自販機の光が足元を照らしている。遠くで誰かの足音が聞こえた気がした。

それが誰なのか分からない。だが確かに、この町には人がいる。動いている人がいる。

望は缶を飲み干した。まだ不安はある。答えも出ていない。

だが、続ける。それだけは決めていた。

望はゴミ箱に缶を捨てた。きれいに分別されたゴミ箱の中に静かに落ちていく音がした。

そして夜の商店街を後にした。


明日もここに来る。

誰も見ていなくても、誰も認めてくれなくても。

ただ、この場所にいる。それが今の望にできる唯一のことだった。


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