第40話:正しさに殺される
黒田が過去の話を自分からすることは殆どなかった。聞いてもはぐらかすか、冗談にして煙に巻く。それが彼のスタイルだった。
その日は違った。雨が静かに降っていた。
「……今日はこれぐらいにしとくか」
黒田が、古びたシャッターを半分まで下ろした。
アーケードの端、文字のいくつかが脱落し、夜目には「黒田 産」としか読めない看板が、雨に濡れて鈍く光っている。そこが黒田の本拠地であり、町に唯一残った不動産屋だった。
アーケードのトタン屋根を雨粒が叩く音だけが絶え間なく響いている。湿った空気が商店街の通りに沈殿し、人影もまばらだ。シャッターの前に水たまりができていて街灯の光がその表面でゆらゆらと揺れていた。世界が、雨音というカーテンで閉ざされたような夜だった。
しばらく二人で無言のまま通りを歩いていた。黒田は何かを言いたそうにして言わない。その沈黙がいつもと少し違う重さを持っていることに望は気づいていた。だから余計なことを言わず、ただ雨音を聞きながら並んでいた。
「昔な」
黒田は足を止めずに言った。ポケットに手を突っ込み少し前を歩く背中が独り言のように呟く。
「ワイも、正しいことをやっとった」
望は何も言わなかった。雨音だけが続いている。
「効率も、数字も、筋も。全部間違ってへんかった。現場もよう見とったつもりや。サボっとる奴も頑張っとる奴も、ちゃんと把握しとった」
黒田の声はいつものべらんめえ口調だが、どこか理路整然としていた。かつて彼が優秀な管理者だったことの片鱗が見える。今の黒田しか知らない望には少しだけ違和感があった。
「せやから信用された。上からも下からもな。『黒田に任せとけば間違いはない』言われたわ」
黒田は自嘲気味に鼻を鳴らした。
「あるときな」
雨音が少しだけ強くなる。トタン屋根を叩く音が一段高くなり水たまりの表面が細かく波立った。
「一つの案件で、人を切ることになった」
言い方は淡々としている。しかし言葉の重みが湿った空気を震わせた。リストラ、人員整理、最適化。呼び方はどうあれ意味は一つだ。
「数字は足りとった。切る理由は揃っとった。会社の方針も手続きも、完璧や。誰が見ても『正しい経営判断』やった」
望の胸がキリっと痛む。ITの現場でもよくある話だ。非情なのではない、合理的なのだ。そう言い聞かせてきた場面を、望自身もいくつか知っていた。
「切られたんは、一番声を出さん奴やった」
黒田は一瞬だけ目を伏せた。
「会議でも発言せん。飲み会にも来ん。目立った成果も上げん、地味な男やった。でもな」
黒田の声が、少しだけ震えた。
「文句も言わんかった。誰もやりたがらん面倒な下準備は、全部そいつがやっとった。そいつがおる時は、なぜか会議が荒れへんかった」
潤滑油。緩衝材。名前のない仕事をする人。
望の頭に、今の商店街の店主たちの顔が浮かんだ。そして、かつての自分のチームにいた、あの新人の顔が浮かんだ。口数が少くていつも最後まで残って作業していた。誰も礼を言わなかった。望自身もそうだった。
「ワイは反対した」
黒田は短く言った。
「その人がおらんと現場が回らんって。数字に出えへんだけで、一番大事な役割をしとるって。でも通らんかった」
答えは決まっていたのだ。「感情論で経営はできない」「例外を作ると全体が崩れる」「数字で証明できない貢献は、貢献ではない」——隙のない正論。その「正しさ」という名の凶器で、黒田は説き伏せられた。いや、彼自身がその凶器の使い手だったからこそ反論できなかったのかもしれない。
「結局な、切られた」
それだけだった。あっけない幕切れ。
「……そのあと、どうなったんですか?」
望は声を絞り出して聞いた。内心では現場が崩壊して会社が後悔すればよかったのに。そう願った。だが、現実は違った。
「現場は、荒れた」
黒田は即答した。
「辞める奴が増えた。ミスも増えた。みんな疑心暗鬼になって自分の仕事しかせんようになった。空気は完全に死んだ。でもな……」
黒田は、雨に濡れた路地を見つめたまま言った。
「プロジェクトは成功したんや」
望は息を呑んだ。返す言葉が見つからなかった。
「人件費が浮いた分、利益が出た。数字は良くなった。株主の評価も上がった。ワイも褒められた。『よく情を捨てて、正しい判断をした』ってな」
その言葉が一番重く、残酷だった。失敗ではない。大成功だったのだ。人の心を殺した対価として莫大な成果を得た。望はじっと黒田の横顔を見た。雨粒がアーケードの縁から滴り落ちて石畳を濡らしている。褒められたとき、黒田はどんな顔をしたのだろう。それを想像しようとしたが、望はできなかった。
「正しかったんや」
黒田は、そう言って笑った。雨音にかき消されそうな乾いた笑いだった。
「正しい判断で人が消えた。正しい判断で現場の心が死んだ。それでも会社にとっては『正しかった』。そのとき、分かった」
黒田はただ、自分の手のひらを見つめて言った。街灯の光が手のひらに反射して、その皺の一本一本まで照らし出している。
「正しさはな、人を救わん」
雨音が続く。
「正しさは、人を切るための道具や」
望は喉が渇くのを感じた。これは過去の話ではない。今この瞬間も世界中で繰り返されている話だ。そして望自身が会社で求められていることでもある。数字。効率。判断。自分もいつか、同じ凶器を手に取る日が来るかもしれない。その可能性が、じわりと足元から這い上がってきた。
「殺されたんは、誰やと思う?」
黒田が初めて問いを投げた。
望は答えられない。切られた男か。それとも残された社員か。
「……ワイや」
黒田の声が雨音に溶ける。
「あいつの首を切ったとき、ワイの中の何かも死んだ。正しさで成功して出世して……その先にあったんは、砂漠みたいな場所やった。それ以来な」
黒田は、歩き出す。
「正しいことは、もうやらん」
望は思わず背中に声をかけた。
「それは……極端じゃありませんか。正しさがなければ、守れないものもあります」
黒田は振り返らない。
「せやな. せやけどワイはもう選ばん」
少し間があった。雨粒が石畳を叩く音の合間に、黒田の低い声が落ちてきた。
「正しいことをやらん代わりに、傍におることにした。数字で救う代わりに、手で触れる範囲だけを守ることにした」
望は立ち尽くした。黒田の背中が雨の中で少しずつ小さくなっていく。彼は「正しさ」を否定しているのではない。「正しさ」が主役になることで起きる悲劇を、誰よりも恐れているのだ。だから敢えて、効率の悪い、泥臭いブラックなやり方を選んでいる。
「高井」
黒田の声が背中越しに届く。
「お前はな、まだ正しさに期待しとる」
責めではなかった。事実確認だ。ITで、仕組みで、論理で、世界は良くなると信じている。
「それが悪いとは言わん。若い時はそれでええ。でもな」
黒田は一度だけ振り返った。その目は雨に濡れて、泣いているようにも見えた。街灯の光が黒田の輪郭を薄く縁取り、その向こうに雨の帳が続いている。
「正しさに殺される前に」
一拍、置く。
「自分で降りる場所、決めとけ」
それは警告であり、遺言のようにも響いた。
黒田の背中が雨の中に消えていく。望はその場から動けないまま、しばらくその背中を見送っていた。雨はいつの間にか小降りになっていた。アーケードを叩く音が遠のき、水たまりの波紋も静かになっていく。
それなのに望の胸の中では、まだ冷たい雨が降り続いていた。黒田が失ったものの大きさと、自分がこれから直面する選択の重さが、じわじわと体の芯に染み込んでくる。石畳の水たまりに映る街灯の光が、風もないのにゆらゆらと揺れていた。




