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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第6章】「正しさは人を救うのか」 ―ブラック企業という生き方―
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第41話:名前を付けた日

雨はまだ降り続けていた。アーケードの外縁から細い水の筋が垂れ落ち、石畳に小さな川を作っている。黒田はシャッターの閉まった薬局の軒先で立ち止まり、煙草を取り出したが火はつけなかった。ただ指の間で持て余すように回しながら、どこか遠いところを見ていた。

黒田は不動産屋だ。だが、彼が物件の仲介で生計を立てているところを、望は見たことがない。彼はいつも、空き物件の管理や家賃の相談、あるいは身寄りのない店主の「その後」の相談に乗っていた。彼が町の問題を誰より早く察知できるのは、この町の「箱」と「人」の結びつきを、すべて把握しているからなのだ。望はその隣に並んで次の言葉を待った。


それは黒田がこの商店街に流れ着く前。まだ企業という巨大な組織の中でチームを率いていた頃の話だった。悪い出来事から始まったわけではなかった。むしろ現場の評判はすこぶる良かった。

「助かっています」「黒田さんのチームは、なぜかミスが起きない」「空気がいい」

そんな声が当時の黒田のもとに届いていた。やっていたことは単純なことだ。「一割の余白」、それだけの取り決めだった。


「スケジュールを百パーセント埋めるな。九十パーセントで止めろ。残りの十パーセントは何に使ってもいい。報告もいらん」

黒田は部下たちにそう徹底させていた。その「名前のない十パーセント」の時間で、部下たちは自然と動いた。隣の席の人間が困っていたら手を貸す。マニュアルの分かりにくい部分を勝手に書き直しておく。疲れている同僚の愚痴を聞く。あるいは、ただぼんやりと思考を整理する。

強制も評価もなかった。だからこそ、その時間は「チームのための潤滑油」として機能していた。誰かが遅れれば誰かの余白がそれを埋める。柔らかいスクラムが組まれていた。


望は目を閉じて、その光景を想像した。数字では測れない豊かさが確かにそこにあったはずだ。そして今の商店街と、どこか重なって見えた。


しかし組織はそれを「見えないもの」として許さなかった。

「この十パーセントの空き時間は、何ですか?」

会議の席で経営企画の人間が指摘した。黒田は嫌な予感を覚えた。会議室の空調が低く唸り、プロジェクターの光が白い壁を照らしている。そういう無機質な場所でこそ、大事なものが静かに殺されていく。


「予備の時間だ。何かあったときのために空けてある」

「何もなければ?」

「何もなければ、それでいい。それが一番の成果だ」

黒田は突っぱねた。しかし正論は、数字の前では無力だった。


「稼働率が九十パーセントというのは、単純に損失です。十パーセントの人件費が使途不明のまま消えていることになる。株主に説明できません」

誰も悪気はなかった。彼らもまた会社の利益を最大化しようとしていたのだ。その誠実さが、余計に始末に負えなかった。


「名前を、付けましょう」

誰かが言った。その一言で流れが決まってしまった。会議室の空気が、すっと変わる。反論の余地が塞がれていく感覚を黒田は肌で感じていた。

「この十パーセントを『チーム貢献活動』と定義します。活動内容を日報に書き、可視化してください。そうすれば、予算として認められます」

黒田は抵抗した。

「名前なんか要らん。報告させたら、それはもう業務や」

「仮の分類ですよ」「形式上のことです」「黒田さんのやっている素晴らしい取り組みを、全社に広げるためです」


善意の包囲網だった。黒田は渋々その条件を飲んだ。飲まざるを得なかった。反対し続ける理由を、正論の言葉では説明できなかったからだ。

こうして十パーセントの余白に名前が付けられた。資料に載り、マニュアル化され、全社に通達された。

『チーム貢献活動』

前向きで素晴らしい響きだった。


しかし黒田の懸念は最悪の形で現実になった。最初の変化は報告書に現れた。

「同僚の相談に乗った」「資料の誤字を修正した」

部下たちは必死に「十パーセントの中身」を埋めようとし始めた。空欄だと「サボっている」と思われるからだ。些細な行動まで針小棒大に書くようになる。


「今月の貢献活動、A君は少ないですね」「B君の内容は、生産性が低いのではないですか?」

いつの間にか評価の目が入り込んだ。「困っている人を助ける」ことではなく「立派な報告を書く」ことが目的になった。


そして、決定的な崩壊が起きた。

「C君の支援に時間を使いすぎています」

上層部がデータを見て言った。C君は要領が悪くミスも多い社員だった。だがムードメーカーであり、彼がいるだけでチームが明るくなった。以前は周囲が「余白」を使って彼をカバーし、彼もまた雑用を引き受けることでチームは回っていた。


しかし名前が付いたことで、その関係が「コスト」として可視化されてしまった。

「彼を助けるために他の社員の稼働率が下がっている。彼はチームの負担になっている」

数字は、残酷なほど正確だった。


「最初の話と違う!」

黒田は役員室で声を上げた。

「助け合うための時間だったはずだ。なぜそれを人を切る材料にする!」

「公平性を守るためです」

役員は静かに答えた。眉一つ動かない顔が余計に黒田の怒りを宙に浮かせた。


「貢献活動のデータが、彼の能力不足を証明してしまいました。これ以上、彼にコストはかけられません」

反論は許されなかった。黒田自身が作った「余白」が、名前を付けられたことで「証拠」に変わり仲間を刺したのだ。


C君は切られた。

去り際、彼は黒田に謝った。

「僕のせいで皆さんの評価を下げてしまって、すみませんでした」

その言葉を聞いた瞬間、黒田の中で何かが完全に砕け散った。


望は胸の奥が締め付けられるのを感じた。謝ったのだ。切られた側が。守れなかった人間に向かって。その理不尽さの重さが、雨音の中でじわじわと染み込んでくる。

名前が付いた時点で、それはもう「助け合い」ではなかった。ただの「相互監視」と「足の引っ張り合い」だった。


雨音が商店街に戻ってくる。黒田は傘もささずに歩いている。軒先の水が石畳を叩き、ぱちぱちと小さな音を立てていた。


「それ以来や」

淡々とそう言った。

「名前を付けたら管理される。管理されたら比較される。比較されたら……弱いもんから死んでいく」

それは愚痴ではなかった。血の滲むような、後悔の告白だった。


「ワシは制度を守って、部下を殺したんや」

望は何も言わなかった。頭の中で「傍楽マイレージ」という言葉が浮かんで、急に重く冷たく感じられた。仮の名前。仮の制度。説明のための言葉。望はそう言って自分を納得させてきた。でもそれは、かつての黒田もそうだったはずだ。「仮だから」「形式上だから」と妥協した結果、取り返しのつかないことになった。

望は濡れた石畳を見つめながら、自分の手のひらをそっと開いた。この手で書いたホワイトボードの文字が、いつか誰かを傷つける凶器になる日が来るかもしれない。その可能性が手のひらの上に静かに載った。


「高井」

黒田が立ち止まる。

「お前の作った『マイレージ』も、いつか牙を剥くぞ。そのときお前は制度を捨てて人を守れるか?」

その問いは、鋭い刃物のように望に突きつけられた。


望は濡れたアスファルトを見つめた。「はい」と即答できる自分が、まだいなかった。その正直さだけが今の望にできる唯一の誠実さだった。


軒先から水が一筋、石畳に落ちて弾けた。

黒田の取り組みに名前を付けた日。それは何かが始まり、同時に何かが終わった日だった。その教訓が亡霊のように二人の間を漂い、雨の夜に溶けていった。

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