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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第48話:断る、そして失うもの

月曜日の朝、望は会社に向かう電車の中で携帯を握りしめていた。

画面には昨夜書いたメールの下書きが表示されている。視察団への返信だ。

何度も書き直して丁寧な言葉を選んだ。それでも本質は変わらない。

「お断りします」

たった六文字。だがその六文字が、送信ボタンを押す指を凍らせていた。

電車が揺れて、吊り革が軋む。誰もが下を向いてスマートフォンを見ている。その中で望だけが画面を見つめたまま動けないでいた。


駅に着き、ホームに降りる。改札を抜けてオフィスビルのエレベーターに乗る。すべてが機械的だった。体が勝手に動いている。

デスクに着いてパソコンを立ち上げる。ログイン画面。パスワードを入力する指が、わずかに震えた。

メールソフトを開く。下書きフォルダ。そこに、あのメールがある。

望は深く息を吸った。肺の底まで空気を入れる。そして吐く。

送信ボタンを、押した。

画面に「送信済み」と表示される。その文字を見つめていると隣の席の同僚が声をかけてきた。

「高井、大丈夫?顔色悪いぞ」

「……大丈夫です」

嘘だった。大丈夫なわけがなかった。だが、もう戻れない。


昼休み、望は駅前の喫茶店に向かった。

同じ革張りのソファ。同じ大理石のテーブル。だが今日は窓際の席ではなく奥の席に案内された。CSR推進室の担当者が、既に座っていた。

「高井さん、お待ちしていました」

担当者は笑顔だった。完璧なビジネスの笑顔だ。テーブルの上には前回と同じ封筒が置かれている。

「契約書の最終版を持ってきました。サインをいただければ、すぐにでも……」

「すみません」

望は遮るように言った。担当者の笑顔が一瞬で固まる。

「お断りさせてください」

静寂が落ちた。エスプレッソマシンの音だけが遠くで響いている。

「……お断り、ですか?」

担当者の声のトーンが、一段下がった。笑顔は消えていない。だが目が笑っていなかった。

「理由を伺ってもよろしいですか」

望は用意していた言葉を口にした。

「この取り組みは、まだ完成していません。広げられる段階ではないんです」

「それは前回も伺いました。だからこそ我々がサポートするんです」

担当者は身を乗り出した。

「三千万の予算です。高井さん分かっていますか? これだけの金額を地域コミュニティに投じる企業がどれだけあると思いますか」

「……分かっています」

「分かっていないでしょう」

担当者の声が冷たくなった。

「あなたは自分の能力を無駄にしている。この提案を断るということは、あの商店街を見捨てるということです。予算がなければ、いずれ限界が来る。そうなった時あなたは責任を取れるんですか?」

正論だった。何一つ間違っていない。だからこそ反論できなかった。

「もう一度、考え直してください」

封筒が望の方に押し出された。

「来週まで待ちます。それまでに返事をください」

担当者は立ち上がった。会計を済ませて店を出ていく。

望は一人、テーブルに残された封筒を見つめた。コーヒーが冷めていた。


夕方、望は上司に呼ばれた。

会議室ではなく上司のデスクの脇だった。周囲に人がいる。ざわめきの中での短い会話。

「高井、商工会の件だが」

上司は声を落とした。

「断ったそうだな」

「……はい」

「理由は?」

望は、また同じ言葉を繰り返した。まだ完成していない。広げられる段階ではない。

上司は、しばらく黙っていた。周囲のキーボードを叩く音だけが響く。

「分かった」

それだけだった。

「ただ、一つだけ言っておく」

上司はモニターから目を離さずに続けた。

「チャンスは、二度は来ない」

その言葉が望の背中に冷たく突き刺さった。


夜、商店街の集会所に向かう足取りは重かった。

今夜も臨時の会合がある。企業からの提案について正式な返答を伝える場だ。引き戸を開けると、既に全員が揃っていた。いつもより人数が多い。普段は来ない店主たちも今日は顔を出していた。

望が席に着くと進行役の役員が口を開いた。

「高井さん、企業さんからの返事は?」

全員の視線が望に集まる。期待の眼差し。その重さが肩にのしかかった。

「……お断りしました」

一瞬、誰も反応しなかった。言葉の意味が理解できなかったかのように。

「は?」

若手の店主が聞き返した。

「断った、って……何を?」

「企業からの提案を、すべてお断りしました。視察団の依頼も同じく」

ざわめきが起きた。信じられない、という声。なぜだ、という声。

「ちょっと待ってくれ」

呉服屋の主人が立ち上がった。

「三千万やぞ。それを断ったって、どういうことや?」

「まだこの取り組みは完成していません。今の状態で広げると本質が失われます」

「本質?」

別の店主が苛立ったように言った。

「本質より金やろ。金がなければ何もできへん。高井さん、あんた分かってるんか」

「分かっています」

望は自分の声が震えているのを感じた。

「でも、受けたらこの場所が変わってしまいます。管理されて、数字で測られて、本来の温かさが……」

「温かさで飯が食えるか!」

怒鳴り声が響いた。和菓子屋の女将だった。いつも優しい彼女が初めて声を荒げた。

「うちの店、もう限界なんや。シャッター閉めるか、誰かに売るか。そういう瀬戸際やねん。三千万あれば改装できた。もう少し頑張れた。それを……勝手に断られて……」

女将の声が震えた。

「あんた、何様のつもりや」

その言葉が望の胸に深く突き刺さった。

「すみません……」

謝罪の言葉しか出なかった。

「すみませんで済むか!」

若手の店主がテーブルを叩いた。

「俺たち、高井さんを信じて協力してきたんや。それやのに相談もなしに勝手に決めて……」

「勝手やない」

進行役の役員が、制するように言った。

「高井さんにも考えがあるんやろ。……高井さん、もう一度説明してくれへんか。なぜ断ったんや?」


望は視線を落とした。白い長机の木目が、ぼやけて見える。

「……黒田さんがやってきたことを守りたかったんです」

「黒田さん?」

「黒田さんは制度にすることを拒んできました。名前を付けることで本質が失われることを知っていたから。僕も、それを……」

「黒田さんは、もうおらんやないか」

惣菜屋の店主が冷たく言った。

「最近、全然顔見いひん。もう飽きたんちゃうか、この町に」

その言葉が望の心臓を締め付けた。

「そんなこと……」

「高井さん」

役員が深いため息をついた。

「黒田さんは確かにすごい人や。でも黒田さんのやり方だけが正解やない。時代は変わる。やり方も変えなあかん」

「そうや」と別の声が続いた。

「いつまでも昔のやり方に固執しとったら、この町は死ぬ」

望は反論できなかった。彼らの言うことは正しい。

現実的で、合理的で、生き残るための正論だ。


「高井さん、悪いけど」

役員が静かに言った。

「今後の活動は、高井さん抜きで進めさせてもらうわ」

望の息が止まった。

「え……?」

「あんたは、もうここに関わらんでええ。俺らで何とかする」

それは、追放だった。

望は立ち上がった。足が震えている。何か言おうとしたが言葉が出なかった。

視線が痛い。非難の目。失望の目。そして、もう信用できないという目。

望は逃げるように集会所を出た。

引き戸を閉める音が背中に響く。

外は冷たかった。春の風は、もうどこにも吹いていなかった。


望は商店街を歩いた。足音だけが石畳に響く。どこに向かっているのか自分でも分からなかった。ただ歩いている。シャッターの並ぶ通りが、いつもより暗く見えた。

すべてを失った。

会社での評価回復のチャンス。巨額の予算。そして商店街の人々の信頼。

何のために断ったのか。黒田の言葉を守るため?それとも自分の理想を守るため?

分からなくなっていた。

望は自販機の前で立ち止まった。缶コーヒーを買う。温かいのを選んだはずなのに手の中で冷たく感じられた。


そのとき背後で気配がした。振り返ると黒田が立っていた。

いつからそこにいたのか分からない。ただ暗がりの中に佇んでいた。煙草も吸っていない。ただ、そこにいた。

「……黒田さん」

望の声が、震えた。

黒田は何も言わなかった。ただ、ゆっくりとこちらに歩いてきて望の隣に立った。

自販機の光が、二人を薄く照らしている。

「聞いとったで」

黒田が静かに言った。

「断ったんやな」

「……はい」

「全部か?」

「全部です」

黒田は小さく頷いた。

「そうか」

それだけだった。責めもしない。褒めもしない。ただ事実を確認しただけ。

沈黙が二人の間に落ちた。それは気まずい沈黙ではなかった。


望は缶を握りしめた。金属が手のひらの中で少し凹む。

「……間違ってましたか?」

ようやく聞いた。

黒田は夜空を見上げた。雲が流れている。星は見えない。

「間違っとったかもしれんな」

その言葉に望の胸が痛んだ。

「でも」

黒田は続けた。

「正解、選んだところで何も残らんかったかもしれん」

望は黒田の横顔を見た。

「どっちを選んでも、何かは失う。せやったら……」

黒田は、ようやく望を見た。

「自分が納得できる方を選ぶしかない」

望の目頭が熱くなった。

「僕……何も残せませんでした。予算も、評価も、信頼も……全部失いました」

「そうやな」

黒田は否定しなかった。

「失ったな。全部失った」

その言葉が妙に優しく聞こえた。

「でも」

黒田は望の肩に手を置いた。

「お前、逃げんかったやろ?」

望は息を呑んだ。

「正しさに屈せんかった。金にも、評価にも、みんなの期待にも。全部に『NO』言うて自分の足で立った」

黒田の手に力が入る。

「それだけで十分や」

望の頬を一筋の涙が伝った。止められなかった。

「泣くな」

黒田は手を離した。

「まだ終わっとらん」

「……終わってないんですか?」

「当たり前や」


黒田は自販機のボタンを押した。缶コーヒーが、ガコンと音を立てて落ちてくる。

「失ったもんは取り戻せる。時間はかかるけどな」

黒田は缶を取り出して、プルタブを開けた。

「せやけど、一度屈したら……もう戻れん」

その言葉が望の胸に深く刻まれた。

二人は並んで、缶コーヒーを飲んだ。

自販機の光が二人を照らしている。通りは静かだった。誰も通らない。シャッターの並ぶ商店街が夜の闇に沈んでいる。


望は初めて気づいた。孤独ではない。

すべてを失っても黒田が隣にいる。それだけでまだ立っていられる。

「明日から、どうしたら良いんですか?」

望は聞いた。黒田は缶を飲み干して答えた。

「同じや」

そして潰した缶をゴミ箱に放り込んだ。

「会社行って、仕事して、夜はここに来る。それだけや」

「でも、もう商店街の人たちは……」

「そのうち、分かる」

黒田は歩き出した。


「お前が、ここにおり続けたら……いつか分かる」

望は黒田の背中を見た。

「行くぞ」

黒田が振り返らずに言った。

望は缶を飲み干した。そしてゴミ箱に捨てて黒田の後を追った。

二人の足音が石畳に響く。すべてを失った夜。

だが望にとっては、初めて自分の足で立った夜でもあった。



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