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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第43話:説明の代償

タイミングとしては最悪だった。

黒田の過去を聞いた翌日。商店街の集会所に、役所の担当者がやってきた。

一人ではない。上司らしき人物を連れている。

集会所の中はひんやりとしていた。石油ストーブはまだ点いていない。パイプ椅子が壁際に並び、ホワイトボードには前回の会議の痕跡が薄く残っている。窓の外には曇り空が広がっていた。


「確認したいことがありまして」

言葉は丁寧だ。手には分厚いファイルがある。二人は椅子に座り、そのファイルを白い長机の上に置いた。カバーの端が少し擦り切れている。何度も会議に持ち歩かれてきたファイルだ。


「傍楽マイレージについて、庁内でも議論になりまして」

上司らしき男が切り出した。

「面白い取り組みだ、という声と、基準が曖昧すぎる、という声があります」


当然の反応だ。

「そこで、ガイドラインを作っていただけませんか?」

望は反射的に身構えた。椅子の背もたれに背中を当てたまま、手が自然と膝の上に置かれる。


「どのようなものでしょうか?」

「簡単で結構です」

男は資料を広げた。紙の束が机の上で音を立てる。


「どういう行動が評価対象になるのか? 一ポイントあたり、どの程度の労働換算なのか? 不正を防ぐために、どんなチェックをしているのか?」


もっともだ。行政として、予算を出す側としてあまりに正しい要求だ。

以前の望なら、すぐに答えていただろう。「整理します」「可視化します」「マニュアルを作ります」

——それが自分の仕事だと思っていたからだ。

だが今は言葉が出ない。昨夜の黒田の話が、喉元でつかえている。


——名前を付けたら、管理される。

——管理されたら、弱いもんから死んでいく。


ガイドラインを作る。それは「基準から外れた善意」を切り捨てることだ。

見回りのついでに話す雑談。気まぐれなゴミ拾い。マニュアルには書けない小さな配慮。それらが「ポイントにならない無駄」として扱われる未来が、はっきりと見えた。


望の視線が、机の上の資料に落ちた。きれいに整えられた文字が並んでいる。その一つ一つが、現場を型に嵌める枠のように見えた。


「……高井さん?」

返事をしない望を、担当者が不思議そうに見る。


「難しいことではありません。今までやってきたことを、書き出すだけでいいんです。そうすれば、来期の予算も通りやすくなります」

善意の提案だ。彼らは商店街を助けようとしてくれている。だからこそ厄介だった。


「……書き出せません」

望は絞り出すように言った。自分の声が、集会所の冷たい空気の中で妙に小さく聞こえた。

男の表情が曇る。


「なぜですか?」

「書けば、それがルールになるからです。ルールがあれば、ルール以外のことをしなくなります」

男は眉をひそめた。

「性悪説ですね」

「違います」

望の声が、少し大きくなる。必死だった。

かつての黒田が味わった絶望を、ここで繰り返してはいけない。


「人は、評価される方向に流れるんです。信用していただくしかありません……成果物は、今の商店街の空気です。それ以上は、分解できません」

論理としては破綻している。自分でも分かっている。

男は、ため息をついた。

「気持ちは分かりますが、それでは説明がつかない。公金を使う以上、説明責任が……」

平行線だった。


「……そうですか」

担当者が分厚いファイルを閉じた。パタン、という乾いた音が静まり返った集会所に響いた。望は息を吸うのを忘れていた。閉じられた音が耳の奥で反響する。


「整理ができたら、また聞かせてください」

白い長机の上に名刺が置かれた。その一枚の紙が、妙に大きく見えた。

それは行政からの「期待」であり、同時に「執行猶予」の通告でもあった。答えを持ってくるまでは、この扉は開かない。そんな無言の圧力が、小さな紙片から立ち昇っていた。

二人の背中が見えなくなるまで頭を下げ、望は重い引き戸を閉めた。


外に出ると、空が低かった。雨が降る手前の、鉛色の雲が垂れ込めている。

湿った風が頬を撫でていった。ひんやりとした空気が肺に入り込んで、望はそのまましばらく動けなかった。体の芯が冷えている。集会所の中の冷たさが、まだ抜けきっていなかった。


望は肺の底に溜まった何かを吐き出すように、深く息をした。白い息が出そうな気がしたが、まだそこまで寒くはなかった。


「説明、できへんかったな」

声がした。


声の方向を見ると、いつの間にか黒田が立っていた。いつからそこにいたのだろう。自販機の明かりも届かない暗がりに、通りの一部のように立っていた。煙草の先だけが、小さな赤い点として浮かんでいる。

「……はい」

望は視線をアスファルトに落としたまま答えた。

「言葉にしようとすればするほど、何かがこぼれ落ちていく気がして……嘘をついているような気分になりました」


黒田は何も言わない。肯定も否定もせず、ただ紫煙をくゆらせている。

煙が夜の空気に溶けていく。


「でも」

望は顔を上げた。

「説明できないと広がりません。予算もつきません。このままじゃ……続きません」


それは活動が途絶えることへの純粋な恐怖だった。自分が始めたことが、無理解の海に飲まれて消えてしまう恐怖。

黒田は吸い殻を携帯灰皿にしまい、ゆっくりと歩き出した。数歩進んでから、背中越しに言った。

「続かせるために、始めたんか?」


望の足が、凍りついたように止まった。

その問いが胸の真ん中に落ちてきて、体が動かなくなった。


「……え?」

「お前が守りたいんは、この商店街か? それとも『傍楽マイレージ』いう制度か?」

「それは……」

同じだ、と言おうとして喉が詰まった。同じではない。

制度を守るために現場を型に嵌めようとした瞬間、それは別物になる。望は自分の拳が、無意識に握られていることに気づいた。


「説明はな……」

黒田は、暗い通りの先を見たまま続けた。

「相手のためにするもんや。相手が分からんで困っとるから道案内したる。それが説明や」


黒田が振り返った。街灯の光が横から黒田の顔を照らしている。

その目は、かつてないほど静かで深かった。


「せやけど、自分のためにすると……嘘になる。自分の立場を守るため。予算を取るため。自分が『正しかった』と証明するため。そのために言葉を尽くせば尽くすほど、本質は歪む。現場は死ぬ」


その言葉が鋭利な杭となって、望の胸の中心に打ち込まれた。

今の自分はどうだったか。「分かってもらいたい」ではなく、「認めさせたい」ではなかったか。制度を存続させるという「自分の都合」のために、現場の空気を切り売りしようとしていなかっただろうか。


説明できない自分が悪いのではない。説明しようとする動機が、すでに濁っていたのだ。

「……黒田さんも、そうだったんですか」

望は震える声で聞いた。かつて彼が組織にいた頃。名前を付け、制度にし、そして仲間を失ったあの日。


黒田は答えなかった。ただ寂しげに口の端を歪め、再び前を向いて歩き出した。

その背中が、少しずつ暗闇に溶けていく。

望はその背中を見つめた。今自分が立っている場所が、はっきりと分かった。かつて黒田が立っていた、あの「白い会議室」だ。正しさと現場。制度と人間。その狭間で彼は引き裂かれ、そしてすり潰された。


歴史はまた、繰り返そうとしている。同じ問いが形を変えて望の目の前にある。

名前を付けるか。付けずに野垂れ死ぬか。

望は拳を握りしめ黒田の後を追った。まだ答えはない。上手い説明も、解決策も見つからない。

でも一つだけ確かなことがあった。「自分のために説明はしない」——その戒めだけを、命綱のように握りしめていくしかない。


説明できないまま進む。それは恐怖だった。

それでも望は黒田の背中を追いながら、初めて二人が同じ道を歩いている気がした。


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