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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第45話:我こそはブラック企業

夜の帳が下り、蛍光灯の白い光だけが集会所の部屋の中を冷たく照らしている。

窓の外は真っ暗だ。ガラスに映る室内の光景が、まるで水槽の中のように閉じ込められて見えた。

その日の議題は来年度の「予算」だった。町から回ってくる僅かばかりの補助金。

それを獲得するためには、どう申請書を書くのが最適か。それがこの日のゴールだった。


長机には役所言葉で埋め尽くされた分厚い資料が配られている。誰もページをめくらない。ただ表紙を眺めたまま固まっている。

「活動内容の明確化(透明性)」

「成果の定量的評価エビデンス

「持続可能な運用計画サステナビリティ


ぐうの音も出ないほど役所的に社会的に正しい要求だ。だからこそ誰も口を開けなかった。

反論も肯定もできない。その正しさに従えば今のこの商店街の「ぬくもり」が死んでしまう。それだけは、ここにいる全員が肌で感じていた。

沈黙が鉛のように重くなる。聞こえてくるのは誰かが貧乏ゆすりをする音、パイプ椅子がきしむ音、そして外の風が窓を叩く音だけだった。蛍光灯が微かに唸っている。その音が、妙に大きく感じられた。


黒田は一番後ろの席で机に肘をついて座っていた。資料には目もくれず虚空を見つめている。その横顔に表情はなかった。ただ何かを噛み締めているような、固い顎のラインがあった。

一拍置いて、黒田の低い声が響いた。

「それ、誰のための話や」

視線が一斉に黒田に集まる。進行役の役員が困り顔で資料を指さした。

「条件があります。税金を使う以上は外に出せる基準を作らないと……説明責任が必要なんです」

「分かっとる」

黒田は頷いた。そして声を少し落として、ゆっくりと話し始めた。

「今、やっとる夜の見回りも、ゴミ拾いも、誰かの話し相手も……全部が数字にならん。評価にもならん、効率も悪い。でも、要る」

場の空気がピーンと張り詰めた。誰も息をしていないような静けさだった。


黒田は資料を指の背でコンコンと叩きながら続けた。その音だけが静寂の中で規則的に響く。

「それ無理やろ? 成果を数値で示せ言うても『誰がどれだけ楽になったか』なんて測れへんし、測ろうとした時点で、それはもう『業務』や。『優しさ』やない」

役員がペンを置いた。カチリという小さな音が、やけに大きく聞こえた。

「それでは……説明ができません。結果的に予算は下りません」

「せやな」

黒田は否定しなかった。代わりに驚くことを言ってのけた。

「せやから、やらん」


時間が止まった。

全員が黒田の顔を凝視する。誰かが息を呑む音が聞こえた。望は自分の心臓の音が聞こえるような気がした。

「金も要らん、評価も要らん、町の公認も要らん」

どこかで大きく息を吸い込む音がした。予算を諦めるということは、補修も備品もすべて自腹ということだ。それは活動の終わりを意味する、はずだった。


「ただし」

黒田は椅子に深く座り直した。背もたれが小さく軋む。その目は、かつてないほど鋭かった。蛍光灯の光が黒田の顔を真上から照らし、目の奥に深い影を落としている。

「やることは、減らさん」

一語一語、区切るように言った。


「誰かの傍を楽にする。気づいた奴が気づいた時に動く。それだけや」

沈黙の中、若手の店主が恐る恐る手を挙げた。その手が微かに震えている。

「……それは、ボランティアですか? 金も貰わず、評価もされず、ただ動くというのは、善意のボランティア活動ということですか?」

黒田は大きく首を横に振り、断定するように答えた。

「違う」

その一言が、室内に落ちた。


「ボランティアは『善意』や。やりたい時にやって、やりたくなければ辞められる。感謝されれば嬉しいし、されなければ腹が立つ」

黒田は少し間を置いた。外の風が一段と強く窓を揺らした。

「ボランティアとこれは違う。これは『労働』なんや」

労働、だけど対価はない。契約書もない。それでも黒田はそれを労働と呼ぶ。たまりかねて別の店主が椅子を軋らせながら身を乗り出した。

「じゃあ……これは何なんですか? 金にならない労働なんて何と呼べばいいんですか?」


黒田は少し考えた。腹の底にある言葉を確かめるように、ゆっくりと引き出した。

視線を一度落とし、それから顔を上げる。

「ブラック企業や」

その言葉が爆弾のように、集会所の静寂に落ちた。

誰かが苦笑した。自虐的な冗談だと思ったのだ。しかし黒田の目は笑っていない。真剣な顔だった。その表情を見て笑った店主の顔から笑みが消えた。


「時間は長いし定時なんかない。楽でもない、ドブさらいもする。誰も褒めん、おまけに福利厚生もない」

黒田は一度深く息を吸った。そして言い切った。

「それでも、やる。やらんと誰かが詰まるからや」

誰も反論できなかった。なぜなら、その場にいる全員がその「ブラックな労働」によって守られていることを知っていたからだ。

夜の見回り。ゴミ拾い。トラブルの仲裁。それらがなければ、この商店街はとっくに死んでいた。


「ただし搾取はせえへん。他人にも強制はせんし、命も削らせん。辞めたければ、いつでも辞めてええ」

黒田の声が、少しだけ柔らかくなった。

「ただ……」

言葉を区切る。蛍光灯の光の下で黒田の目がゆっくりと全員を見渡した。

「ここに居る間は本気でやる。見返りがなくても手ぇ抜かんとやる」

それは、この世で最も厳しい雇用条件だった。甘えがない上に嘘もない。

そして何よりも逃げ場がない。


望は胸の奥に散らばっていたピースが一本の線に繋がるのを感じていた。

ブラック企業。それは世間で言うところの悪の代名詞だ。人を使い捨て心を壊す場所。

望自身も、かつてそう信じていた。長時間労働。パワハラ。サービス残業。そういう暗黒の象徴として、その言葉を使ってきた。

ところが、黒田の言うそれは違う。「ホワイト(潔白・正しさ)」であろうとして、大切なものを切り捨てる現代社会への強烈なアンチテーゼだ。

正しさの名の下に人を切り、制度の名の下に心を殺す。それよりも泥臭く、不格好でも目の前の人間から逃げない生き方。


望の喉が、じわりと熱くなった。

「……ブラックとは、いったい何ですか?」

望は黒田の定義を知りたかった。自分の声が少し上ずっているのが分かった。

黒田は望に顔を向けた。望は黒田の目を見て気づいた。その瞳の奥には、かつて組織で人を切り絶望した男の影があることを。そして同時に、そこから這い上がってきた男の静かな強さがあることを。


黒田が答えた。

「逃げ道がない、いうことや」

一拍、置く。

「『制度だから』と逃げん。『予算がないから』と逃げん。『評価されないから』と逃げん」

黒田の声が一段低くなった。

「目の前の困っとる人から、絶対に逃げん。それを、ブラックと呼ぶなら……」

黒田が意地悪そうにニヤリと笑った。悪役のように見える。だが誰よりも頼もしい笑顔だと望は感じた。その笑顔には、すべてを背負う覚悟があった。


「ワイは喜んでブラック企業をやったる」

開き直ったわけではない。ただの事実確認というよりも生き方の宣言に聞こえた。

望の体の芯が熱くなった。息を吸うたびに胸の奥が熱い。ゆっくりと息を吐いて興奮を抑えようとしたが、抑えきれなかった。なぜなら、それは望自身が選んできた立ち位置そのものだったからだ。

会社では出世という逃げ道を捨てた。商店街では外部という逃げ道を捨て内部にどっぷり浸かった。どちらも楽ではない。むしろ辛いことばかりだ。それでも自分は逃げていない。だからこそ黒田の覚悟の発言が、望の心を熱くした。


望はパイプ椅子の座面を両手で強く握った。金属の冷たさが手のひらに伝わる。それでも胸の熱は収まらなかった。

黒田は続けた。

「ワイはな、自分を一人だけのブラック企業にするつもりやった。せやけど……物好きな社員が増えてきよったわ」

視線が望と周りの店主たちに向けられる。相変わらず黒田は意地悪そうな笑みを浮かべている。だがその目は、どこか温かかった。


「我こそはブラック企業」

黒田は椅子から立ち上がった。その影が蛍光灯の光を遮り長く床に伸びる。

「文句あるか?」

行動で示してきた黒田の発言と、その覚悟に文句を言う輩などいなかった。むしろ何人かは小さく笑いながら頷いている。和菓子屋の女将が目頭を押さえていた。惣菜屋の店主は腕を組んで天井を見上げている。


本来の議題であった予算の資料は、とっくに机の端に追いやられていた。その紙の束が、もう何の意味も持たないもののように見えた。ここにはお金よりも重い「契約」が結ばれたのだ。

望は、その契約書に心の中でサインをした。


まだ自分には黒田ほどの覚悟を言葉にできない。それでもその意味は分かっているつもりだ。我こそはブラック企業。それは「傍を楽にする」ために自分の命を燃やす生き方の名前だ。


窓の外の風が止んだ。蛍光灯の音だけが静かに響いている。集会所の中には新しい空気が流れ始めていた。それは重いが温かかった。

誰も言葉を発しない。ただ黙って、それぞれが何かを噛み締めている。


望は目を閉じた。この瞬間を忘れたくなかった。



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