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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第46話:頼まれてしまう

春の気配を孕んだ風がアーケードの隙間を吹き抜けていく。

外では梅の香りが漂い始めている。日差しも少しずつ長くなり石畳の上に落ちる影が柔らかい。

しかし集会所の空気は、それとは無関係に凍りついていた。窓から差し込む光が床を照らしているのに室内には温度がない。蛍光灯の白い光だけが、まるで解剖室のように空間を満たしていた。

「素晴らしい取り組みです。感動しましたよ、高井さん」

テーブルを挟んで対峙しているのは隣県の商工会から来た視察団だった。三人組だ。

仕立ての良いスーツ。磨かれた革靴。髪の毛一本乱れていない。そして名刺入れから滑り出てくる「地域振興課長」「地方創生推進室」といった、漂白された正しさを纏った肩書きたち。

彼らは商店街を見学したはずなのに、服に埃一つついていない。靴底も汚れていない。まるでこの場所の空気に触れていないかのような、清潔すぎる存在感があった。


彼らの前には、望が作成した「傍楽マイレージ」の概要資料が置かれていた。

しかしそれを見た瞬間、望は違和感を覚えた。これは自分が書いたものではない。いや正確には自分が書いた言葉が使われているが、何かが決定的に違う。

望が意図した「仮置き」のメモではなく、いつの間にか行政のネットワークを通じて「成功事例の完成図」として再構成されていた。


ページをめくる音が妙に大きく響く。

「実は我々の地域でも来月から導入を決定しました。既に補正予算の枠も確保してあります」

一人の担当者が完璧な笑顔でタブレットを操作した。画面にはカラフルなグラフとチャートが並んでいる。

望が書いた「澱み」や「余白」という言葉が、いつの間にか「地域コミュニティの最適化アルゴリズム」という無機質な言葉に置換され、美しい円グラフに変換されていた。


望の視界が、一瞬揺らいだ。

「え……導入、ですか?」

望の心拍数がアラートのように跳ね上がる。パイプ椅子の座面を握る手のひらに、じわりと汗が滲んだ。

「ええ。モデルケースとして、あなたの名前も使わせていただいています。上層部も『若きリーダーによる革新』と大喜びでしてね。高井さん、ぜひアドバイザーとして我々の会議にも出席していただきたい」


善意だった。

彼らの瞳にあるのは濁りのない期待と、この仕組みを「広める」ことが正義であるという絶対的な確信だ。悪意はない。むしろ熱意に満ちている。だからこそ怖かった。彼らはこれを素晴らしい製品だと思い、一刻も早く量産化しようとしている。


望は視線を落とした。

資料に印刷された文字が、インクの染みの集まりに見える。一つ一つの言葉が意味を失って、ただの記号として紙の上に並んでいるようだった。自分の書いたはずの言葉が他人のものになっている。

「……まだ、完成したわけではありません。これはこの街の特定の人間関係という『慣性』があってこそ、辛うじて回っているもので……」

「だからこそ、ですよ」

別の役員が、熱っぽく身を乗り出した。テーブルに手をついて望に顔を近づける。

「属人性を排し、システムとして確立する。それこそが持続可能な地域づくりの正解じゃないですか。予算が出るんです。人件費も開発費も、我々が持ちます」


契約。予算。スケールアップ。

あちら側の世界の論理が、圧倒的な質量を持って望を押し潰そうとしていた。その言葉の一つ一つが、まるで重い石のように胸の上に積み重なっていく感覚があった。

かつての望なら、この提案に飛びついていただろう。自分のスキルが認められ、社会的なインパクトを与えるチャンス。それこそが「正しいキャリア」の登り方だ。会議室で拍手を受け、名刺の肩書きが増え、ビジネス用SNSのプロフィール欄が華やかになる。


だが今の望には、その「広がり」が鋭利な圧搾機のように見えた。

広めるということは個別の事情を削ぎ落とすことだ。マニュアル化するということは黒田が大切にしていた「名前のない十パーセント」を消去することに他ならない。望の脳裏に、黒田が語った過去の光景が浮かんだ。名前を付けた瞬間に、助け合いが監視に変わった日。仲間が切られた日。

望の呼吸が、浅くなった。

「……黒田さんは、何と?」

望は、縋るようにその名を出した。声が少し震えている。

「黒田さん?あぁ、あの不動産屋のご老人ですか。挨拶はしましたが『若いのに任せとる』と仰っていましたよ。今日は不在のようですが我々の話にはあまり興味がないようでしたな」


黒田は、いない。

自販機の前にも不動産屋の奥にも。望は無意識に黒田がいつも座る席に視線を向けた。そこには空のパイプ椅子があるだけだった。背もたれが少し歪んでいる。黒田がいつも体重をかけている痕だ。

彼はあえて、この場から姿を消したのだ。望が自分の足で「境界線」を引くことができるか、試しているかのように。

望の背中に冷たい汗が張り付いた。シャツが肌にまとわりつく。

今ここで自分が頷けば、このシステムは「正解」として全国にコピーされるだろう。そしてコピーされるたびに現場の「体温」は薄まり、冷徹な監視の道具へと変質していく。かつて黒田が「正しさ」で仲間を殺したあの日と同じ軌道が、望の目の前にまっすぐ伸びていた。


視察団の一人が資料をめくった。ページが擦れ合う乾いた音が集会所に響く。

「素晴らしいことです。ぜひ共にやりましょう!」

差し出された手。

その手は白く清潔で、爪もきれいに整えられていた。完璧に管理された手だ。それは祝福の握手ではなく、この澱んだ聖域を「管理」という名で侵略するための宣戦布告のように感じられた。


望はその手を見つめたまま、しばらく動けなかった。

喉の奥がカラカラに乾き、唾を飲み込むことさえ難しい。口の中が砂漠のようだった。自分の手が膝の上で小刻みに震えているのが分かった。

広がることは必ずしも祝福ではない。

窓の外には春の風が吹いている。梅の香りを運んできているはずだ。だが集会所の中には、その香りは届かない。ただ蛍光灯の光が、差し出された手を冷たく照らしているだけだった。


望は初めて、その「成功」という名の恐怖を骨の髄まで理解した。黒田がかつて立っていた場所に、今自分が立っている。同じ問いを突きつけられている。


握手を求める手が、まだそこにある。

望の視界の端で空のパイプ椅子が静かに佇んでいた。



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