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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第1章】正しさは役に立つか -ブラックの合理性-
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第4話:消えた席

翌週、オフィスの景色が少しだけ変わった。

といっても、机が増えたわけでも、配置が大きく変わったわけでもない。

空いた席が一つ、そのままになっているだけだった。


新人の席だ。

しかし誰も、そのことには触れなかった。触れる必要がないからだ。

業務は回っている上に、数字は改善してきている。


余計な確認が減り、説明にかかる時間が省かれた。

進捗会議も短くなった。


「全体的に、スムーズになりましたね」

上司がそう言い、周囲が小さく頷いた。


望も、同じことを思っていた


――確かに結果は出ている

――やっぱり、これが正解なんだ


新人が抜けた穴は、想像していたよりも簡単に埋まった。

正確には、誰かが少しずつ負担を増やしただけなのだが、その「少し」は誰の顔にも表れなかった。

忙しいのは、もともと同じなのだ。


昼休み、望は自席でコンビニ弁当を食べながら、無意識に空いた席を見た。

私物はすべて撤去され、デスクの上はアルコールで拭き上げられたように白く光っていた。

LANケーブルは綺麗に束ねられ、モニターは真っ黒な画面を晒している。


まるで最初から、そこには誰も座っていなかったかのようだった。

エラーは排除され、システムは正常化された。痕跡すら残さない。


――仕事は、そういうものだ


望がそう思おうとした瞬間、また胸の奥に、あの違和感が顔を出す。

消せないキャッシュデータのように、しつこく残っている。

新人が最後に何か言っていたかどうか……、望は全く思い出せなかった。


あの新人に話しかける機会はあったし、声をかけることもできた。

それでも、自分は何もしなかった。

そしてそれは、正しい判断だった――、そう結論づけたはずなのに。


その日の帰り、望はまた商店街を歩いて帰ることにした。

頭で考える理由は同じ、自宅への近道だから。


夕方の商店街通りは、相変わらず静かだった。

店は開いているし、人もいる。

でもそれは、賑わいと呼べるほどではない。


通りの端で、誰かが声を上げている。

近づくと、古い自転車の前で中年の女性が困った顔をしていた。

チェーンが外れているらしい。


その横に、見覚えのある背中がしゃがみ込んでいた。

黒田だ。


「……また、やってるんですか」

望が声をかけると、黒田は振り返らずに答えた。


「外れたもんは、直すしかないやろ」

「業者を呼べばいいのでは?」


「待たせるやろ」

それだけの理由だった。


黒田は手を動かしながら、ぼそりと言った。

「今日は、三件目や」


「三件?」

「雨漏りと、鍵と、これ」


望は、言葉を失った。

どれも、金にならない仕事だ。


「……効率、悪くありませんか?」


黒田は、ようやく顔を上げた。

「せやな」


あっさり認める。

その頬には、黒い油の染みが一つ付いていた。


「でもな」


黒田は真っ黒に汚れた軍手でチェーンを掴み、ギアへと噛み合わせる。

カチャン、と硬い金属音が響いた。

ペダルを回すと後輪が勢いよく空転し、滑らかな音を立てる。


「誰かが困っとる時間を短くするのは、効率やと思うで」


女性が、何度も頭を下げた。

「本当に助かりました」


黒田は軍手を外し手を振ると、その女性は何度も頭を下げながらその場を離れた。

望は何も言えずに、その様子を見ていた。


会社では、一人がいなくなっても仕事は回る。

ここでは、一人が動かなければ誰かの時間が止まったままになる。


どちらが正しいのか、今の自分にはまだ分からない。

オフィスの白く漂白されたデスクと、黒田の指先に残った油汚れだけが、対照的に焼き付いていた。


「……お疲れさまです」

歩き去ろうとする黒田の背中に向けて望がそう言うと、黒田は軽く手を上げた。


「ほな、また」

それだけだった。


何mか歩いた後、黒田は振り返らずに言った。

「正しい判断はな、たいてい後から来る」


望は言葉の意味を理解できなかったが、なぜか胸の奥の違和感が、少しずつ形を持ち始めているような感じがした。


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