第47話:四方からの包囲
差し出された手を望は握らなかった。
「……少し、考えさせてください」
搾り出すように言った声は自分でも驚くほど小さかった。視察団の三人が顔を見合わせる。期待していた答えではなかったのだろう。それでも彼らは笑顔を崩さなかった。
「もちろんです。ただ来月には予算の申請期限がありますので、できれば今週中にお返事を」
名刺がもう一枚テーブルに置かれた。「地域振興課長」と書かれた文字が、蛍光灯の光を反射している。
三人が立ち上がる音。椅子が床を擦る音。握手を求める手が、もう一度差し出される。今度は望も立ち上がって、その手を握った。冷たかった。それとも自分の手が冷たいのか、もう分からなかった。
集会所の引き戸が閉まる音が響き、望は一人になった。
白い長机の上に資料の束が残されている。カラフルなグラフと整然と並んだ文字。それらが、まるで別世界の言語のように見えた。窓の外では、まだ春の風が吹いている。だが集会所の中には、その風は届かない。
望は椅子に座り込んだ。机に両肘をついて頭を抱える。
その夜、望は狭いアパートの部屋で横になっていた。
電気も付けずに天井の染みを眺めている。窓から差し込む街灯の光だけが部屋を薄暗く照らしていた。携帯が枕元で震え、画面が光る。会社の上司の名前が表示されている。
望は一瞬、無視しようかと思った。だが結局は通話ボタンを押した。
「高井か。今、大丈夫か」
上司の声は穏やかだった。夜の九時過ぎに電話をかけてくる時点で何かあると分かっていた。
「はい、大丈夫です」
「さっき、総務から連絡があってな。君が地域活動で注目されているという話を聞いた」
望の心臓が、一拍飛んだ。
「隣県の商工会が君の名前を挙げて問い合わせてきたそうだ。地域貢献の実績として会社としても後押しできないかと」
上司は少し間を置いた。その間が妙に重く感じられた。
「正直に言う。君は今、裏方に回っている。評価も下がった。このままだと復帰は難しい。だが、もしこの地域貢献活動を会社の公式プロジェクトとして進められれば……話は変わってくる」
望は何も言えなかった。喉が渇いて唾を飲み込もうとしたが、口の中に唾液がなかった。
「チャンスだと思う。君の能力をもう一度評価できる機会だ。考えてみてくれ」
電話が切れた。
部屋が再び暗闇に沈む。望は携帯の画面を見つめたまま動けなかった。天井の染みが街灯の光の中でぼんやりと浮かんでいる。
翌日の昼、望は駅前の喫茶店にいた。
革張りのソファと大理石のテーブル。窓際の席から見える景色は、ビルとビルの隙間だけだ。この店に来るのは初めてだった。商店街の喫茶店とは何もかもが違う。清潔で静かで、温度管理も完璧だ。だがどこか息苦しかった。
向かいに座っているのは大手企業のCSR推進室の担当者だった。三十代半ば。紺のスーツに白いシャツ。髪は短く刈り上げられ、眼鏡の奥の目は鋭い。名刺には「サステナビリティ推進部 部長代理」とあった。
「高井さんの取り組み、拝見しました」
担当者はタブレットを操作しながら言った。画面には望が書いた概要資料が表示されている。だがそれは、またしても望が書いたものとは違う形に加工されていた。
「弊社では現在、地域コミュニティ再生プロジェクトを全国展開しています。高井さんのモデルは、その中核として最適です」
テーブルの上に分厚い封筒が置かれた。
「初年度の予算案です。人件費、設備費、広報費、すべて含めて三千万円を想定しています。高井さんにはプロジェクトマネージャーとして月額五十万円のコンサルタント料をお支払いします」
望の手がコーヒーカップを持ったまま止まった。五十万円。今の給料の倍以上だ。
「もちろん、現在のお仕事と並行していただいて構いません。むしろ企業人としての視点を持ちながら地域に関わる、というのが我々の理想です」
担当者は笑った。完璧なビジネススマイルだった。
「来週、役員会で正式決定します。そこで高井さんにプレゼンしていただきたい。もちろん、資料作成はこちらでサポートします」
封筒が望の方に押し出された。中には契約書の草案が入っているのだろう。望はそれを見つめた。手を伸ばせば届く距離にある。
「お返事は?」
担当者の声が、遠くから聞こえた。
「……少し、考えさせてください」
また同じ言葉を口にしている自分がいた。
その夜、商店街の集会所で臨時の会合が開かれた。
いつものメンバーが集まっていたが、どこか空気が違った。誰もが資料を手にしている。望が受け取った提案書のコピーだ。誰かが、どこかから入手して配ったらしい。
「三千万円……」
若手の店主が資料を見ながら呟いた。
「これだけあれば、シャッター通りの半分は改装できる」
「防犯カメラも増やせる」
「夜間の警備も雇える」
次々と声が上がる。それは希望の声だった。今まで予算がなくてできなかったことが、できるようになる。その期待が部屋の空気を温めていた。
だが望の胸は、冷たかった。
「高井さん」
進行役の役員が望を見た。
「我々としては……正直、ありがたい話だと思っています。予算があれば黒田さんにも負担をかけずに済む」
「そうや」と別の店主が続けた。
「黒田さんも、もう若くない。いつまでも一人に頼るわけにはいかんやろ」
善意だった。誰も悪気はない。ただ、この商店街を良くしたいと思っている。そのために予算という現実的な解決策を選ぼうとしている。
「……黒田さんは?」
望は部屋を見渡した。いつもの席が空いている。歪んだ背もたれのパイプ椅子だけが、そこにあった。
「今日は来とらんな」
「最近あんまり顔見いひんけど」
「別の用事があるんやろ」
誰も気にしていない様子だった。だが望には黒田が意図的にこの場を避けていることが分かっていた。望に判断させるために、そして一人で決めさせるために。
「高井さん、どう思う?」
全員の視線が望に集まった。期待の眼差しだ。「はい」と言ってほしい、という無言の圧力が、四方から押し寄せてくる。
望は、呼吸が浅くなった。視界の端が少しずつ暗くなっていく気がした。
会合が終わったのは夜の十時を過ぎていた。
望は一人で商店街を歩いた。黒田を探していた。いつもの自販機の前。不動産屋の軒先。公園のベンチ。どこにもいない。煙草の匂いすらしない。
足音だけが石畳に響く。シャッターの並ぶ通りが、いつもより長く感じられた。
望は歩きながら、自分が四方から包囲されていることを実感していた。視察団の期待。会社の評価回復のチャンス。企業の巨額な予算。商店街の人々の希望。
どれも善意だ。どれも正しい。どれも望のためを思って差し出された手だ。
だがその手を握れば何かが死ぬ。それだけは分かっていた。
望は立ち止まった。もう一度周囲を見渡す。黒田はどこにもいない。
その時、背後から声がした。
「探しとったんか?」
振り返ると黒田が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。
暗がりから、ぬっと現れたように見えた。手にはいつものコンビニの袋を提げている。
「黒田さん……」
望の声が震えた。
黒田は望の顔を見て、すぐに理解したようだった。何も聞かずに自販機の前まで歩いていく。缶コーヒーを二本買って、一本を望に渡した。
「飲め」
望は缶を受け取った。冷たかった。プルタブを開ける音が夜の静けさに響く。
黒田は缶を開けずに、ただそれを手のひらで転がしながら言った。
「聞いとるで。あちこちから、ええ話が来とるんやろ」
望は頷いた。言葉が出なかった。
「金も出る。評価も上がる。町も助かる。ええことづくめや」
黒田は夜空を見上げた。星は見えない。雲が厚い。
「せやけどな」
黒田の声が、一段低くなった。
「それは仕事やない。管理や」
望は息を呑んだ。
「管理は人を救う。数字で、ルールで、予算で。確かに救う」
黒田は缶を握りしめた。少し凹む音がした。
「せやけど、『傍』を殺すぞ」
その言葉が望の胸に突き刺さった。
「管理されたもんは管理の外に出られへん。ルールに書いてないことは誰もやらんようになる。予算がつかんことは価値がないと思われる」
黒田は、ようやく缶を開けた。プシュッという音。そして一口飲んで続けた。
「お前が受けたら、この町は『成功事例』になる。全国に広がる。マニュアルができる。視察が来る。表彰される」
黒田の目が望を見た。
「そしてワシらがやってきた『名前のない十パーセント』は、全部消える」
望は缶を握る手に力が入るのを感じた。
「お前、それでええんか?」
黒田は問うた。責めているのではない。ただ確認している。
望は答えられなかった。喉が詰まっている。視界が少しずつ滲んでいく。
黒田は望の肩に手を置いた。重い手だった。
「逃げてもええんやぞ。全部断って、ここを離れてもええ。誰も責めん」
その優しさが、余計に辛かった。
「せやけど残るなら……」
黒田は手を離した。
「覚悟、決めとけ」
そう言って黒田は歩き出した。望を置いて夜の通りに消えていく。
望は一人、自販機の前に立ち尽くした。手の中の缶だけが、まだ温もりを持っていた。
四方から包囲されている。どの道を選んでも何かを失う。
望は夜空を見上げた。雲の隙間から、一つだけ星が見えた。
望は自分がもうすぐ、人生で最も重い決断をしなければならないことを何となく理解していた。




